8 謎の襲撃者
夜の訪問者
「そう……」
報告を聞くと、仙月様は美しい眉を曇らせた。
程陽さんは、自分の主人である衛花さんから執拗なイジメを受けていた。
彼女は元々、ヒステリックな性格だったらしい。皇帝陛下に声をかけてもらえないストレス。このまま年月が過ぎ、美人の地位を失うかもしれない恐怖が暴力の衝動につながったのだろう。程陽さんは落ち着いた様子でそう話してくれた。
「でも、そのことはもう構わないそうです。衛花様は数日前から熱を出して臥せっていて……ようやく、自分のやったことを後悔するようになったと言っていました。結局、頼りにできるのは程陽さんだけだって、気づいたんだと思います」
「それで、衛花という美人には会えたの?」
「伝染病かもしれないから、他の人間は近寄らないように言われているそうです。訪ねて行った時も、程陽さんは家の前で見張るように立っていました」
「見張るように……ね。衛花のことは、後宮の医師に相談してから考えるわ。ご苦労様。とりあえず今日は休んでちょうだい。
それで、お腹の具合はどう。食べる物が足りなければ、厨房に頼んであげるわよ」
文月は、さっきまで饅頭の入っていた蒸篭を見た。
美味しかった。あれならまだ、三個はいける。
「いえ、もう結構です」
「いいの? 目はそう言っていないようだけど」
「イジワルはよしてください。事件が終わったら、趙良様に会わせていただけるんですよね。実はもう、二の腕のあたりがヤバイんです。これ以上太ったら趙良様に嫌われちゃいます」
「ふふふ。そんなに想ってもらえるなんて、趙良様も幸せ者ね」
「もう、からかわないでください……」
仙月様が部屋から出て行ってしまうと、文月はひとりになった。
後宮の図面が敷かれた床や、位置を示すために置かれた将棋の駒。いつの間にか馬や人の模型も増えている。ぼんやりと眺めていると、そこには仙月様の考える捜査の道筋が見えてくるような気がした。
残された塗り薬を手がかりにして、たぐっていた糸が切れてしまった。
次はどうすればいいか。
盤面は埋まり始めている。
そうだ。まだ調べていないところはどこか。それを考えればいい。
最も重要な手がかりは、まだ生きているかもしれない小猫だ。皇后様と貴妃様のところにいる侍女の顔はみんな覚えた。次は貴人や美人、中常侍様がいるこの小宮殿の宮女に片っ端から当たってみたらどうだろう。一見、遠回りのようでいて、それが一番の近道かもしれない。
突然、後宮の図面の右上が暗くなった。
いけない。事件のことを考えているうちに、ロウソクが燃え尽きたんだ。
自分ひとりのために高価なロウソクを無駄にしてしまった。早く自分の部屋に行って眠らなきゃ。休養しなさいって仙月様も言ってたし……。
歩きかけた時、ふと。自分の物でない足音に気づいた。
誰だろう。当直の宦官が、ロウソクを見に来てくれたんだろうか。
「
その人は穏やかな声でゆっくりと言った。
「中常侍様……」
「少しだけ、この年寄りの話し相手になってくれないか。秋の夜は物寂しくていけない。つい、こんな場所にまで来てしまった。おまえには迷惑だったろうな」
「い、いえ。そんなことありません。こちらにいらしてください」
こんな時間にどうしたんだろう。
文月は部屋の奥まで中常侍様を案内した。いつも仙月様の座っている方の椅子を引いて、座っていただく。一応はこちらが上座だ。
「おまえも座りなさい」
中常侍様は自分が持ってきた燭台を机の上に置いた。真っ白な蝋に、鮮やかな花の模様が描かれている飾りロウソクだ。後宮でこんな物を使うのは、他には皇后様か貴妃様くらいだろう。
「助手の仕事を頑張っているそうだね。
「
文月は不思議に思った。中常侍様は仙月様の雇い主のはずだ。聞きたいことがあるなら、直接に聞けばいい。
「ああ、
私は心配なのだよ。
文月の頭に、程陽さんの傷だらけの体がチラついた。
中常侍様の言うとおりだ。嫉妬や恨み。陰湿なイジメ。それが自分に向けられたらと思うとぞっとする。
でも……でも、今の自分は仙月様の助手だ。
「中常侍様のお言葉でも、それだけは従えません。
「なるほど……主人の命令に従う。それは重要なことだ。だが、それだけではすまないこともある。
そうだ。そういえば今日、春貴妃様のお屋敷に行ったそうだね。あの方と私とは少々複雑な因縁がある。私のことも色々と聞いたのだろう。それを聞いて、おまえはどう思った?」
「はい。後宮を明け渡した時の話とかですね。……でも、私は中常侍様のなさったことは仕方がないことだ思います。
私も歴史を少しは知っています。時には何かを犠牲にしてでも、多くの人を救わなくちゃいけないこともあります。趙良様だって、そういう決断をしなければならない時もあった……
「ああ、その通りだ。あれは、趙良様との交渉で決めたことだ。皇帝陛下は、前の王朝の血を残すことはお許しにならない。国が滅んだ時点で、皇子様や皇女様の運命は決まっていたのだ。後は、残った妃嬪や宮女、宦官をどうするか……私は、趙良様の策に乗った。いや、その言い方は卑怯だな。私がそう決断した。
大恩ある前の陛下や皇后様は、私を決してお許しにはならないだろう。今でも、夜になると必ず私のことを呪う声が聞こえる。だから、寝汗をかかずに目が覚めたことがない」
「中常侍様のせいではありません」
「優しいな……
良い軍師とは、最小限の犠牲で目的を果たす者のことだ。逆に言えば、目的のためには少数の人間を躊躇なく殺せる者でもある。
この事件に深入りするのは危険だ。
「……それでも、構いません」
自分でも驚くほど、しっかりとした声が出た。
「それでも、私が役に立てるのなら。趙良様の駒のひとつにでもなれるなら、私は幸せです。せいぜい人間の顔と名前を覚えるだけの記録係ですけど。
「顔と名前を覚える……どういうことだ」
「私は、本以外の物も覚えられるんです。人の顔、名前……実際に見た出来事なら、頭の中で百回でも千回でも再生できます。
おかげで悪夢もよく見ます。いちど覚えると絶対に忘れられないから、なるべくぼんやりと生きてきました。おかげで失敗ばかり。貴妃様にもいつも叱られています」
「まさか、そんなことが……」
中常侍様は驚いたような顔をした。
仙月様もそうだった。自分ではハンデにしかならないと思っているのに、記憶力の話をすると、いつもそうなる。
「わかった。おまえの決意がそれほど固いのなら、もう何も言うまい。今夜のことは忘れてくれ……いや、忘れられないのだったな。それなら、二人きりの秘密にしてほしい。私も老いたのかもしれん。余計な口出しをした」
中常侍様はそう言い残すと、燭台を拾うように持って椅子から立ち上がった。
ふらついたのを見て声をかけようとしたが、中常侍様はまるで聞こえなかったようにそのまま部屋を出て行ってしまった。
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