夏貴妃様

  ※  ※  ※


 ううう、頭が痛い。

 疲れた。足も重い。貴妃様や、事情を聞いた侍女や宦官たち。無数の顔が頭の中でぐるぐると回っている。

 探偵の助手は肉体的にも精神的にもキツイ。

 ガンバレ、文月。切り替えろ。全部終われば、夢にまで見た趙良様に会わせてもらえる。それまでの辛抱だ。


 まずい。先を歩く仙月様から遅れそうになってる。もっと足を動かさなくちゃ。そう思った時、何かにつまずいた。


「あ、うわっ。あ、あ……」


「大丈夫ですか」


 後ろをついてきていたはずの宦官の天佑さんが、ふらついて倒れかけた体を支えてくれた。大きな手の感触に、思わずビクッとする。


 あわてて文月は、しゃんと体を伸ばした。

 触れられた感覚がなかなか消えない。冷静になれ。お慕いしているのはこの世で趙良様だけだ。こんなことくらいでドキドキしてどうする。


「どうしました。顔色が悪いですよ」


「ご、ごめんなさい。重くなかったですか?」


「気にしないでください。あなたの身の安全を守るのは、中常侍様から命じられた私の仕事です」


「あっ、そうか。そうでしたよね。でも中常侍様も今頃はどうせあきれてます。大事な仕事を任せたのに、いったい何をやってるんだって……。

 これでも、私なりには頑張っているんですよ。昨日は昨日であの皇后様だし。今朝から冬貴妃様、春貴妃様って続けてお会いしていたら疲れちゃって……もう、頭がパンパンです。偉い方って、色々とあるんですね。華やかで、お美しいだけだと思ってました。こんなことなら、皇帝陛下のご寵愛をいただくよりも侍女をやってた方がずっと楽です」


「ははは。それはちょっとした問題発言ですね。でも、それが文月ウェンユェ殿の良いところです」

 

「それって、褒めているんですか」


「もちろんです。言いたいことを好きに言えないのが後宮ですから。嫉妬や恨みで湿った後宮の空気に触れながら、素直でいられるのは貴重な才能です。文月ウェンユェ殿はこの陰鬱な後宮に吹く爽やかな風のようですね。こんなに笑ったのも、宦官になって初めてです」


「私も天佑さんがいると安心します。立派な武官の方が、わざわざ守ってくださるなんて私には畏れ多いですけど……天佑さんって、きっと凄く強いんでしょう。オーラが全然、他の人とは違います。武術のことは何も知りませんけど、私のカンはよく当たるんです」


「オーラ……ですか。そんな物がまだ、あるのかどうか。

 私が最後に剣を取ったのは、自決を考えて首に当ててみた時です。そこまでして死にきれなかったのですから、笑い話にもなりませんよ。武官だったのはずっと昔の話。今はただ、去勢された哀れな犬畜生です」


「そういうのは、よくありません!」


 思わず大きな声を出してしまった。前を歩いていた仙月様も足を止める。


「いや……ごめんなさい。前にも言いましたけど。そういうのは、よくないと思うんです。宦官になったからって人間の価値が変わるわけじゃありません。天佑さんは天佑さんです。私は宦官とかじゃなくて、天佑さんを人間として信頼しています」


「人間として、ですか」

 天佑さんは微笑んだ。


「そうだ。どうせなら『おとことして信頼する』と言っていだだけませんか。『士は己を知る者のために死す』と言います。私をひとりのおとことして認めていただけるのであれば、命令ではなく自分自身の意思で。全身全霊を持って文月ウェンユェ殿をお守りすると誓いましょう」


「そんな、私なんてそんなこと言っていただける価値なんてないです。天佑さんは立派なおとこです。真っ直ぐで、滅茶苦茶カッコイイです。趙良様がいなかったら、私もきっと好きになっちゃってます」


 天佑さんは更に大きく顔をほころばせた。

「ああ……私がどれほど感動しているか、文月ウェンユェ殿にはわからないでしょうね。どうやら私の錆びてしまった心の中にも、信頼に応える喜びがいくらかは残っていたようです。今から私は、あなたを守る本物の盾になりましょう。これからは安心して背中を任せてください」


「よくわからないけど、よろしくお願いします」

 文月は深くお辞儀をした。

 なんだろう。天佑さんの雰囲気が少し変わった。安心感がぐっと増したような気がする。まるで大樹の側にいるみたいだ。


 足を止めていた仙月様が、文月を励ますように声をかけた。


「疲れているとは思うけど、もう少しよ。さあ、夏貴妃様のところに急ぐわよ。こちらから時間を作っていただくように願いしたのに、お待たせしたら申し訳ないわ」



 四貴妃のうち、最後に面会した夏貴妃様は異国の出身だった。

 西方にある国の王女で、侍女も全員がその国から連れて来た者たちだ。


 亜麻色の髪と瞳。肉厚の唇。彫りの深いエキゾチックな顔立ち。他の貴妃様とは種類が違うが、美しいことに変わりはない。

 夏貴妃様は異国風の赤いドレスを着ていた。後宮に入ってから二年以上になるが、それが皇帝陛下の趣味なのだろう。


仙月シェンユェドノ。ヨク、いらっしゃいました。話は聞いています。あまりお役には立てないかもしれませんが、なんでもご協力しまス」


 夏貴妃様のアクセントには癖がある。

 頭の悪い方ではない。むしろ才女だと聞いている。ただ、意味が理解できたとしても、生まれた国の言葉はなかなか抜けないらしい。


「何か事件に関係する事でご存じのことがあれば教えてください」


「残念ですが、トクには……。異国出身の者ニハ、なかなか情報が入らないのです。もちろん事件のことは恐ろしいと感ジテいます。後宮の安全のためにも、力をツクシてください」


「微力ながら、ご期待に沿うように努力いたします」


「微力ということはないでショウ。あなたのことは中常侍サマから聞いています。中華でイチバン頭の切れる方ダとか……」


「それは買い被りすぎです。私は物事の道理を追いかけるのが好きな、ただの変わり者にすぎません」


 夏貴妃様は笑った。

「ケンソンも、過ぎれば嫌味になりますよ。私はムシロ、あなたに興味があります。どうして突然、タンテイなどと名乗って現れたのカ。それをどうヤッテ中常侍サマに認めさせたのか……。ヨホドの実力者でも難しいコトです。もしかしタラ、仙月シェンユェというのハ、正体を隠すタメノ偽りの名前デはないのですか」


「おたわむれはおやめください。中常侍様が素性の怪しい女を後宮に入れるとお思いですか。私は仙月という名の探偵です。後宮の記録にもそう記載されているはずです」


「そうでしたネ。私がイマ、あるのハ中常侍サマのおかげでもあります。中常侍サマのなされるコトに間違いはありません。

 好奇心は、トリアエズ心の奥にしまっておきましょう。屋敷にいるモノには、何でも協力スルようにと言ってあります。どのようにでもお調べください」



 夏貴妃様との会談の後、文月はいつものように別室で事情聴取を行った。

 素直に応じてはくれるのだが、アクセントが怪しい侍女が多くて少し疲れた。それに比べて宦官の人はみんなしっかりとしていた。中常侍様の配慮だろうか。夏貴妃様が中常侍様を頼るのもわかるような気がする。


 特に収穫もなく事情聴取が終わると、仙月様は立ち上がった。


「さてと。これでようやくひと通り、貴妃様たちの調査が終わったわね。私は冬貴妃様の侍女のことで中常侍様と話をしないといけないから、先に戻るわ。悪いけど、文月ウェンユェはこれから例の塗り薬の件で薬師のところへ行ってちょうだい。何を聞けばいいかはわかっているわね」


 うへえ、また仕事だ。

 文月は思わず小さなため息をついた。


「しっかりなさい。その代わり、またお饅頭を用意させておくわ。ついでに甘いお菓子もね。戻ったら、ゆっくりとお茶でもしながら事件を整理しましょう」


「えっ? 本当ですか」


 頭の中にお饅頭がパッと現れた。

 ホカホカで湯気が立っている。割るとじゅわっと肉汁があふれて……。

 あれ、美味しかったな。食べると心の奥まで温まって幸せになる感じ。それに甘いお菓子まで食べられるなんて夢みたいだ。仙月様は、どんなお菓子がお好きなんだろう。


 うわっ、いけない。ヨダレ、ヨダレ。

 仙月様は趙良様の縁者だ。恥ずかしいところを見られたら、伝わっちゃうかも。それだけは絶対に嫌だ。


「あっ、あの。このこと、趙良様には内緒にしてください」


「どうして? 趙良様なら、かえってカワイイと思ってくださるかもよ」


「もう、イジメないでください」


 文月はぷいと横を向いた。

 仙月様も女性なら、乙女心くらいわかってくれてもいいのに。

 懐から布を出して口もとをチョンチョンと拭いているうちに、後宮に突然現れた名探偵は、笑いながら部屋を出て行ってしまった。


 

 

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