7 傷だらけの宦官
後宮の薬師
後宮には三人の医者がいる。もちろん身分は宦官だ。
ただしそのうちの一人は、皇后様や貴妃様のように身分の高い方しか診察しない。
残りの二人が三千人以上いる宮女や宦官をみることになるのだが、どうしても手が足りない。そこで重宝されるのが薬師だ。
後宮の隅に診療所があり、そこでたいていの薬は処方してくれる。もちろん官営だから無料だ。
薬師のお爺さんは、真っ白な髪を後ろで束ねていた。中常侍様のように前の時代から後宮にいる宦官で、笑うとシワが深く寄る。
「やあ。あんたは確か、秋貴妃様の侍女だね。名前は、なんて言ったかな……」
「
「おお、そうだ。
「明鈴ならお屋敷にいると思います。実は、ここの担当は外されちゃって……今日は別件なんです」
「なんだ。また何か失敗したのか。そういえば前に頭痛薬と下剤を間違えて持って帰って怒られたって言ってたな。ありゃあ、ウチのせいじゃないぞ。注文が間違ってたんだ。証拠の帳面も残ってる」
後ろに控えている天佑さんがクスリと笑う声が聞こえた。
そんなこと蒸し返す必要ないのに。でもまだ、仙月様が一緒でなくでよかった。
「あの時は失礼しました。でも、その話じゃないんです。あの……この塗り薬なんですけど。記憶にありますか」
文月は小猫の部屋から持ち出した塗り薬の容器を渡した。蓋のついた陶器製で、女の手には余るほどの大きさだ。
薬師のお爺さんは容器を高く持ち上げて、底の部分に貼ってある紙を眺めた。
「これは、
それに比べて最近の若い娘はダメだ。薬を受け取ったらもう、プイと横を向いちまう。ああ、もちろん
美人というのは後宮の妃嬪の階級のひとつだ。
皇后、貴妃、貴人、美人と続く序列では最下層だが、人数では圧倒的に多い。後宮の一画に小さな家屋と、世話役としてそれぞれが一名の宦官を与えられている。
もちろんその家に皇帝が通うことはない。
後宮の入り口に日替わりで二十人ほどが呼び出され、美しく着飾って皇帝の前に並ぶ。皇帝陛下が通りすぎるわずかな瞬間だけが勝負だ。そこで皇帝の興味を引けば、特別に用意された寝屋でお情けをいただくことになる。
美人の仕事はそれだけだ。
皇帝の興味を引かなければそれで終わり。また延々と次の順番を待つ。そのまま二年もお声が掛からなければ、後宮を出るか宮女になるかを選ばなければならない。
「ありがとうございます。それで、他にはこの薬を処方した人はいませんか。これは冬貴妃様の侍女が持っていた物なんです。体中にひどいケガをしていたらしくて……」
「ふん、冬貴妃様の侍女か。最近はあまり、いいウワサを聞かないな。それに礼儀もなってない。せっかく薬を処方してやっても、頭ひとつ下げるわけじゃない。一緒に来た侍女仲間とおしゃべりばかりだ。ありゃあ、後宮を出ても嫁のもらい手はないな。ウチの孫娘の爪のアカでも飲んだ方がいい」
「えっ、お爺さん。お孫さんがいるんですか?」
思わず食いついてしまった。
いけない。脱線してる。でも、好奇心は止められない。
「おお、そうか。まあ、よく考えたら今まで身の上話なんかしたことなかったな。宦官にも色々とある。わしの場合は若い頃に遊び尽くして、どうでも良くなったクチだ。これも昔はかなりモテたんだぞ。外に女が三人もいて、そのせいで女房によく怒鳴られたもんだ。
女房が死んで、娘が結婚して……わしも男としてはすっかりサビレちまった。どうせアッチの方が役に立たないなら、いっそ宦官にでもなって美女に囲まれて目の保養でもしよう。とまあ、そういうワケだ。そこそこ金にもなるしな」
「へえ、面白い……じゃない。仕事、仕事。それで、冬貴妃様の侍女は傷薬を取りに来ませんでしたか」
「いや。ここ最近で、この容器で傷薬を取りに来たのはその宦官だけだ。冬貴妃様の侍女がこれを持っていたのなら、そいつに譲ってもらったんじゃないかな。まあ、一応は記録も調べてみるが、間違いないと思うぞ」
「それならその宦官と、お仕えしている美人の名前を教えてください」
「わかった、わかった。その代わり、たまにはコッチにも顔を出しな。年寄りの話し相手になってくれるなら薬湯くらいはサービスしてやるぞ。
「うん、もう。知りません!」
文月の顔を見て嬉しそうに笑いながら、薬師のお爺さんは帳面を確認しに中に入っていった。隣で天佑さんも笑っている。
「
「笑わないでください。それと、仙月様には秘密にしてください。絶対ですよ」
「あの方のことは、気にする必要はないと思いますよ。どうせ、全てを見透しておられます。武官をしていた時分に頭の切れる方には何人も会いましたが、
「たとえば、趙良様みたいな軍師だったらってことですか」
「あの方の頭の使い方は一流の軍師そのものです。先入観にとらわれず、不都合な現実も認めた上で合理的に判断する。愚かな軍師は、ありもしない願望を積み重ねて、将兵を死地へと追いやるものです。そのせいで、私は部下のほとんどを失いました」
「天佑さんは、将軍だったんですか?」
「そこまで立派なものではありませんよ。私は、せいぜい千人かそこらの兵を率いていた隊長クラスです。故国の将軍は全員、土の下にいます。敗北の直前までは下っ端ばかりが犠牲になりますが、最後には上にいた者全てが根絶やしにされるのが世の習いです」
天佑さんは凄絶な過去をさらりと語った。
亡国の武人だとすれば、天佑さんが戦った相手は皇帝陛下の軍勢だ。当然、趙良様もその中に含まれる。
文月は胸にズキンとした痛みを感じた。
歴史に名を残す人間の手は血で汚れている。それを功績と考えるか罪と考えるかは受け取る相手次第だ。そう言った時の、寂しそうな仙月様の表情が思い出される。
ドンドンドン。中から、帳簿を持ったまま薬師のお爺さんが駆けてきた。
「おおっ、
「ありがとうございます。それで、どんな人だったか覚えていますか。顔とか、特徴とか。何でもいいから教えてください」
「どんな奴だったかって……。そうだな。宦官にしては筋肉質だったから、あれはわしみたいに後で宦官になったクチだな。背はそこの男と同じくらい。目は黒々としていて眉が濃かった。それで鼻は……」
ああ、やっぱり。小猫と会っていた宦官だ。
薬師のお爺さんの話を聞いて、文月にはすぐにピンときた。冬貴妃様のお屋敷で聞き取った特徴、仙月様の描いた似顔絵のイメージとぴったり合う。
「お爺さん、また来ます。天佑さん、行きましょう」
そうとわかれば突撃あるのみだ。グズグズしてたら日が暮れる。
よしっ。文月は自分で気合を入れた。過去は過去だ。今はただ、前を向いて歩いて行けばいい。
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