恋の栞

夏木 蒼

恋の栞

 電車の中で本を読む人が減った気がする。


 通勤ラッシュ、と言うほど混んでいるわけでもない、ローカル線の朝の車内。

 ふと文庫本から目を上げて、辺りを見渡すが、本を読んでいるのは自分を含めて数人だけ。だいたいの人はスマホを見ているか、俯いて寝ているかのどちらかだ。

 最近はスマホがあればなんでも事足りるから、当たり前か。

 そう思いつつ本に目を戻した瞬間、電車が大きく揺れた。いつもより揺れが激しいので、どうやら今日の運転手は新米のようだ。

 立っていた私は転びそうになり、慌ててつり革を掴む。その拍子に、本に挟んでいた栞が滑り落ちた。

 風に舞う葉のように落ちた栞は、斜め前に座っている男性の足元にはらりと着地する。

「あ」

 思わず声が出た。心臓が跳ねる。

 その男性は、以前から私が意識していた人だったから。



 彼は毎朝、本を片手に電車に乗っている。

 ネクタイがいつも少し歪んでいて、まだスーツが体に馴染んでいない。多分、私と同じように新卒で就職したのだろう。

 真剣な表情でページを捲ったかと思いきや、ふっと急に笑ったりする。

 どんな本を読んでいるんだろう。

 そんな興味が湧くのは、読書家としてのさがだと思いたい。下心がないとは言い切れないけれど。

 くるくる変わる表情に惹かれ、私は本を読むふりをして、よく彼を盗み見ていた。


 私の視線の先を辿り、足元に落ちている栞に気づいた彼は、ぱたんと持っていた本を閉じる。骨張った細い指でそっと栞を拾い上げた。

「あなたの?」

「……はい」

 頷いてそう返すのが精一杯だった。元々男性と話すことに慣れていないせいもあるけれど、前から気になっていた人といきなり話せという方が無茶だろう。

「綺麗な栞ですね」

 口角を上げて彼は微笑む。落とした栞は私の手作りで、四葉のクローバーをラミネートしたものだ。

 口の中で小さく、ありがとうございます、と呟く。

 ああ、もっとちゃんと話したいのに。目を見ることすら恥ずかしくてできない。



 はい、と栞を手渡される。手が震えないように、慎重に受け取った。

 彼は私を見て微笑んだ後、また文庫本に目を戻す。

 このままでは何も話せずに終わってしまう。

 何か、何か話さなきゃ。

 咄嗟に、

「あの、何読んでいらっしゃるんですか」

 そんなことを聞いてしまった。

 本から顔を上げて、彼は首を傾げる。

 いきなりそんなことを聞くなんて、変な女って思われた? でも、それ以外に話題なんか思いつかない。

 やっぱりなんでもないです、と言おうと口を開いたところで、

「僕ですか?」

 彼は自分を指差した。慌てて私はこくこくと何度も頷く。

「はい、あの、本を読んでいる方が少ないので仲間意識というか…」

 こじつけのような理由をもごもごと説明すると、くくっと彼は下を向いて少し笑った。

 彼は本のカバーを外して見せる。驚いたことに、私が今読んでいる本と同じ作者の本だった。

「あなたは?」

 お返しのように聞かれ、私も彼に表紙をおずおずと見せた。

「同じ作者さんじゃないですか!」

 この作者さんの本面白いですよね、と彼の顔が明るくなった。


 神様ありがとう、と思わず心の中で拝む。普段は神様なんて信じていないけれど。

 昨日、たまたま立ち寄った本屋で目に止まったのが、今読んでいるこの本だった。女性誌を買うか本を買うか悩んで、こちらに決めた。

 なんという巡り合わせ! この本を選んだのはきっと神様の思し召しに違いない!

 何の神様かはわからないが、とりあえず今度神社に行ったらお礼を言おう、と心に決める。


「私、この作者さんの本読むのはこのお話が初めてなんですけれど、何かおすすめありますか?」

 そう聞くと、彼は更に嬉しそうな顔になった。この作者のファンなのか、何冊もおすすめの本を挙げる。忘れないように、私は慌ててスマホを取り出してメモに記録した。

 また読んでみます、と目一杯の笑顔を作ると、彼も嬉しそうに微笑んだ。



 ゆっくりと電車が減速し始める。

 まだ、全然話し足りない。非情にも、私の降りる駅が近づいていた。

「次で降りないと」

 呟いて、栞を本に挟む。

 それを見た彼が、ふと口を開いた。

「今読んでるこの本、図書館で借りたからか栞が無くて。毎回どこまで読んだかわからなくなるんですよね」

 困ったように言う彼。

 電車はホームにゆるゆると滑り込む。

 名前も連絡先も、何も聞けていない。じゃあ、せめて──

「あ、あの! ……これ、あげます!」

 私は本から栞を抜いて差し出した。

「え、でもあなたが困るんじゃ」

 戸惑う彼に笑いかけて、

「今度、読み終わった時に返してくだされば大丈夫です」

 そう言うのが精一杯だった。顔が赤くなっているのが、鏡を見なくてもわかる。



 ブレーキ音とともに電車が止まった。

 では、と背を向けてドアの方に向かおうとした時。

「じゃあ、また明日」

 そんな声が飛んできた。

 ぱっと振り返ると、彼の頬も少し赤く染まっている。

「いつもこの電車に乗ってますもんね」

 ほんの少し目を逸らして、そう言う彼。

 ──意識しているのは、私だけじゃなかったってこと?

 鼓動が速くなる。

 何か言わなきゃ、と口をぱくぱくさせているうちに、ドアが閉まるアナウンスが入った。

 慌てて小走りで電車から降りる。


 ホームに立って振り向くと、彼が照れ臭そうな顔で、栞を片手に小さく手を振っていた。

 私も、彼に手を振り返す。きっと、私も同じような顔をしているだろう。

 彼を乗せた電車は、少しずつ速度を上げてホームを離れていった。

 電車が見えなくなったところで、大きく息を吐く。

 まだ熱い頬をごしごしと両手で擦った。


 よし、と呟いて改札へと向かう。

 1日はまだ始まったばかりだけれど、もう明日が待ち遠しい。

 あの栞が、恋の始まりの栞になりますように。


 走り出した恋は、止まらない。

 いつもよりも軽い足取りで、私は階段を駆け降りた。




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恋の栞 夏木 蒼 @summer_blue_04

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