傷だらけの宦官
診療所を出てから、文月はそのまま後宮の南側にある一画へと向かった。
そこは通称、美人街と呼ばれている。
真っ直ぐに造られた幅十五尺の道に面して、百件もの小さな家がひしめいている。それが三列。合計するとその区画だけで三百件の家がある計算になる。
漆喰の白い壁に朱色の柱。家の形も全く同じだから、ざっと見ただけでは誰の家かを区別することはできない。だから家の入口の横には番号が書いてある。
「霞通り、霞通り……」
記憶力には自信があるが、美人街に来たのは初めてだ。美人の家が並んでいるだけだから、侍女にはあまり縁がない。
通りの入口あたりをウロウロしていると、ドン、と何かにぶつかった。
うわっ。バランスを崩して足がもつれた。疲れが膝にきている。気は張っていても体は正直だ。
危ないところを天佑さんが腕を取って支えてくれた。
「大丈夫ですか」
「はっ、はい。大丈夫です」
「いったいどこを見て歩いてるんだい!」
ほっとしたのも束の間。女の人が目をつり上げながら向かってきた。
「ご、ごめんなさい」
「しっかり前を見な。もう少しで転ぶところだったじゃないか。私らはいつ皇帝陛下に見染められてもいいように、いつも体を磨いてるんだ。薄汚い宮女ふぜいが触れるんじゃないよ」
まずい。襟が朱色ということは、この人は美人だ。
後宮では序列は絶対だ。宮女が妃嬪に対して逆らうことは許されない。
「まあまあ、お待ちください。失礼は私からもお詫びします。こちらは
天佑さんは懐から
「え……あの、あの中常侍様ですか」
「私の知っている中常侍様は後宮でおひとりだけです。
これは、路傍で出くわした犬の戯言としてお聞きください。もしも……もしものことですが。中常侍様が乱暴な言葉を使う美人がいると知ったら、皇帝陛下から遠ざけた方がいいと思われるかもしれません」
ようやく事の重大さに気づいたのだろう。美人の顔から、見る見る血の気が引いていく。
「えっ、いや。こちらこそ申し訳ありません。失礼はお詫びします。それで、その。このことは、中常侍様にも報告されるんでしょうか」
「さあ、それはどうでしょうか。私は
「ひえっ。それだけは、それだけはお許しを……」
その美人は突然、膝を落として這いつくばった。砂埃にまみれるのも構わず、頭を地面にこすりつける。
「
「そんな、やめてください」
「許すと言っていただくまでは、やめられません。許していただけなければ、この場で舌を噛んで死にます」
大げさな。そう思ったが、この人は必死だ。髪は乱れ、体は小刻みに震えている。
もちろん中常侍様にも皇帝陛下のお心を変える力はないが、目に触れるチャンスを奪うことはできる。少しでも皇帝陛下の目にとまりやすくするために、宦官に賄賂を贈る美人もいるらしい。
「許します。許しますから、もう頭を上げてください」
ようやく上げた顔を見ると、その美人は涙目になっていた。
「お約束していただけますか」
「約束します。このことは、絶対に中常侍様には言いません。その代わり美人街の案内をしてもらえますか。霞通りの三十二番にある衛花様の家です。そこにいる程陽という宦官に用事があります」
「えっ、程陽。衛花のところに仕えている程陽ですか。それってもしかして、中常侍様がお調べしているっていうのは……」
「その人のことで、何かあるんですか?」
口が滑った。そう思ったのか、美人は一瞬だけ顔を伏せた。だが、すぐに腹をくくったように顔を上げる。
「美人街に住んでいる者なら誰でも知ってますよ。衛花っていうのが、とんでもなく性悪な女で、世話係の宦官をイジメまくってるっているって話です。
間違いありませんよ。なにせ、怒鳴り声が隣の家にまで聞こえてくるらしいですから。えっと、ついてきてください。家の前までご案内します」
またイジメか……。
文月は暗い気分になった。冬貴妃様のお屋敷で聞いた小猫のことが思い出される。
程陽という宦官は体格のいい男性だと聞いている。もちろん、腕力では相手にならないだろうが、美人と宦官では立場が全く違う。美人と世話係の宦官は主人と使用人の関係だ。逆らうことは許されない。
夕刻が近いこともあって、美人街には人通りが多かった。荷車で運んでいるのは美人たちの夕食だろう。宦官を従えて意気揚々と歩いている美人は、これから皇帝に拝謁するのかもしれない。
「あっ、いました。
その宦官は小さな家を守るように、すっくと立っていた。
背は六尺はあるだろう。天佑さんと同じくらいだが、もう少し肩幅が広い。意志の強そうな黒々とした瞳に太い眉。タイプは違うが、この人もイケメンだ。
よし。ゴクリと唾を呑みこんでから、思い切って近づく。
「あの……」
「何か、私に用ですか」
先手を打たれた。質問するより、される方がやりにくい。
「私は探偵の助手をしている
「探偵? 何ですか。それは」
いけない。いつも仙月様が堂々と名乗っているから、うっかり使ってしまった。初めての人に探偵なんて言葉が通じるワケがない。
「えっと、中常侍様の依頼で後宮の事件の調査をしているんです。すみません、天佑さん。さっきの帯留。この人に見せてもらってもいいですか」
天佑さんが帯留を見せると、程陽さんはため息を漏らした。
「ほう……これは見事な。これほどの細工であれば、確かに中常侍様のお持ち物でしょう。そういう事なら、お答えしないわけにはいきませんね」
「単刀直入に聞きます。この塗り薬の容器、亡くなった
「ちょっと見せてください。ええ……確かに私が求めた物です。
小猫は後宮から追い出されないために、自分の傷のことを隠していた。
この話に矛盾はない。
「でもあなたの方は、どうしてそんなに大量の塗り薬を持っていたんですか。大きなお屋敷でも、そんなにたくさんは使いませんよ」
「仕方がありません。どうやら、お見せするしかないようですね」
そう言うと、程陽さんはいきなり自分の服に手をかけた。襟を広げ、肩をはだけて上半身をあらわにする。
「ひ、ひえっ。いきなり、何するんです」
文月は両手で顔を隠した。男性の裸なんて、後宮に入ってから見たことがない。
「
そうだ。こんな往来で裸になるなんて、よほどの理由がないとできない。
逃げてはいけない。天佑さんの声がそう聞こえた。
文月は大きく呼吸をしてから、恐る恐る目を開いた。
「うわっ、えっ。ああ……」
まともに言葉が出てこない。
そのたくましい上半身は、傷だらけだった。無数の切り傷、内出血の痕。胸から下に巻いた白い布には膿の色がにじんでいる。
「あの子の傷は、こんなものではありませんでした。私にはその痛みがわかります。あんなに大それたことをしたのも、自分の苦しみを冬貴妃様にもわかってほしかったからでしょう。……さあ。これで私が傷薬を分けてやった理由を理解していただけたでしょうか」
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