11 皇帝の余興
親友との再会
その日は、後宮にとって特別な意味を持つ日だった。
昼過ぎから近衛兵二百人が後宮に入った。後宮にそれほど多くの去勢していない男性の侵入を許したのは、中華の主人が入れ替わった三年前の戦乱以来だ。
兵士たちは皇后様の小宮殿をぐるりと取り囲んだ。
建物からはもう勝手に出ることも、入ることもできない。室内に軟禁されていた文月にも、その重苦しい雰囲気は嫌でも伝わってきた。
「皇后様のご命令です。ここを出て、これから皆様がお集まりになる部屋に移動してください。そこにいる護衛の宦官も一緒にとのお言葉です」
それを、わざわざ侍女頭が伝えに来た。
天佑さんが立ち上がる。
「さあ、参りましょう。皇后様のご命令は絶対です」
ここに来てから、天佑さんとはまともに話せていなかった。
短い言葉のやり取りはあっても、会話が続かない。天佑さんは事件の黒幕を隠しているし、文月はそれを聞かないと決めた。それが二人の間に見えない壁のようなものを作っていた。
案内されたのは、例の窓のない大きな部屋だった。
三年前、前の王朝の皇后陛下と皇子たちが自害したという部屋。数日前には文月も尋問のために使ったことがある。
まだ貴妃様のような高位の方々はいないが、何人もの侍女や宦官が準備のために忙しそうに働いている。
「ちょっと、
薄暗い部屋の奥から、懐かしい声がした。明鈴だ。数日会っていないだけなのに、ずいぶんと長い時間が経ったような気がする。
「明鈴、どうしたの」
「どうしたのは、こっちよ。仙月様と一緒じゃなかったの? 私は秋貴妃様のお供で来たのよ。貴妃様は今夜の推理ショーで、犯人にされちゃうんじゃないかって怯えられて……まだ昼間なのに、皇后様にご機嫌伺いに行ってるわ。
侍女を連れて行くと偉そうに見えるからって、お一人で。おかげで少し自由時間がもらえたわ。とにかく会えてよかった」
「うん。私も……ほっとした」
渇いた砂に水が染みこんでいく感じ。
明鈴と一緒に侍女をしていた日々が、やけに懐かしい。
「それにしても、これってどういうこと。後宮は大騒ぎだよ。助手なんだから、文月は知っているんでしょう」
「わからない……本当に知らないの。私だって今朝になって聞いたのよ。
仙月様からは何の連絡もないし。勝手なことをして迷惑をかけたから、見捨てられちゃったみたい。余計なことはしないで、ずっと皇后様のお屋敷から出るなって言われたわ。だからもう、助手でも何でもないの。ごめんね。うまくやって明鈴のこともお願いするって約束したのに、ダメになっちゃった」
笑い飛ばすように言ったつもりなのに、涙があふれてきた。
趙良様とお会いする一世一代のチャンスもふいにしてしまった。一生後悔する。自分でもわかっていたのに……。
ポンポン。肩をたたかれて、文月はようやく顔を上げることができた。つうっと流れた冷たい涙が頬を滑っていく。
「よしよし、泣くな。泣くな文月。いいじゃない。また一から始めればいいよ。どうせ最初から大したものは持ってなかったでしょう。私が大金持ちのイケメンをつかまえたら、どうにかして文月が趙良様と会えるようにしてあげる。だからもう、グジグジしない。いい? 大切な趙良様に嫌われちゃうよ」
「うん。明鈴、ありがとう」
明鈴の優しさが心にしみた。
どうせ趙良様は雲の上の人だ。なまじ変な夢を見たからいけなかった。
本を読んで空想して、ただ一方的に想っていればよかったんだ。ずっと心の中で。そうすれば傷つくこともない。
「あ、あのう。あなたが文月殿ですか」
「は、はい」
いきなり名前を呼ばれて、文月は伏せていた顔を上げた。
いけない。涙を拭かなきゃ。ほんのいっ時でも探偵の助手だったんだ。仙月様が推理を披露する日に恥ずかしい姿を見られたくない。
そこにいたのは、白皙の美青年だった。
特に目が美しい。うっかりすると瞳の中に吸い込まれしまいそうだ。
ふと気づくと、明鈴が文月の袖をつかんでいた。その青年の凛々しい姿を眺めながら、夢でも見ているみたいにぼうっとしている。
「ああ、よかった。皇后様の侍女に、ここに来てると聞いたので探していたんです。はじめまして。僕は仙月様の弟子で李光と言います。あなたは先生の助手だから、僕とは兄妹弟子のようなものですね」
「兄妹弟子なんて、そんな……私は仙月様に見捨てられた身です」
「そんなこと誰が言ったんですか。先生はずっと文月殿のことを気にかけていましたよ。昨日も声をかけようとされたそうですが、皇后様に邪魔されたそうです。事件の犯人を教えてくれるまでは会わせないってね。
皇后様も意地悪な方です。それで代わりに、僕が伝言をするように頼まれました。『心細い思いをさせて悪かった。身の安全を考えて仕方なくやったことだ。私は文月を大切に思っている』……いいですね。確かに伝えましたよ」
パアァァ。
冗談ではなく、本当に光が見えた。心の中に光明が差してくる。
見捨てられたわけじゃなかった。『大切に思っている』その言葉がこだまのように何度も響いた。
「それでは僕は、これから先生の手伝いがあるので失礼します。事件の解決が済んだらまた、お話ししましょう。その時は先生も一緒に……」
「うわっ!」
思わず声が出てしまった。
いきなり横腹を肘で突かれた。明鈴だ。必死に訴えかけるような表情をしている。
「どうしたんですか?」
「えっと、ちょっと。ちょっとだけ待ってください」
文月は身を縮めて明鈴にコソコソ声で話しかけた。
「明鈴、どういうこと?」
「どういうことって、コッチのセリフよ。ぼうっとしている場合じゃないでしょ。こんなイケメンと出会うチャンスなんて滅多にないのよ。文月。一生のお願い。李光様に聞いて。宦官じゃないかとか、好きな人がいるのかとか……」
あっ、そうか。そういうことか。
いくら鈍感な自分でもわかる。これは恋する乙女の目だ。
でも、どう聞けばいいんだろう。とりあえず宦官って言葉はまずい。別の言葉で言いかえなくちゃ。でも、あまり時間はない。李光さんが行ってしまう。
「あの、すみません。李光様はその……子どもを作る能力はありますか」
「ダメ……ダメ。その言い方ダメ。ストレートすぎ」
明鈴が真っ青な顔をして袖を引っ張る。
わっ、また失敗した。
文月は恐る恐る李光さんの顔を見た。やはり、ドン引きしてる。
「す、すいません。そういう意味じゃないんです。ただ、その。殿方として。結婚とかを、どう考えてるのかなって……」
「ははは。構いませんよ。少し驚いただけです。文月殿は率直な方なのですね。
僕は宦官ではありません。今日は特別な日ですから。先生の手伝いで、特別に後宮に入るお許しをいただいています。もちろん、この小宮殿の中だけという制限付きですけどね。これでいいですか」
「はい。それで、心に決めた女性はいるんですか。まさか、もう結婚してたりはしてませんよね。それと……お金持ちだったりします?」
「う、うわぁもう。最悪……」
明鈴が頭を抱えた。
でも、泣きたいのは自分も同じだ。男の人と話すだけでも大変なのに。もう、どうしたらいいかわからない。
「どうしてそんなことを聞くんです。文月殿は、趙良様のことを想っているのだと聞いていましたが……」
「い、いえ。その。私じゃないんです。……えっと、つまり。そうだ。都に来ている幼なじみが嫁入り先を探しているんです。ごめんなさい。迷惑でしたか」
「いいえ。ただし、ご期待には添えないと思いますよ。僕は大恩のある先生のそばを離れるつもりはありません。それに弟子と言っても、今は先生の居候のようなものですからね。財産と言えるものは、先生からいただいた知識くらいのものです。妻を養うなんてとても無理です。
それでは失礼します。またお会いしましょう。その可愛らしい幼なじみには、もっとお金持ちで立派な家柄の男性を紹介してあげてください」
うわっ、明鈴を見ている。バレバレだ。
突然、明鈴が意を決したように文月の前に出た。
すうっと息を吸う音がする。
「あっ、あの。私は、文月の同郷の友人で明鈴と言います!」
それだけだった。
空気がそれで無くなってしまったみたいに、言葉が尽きてしまう。
「明鈴殿ですね。覚えておきます」
笑顔でそう言い残すと、李光さんは行ってしまった。
その先に仙月様がいる。でも、追いかけることはできない。皇后様が会うことを禁じたのなら迷惑をかけることになる。
「ごめんなさい。うまく言えなくて。次に仙月様に会ったら、今度はちゃんと紹介してもらうから……」
「うううううう。ちょっと話しかけないで。今、真剣に考えてるの」
明鈴は難しい顔をして、額に手を当てていた。
何か大きな葛藤に苦しんでいる。それは間違いない。
「よし、決めた。お金持ちでなくてもいい。李光様にアタックする」
「えっ、だってあんなにこだわってたのに……いいの?」
「そんなこと言わないで。決心が鈍るから。ああぁぁぁ、どうしちゃったんだろう。苦労するってわかってるのに。でも、李光様と一緒にいられるならいいの。好きが一番の幸せだもの」
「わかった。応援する。私はいつでも明鈴の味方だから」
今度は文月が、明鈴の肩を抱く番だった。
いつもは誰よりも冷静でしっかりしている明鈴は、心臓の鼓動が全身に伝わったみたいに細かく震えていた。
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