謎の襲撃者
※ ※ ※
「外で調べたいことがあるから、今日は一日、休みにするわ。あなたは休養していなさい。いいわね。自分だけで勝手に捜査をしないこと。それから絶対に護衛の天佑から離れないでちょうだい。約束できるわね」
仙月様はそう言うと、さっさと出かけてしまった。
どこへ行ったのかはわからない。後宮の外に出てしまえば、そこはもう文月には手の届かない世界だ。
「休養しなさい……か」
「いいではないですか。あれだけたくさんの人間に会ったのです。頭を整理する時間も必要でしょう」
天佑さんがフォローしてくれた。
それは確かにそうだ。今、頭の中はゴチャゴチャとした無数の映像や音であふれている。情報はこのままでは役に立たない。整理して、タイトルのついた一冊の本のようにする。そして頭の中の本棚にしまう。それには時間が必要だ。
「でも、落ち着かなくて……わかるでしょう。そうだ、散歩ならどうですか。話しかけたりしないで歩くだけ。それならいいでしょう。美人街へ行って、一人でもたくさんの美人の顔を見て回れば、
「美人街はあまり、散歩に向いた場所ではないと思いますよ」
正論がグサっときた。
もちろん文月だってわかっていた。美人街の空気は排他的だ。自分に向けられた、昨日の冷たい視線を思い出す。
でも仙月様がいなければ、位の高い方のお屋敷には入れない。この政庁を調べて回るのにも、中常侍様の許可が必要だ。もちろんお願いすれば許可していただけるだろうが、それでは仙月様を裏切ることになる。
「お願い、天佑さん。じっとしていられないんです。知恵も美貌も
「
文月の頭に、チラリと昨日のことが蘇った。中常侍様も捜査に関わることは危険だと言っていた。それは確かに怖い。でも、事件を解決すれば趙良様に会える。役に立つ情報を手に入れれば、褒めてくださるかもしれない。
「私は、ただ散歩をするだけです。それに天佑さんなら、どんな相手からでも守ってくれるんでしょう。一生のお願いです。美人街までついて行ってください」
天佑さんはふう、とため息をついた
「それならば仕方がありませんね。お供しましょう。私が命に換えても、文月殿をお守りします」
その日は一日中、美人街のあたりをウロウロしていた。
三百件の家が立ち並んでいるだけだから、そう広くはない。家の中に入ると捜査になるから、ただ通りを歩くだけだ。
誰か外に出てこないかと思って、通り過ぎる。時間を置いてもう一度。それを何度も何度も繰り返す。どこからどう見ても不審人物だが、誰からも注意をされることはなかった。昨日のウワサが流れているのかもしれない。文月が美人に近づくと、目を合わせるのを嫌がるように、向こうから静かに離れていく。
これで百九十四人……。
夕方近くまで粘って、成果はそれだけだった。探している侍女に似た人物も見つからなかった。もう、クタクタだ。足も棒のようになっている。
「とりあえず気は済みましたか?」
「はい。天佑さんも疲れましたよね。ごめんなさい」
「謝る必要はありませんよ。私は文月殿を守るためにいるのです。どこにいようと、やることは同じです。さあ、暗くならないうちに帰りましょう。
美人街は後宮の南の端にある。中常侍様のいる建物とは正反対だ。
秋は陽が落ちるのが早い。都をぐるりと囲む城壁の陰に太陽が次第に隠れていく。薄暗くなってきた帰り道を半分ほど歩いた、その時だった。
突然、胸のあたりに何かがぶつかった。天佑さんの腕が、通せんぼをするように真っ直ぐに伸びている。
「動かないで。誰かいます」
事態が深刻であることは、その声でわかった。
正面に人影。……合わせて五人もいる。体格からして女性ではない。宦官だ。
その宦官たちは、全員が覆面をしていた。薄暗いせいで、まるで顔が黒く塗りつぶされているように見える。
「天佑さん……」
「大丈夫です。私の側から離れないでください」
天佑さんは一歩、前に進んだ。
伝わってくる気迫で空気がピリピリする。
「道を開けろ! ここにいるのは中常侍様の命令で働いている文月殿だ。道を開けなければ痛い目にあうぞ」
「俺たちは、その文月とかいう宮女に用があるんだ。おまえこそ、その女を置いてどこかへ行っちまえ! こっちは五人だ。腕に自信があるのかもしれないが、どうせ素手なんだろう。無駄に死ぬ必要はないと思うぜ」
宦官たちは懐から短刀を出した。
殺される。恐怖で血の気が抜けていく。
「走れますか?」
天佑さんが視線を動かさずに聞いた。
文月はぷるぷると首を振った。無理だ。足に力が入らない。立っているのも不思議なくらいだ。
「仕方がありません。これから私が何人か殺します。しばらくの間、目を閉じていてください」
「おい、何をゴチャゴチャ言ってやがる。殺すのは宮女だけだ。おまえはさっさと逃げろ。そういう筋書きだろうが」
筋書き……どういうことだろう。
まさか天佑さんまで仲間なんだろうか。そうだとしたら終わりだ。もう助かる方法はない。でも、でも……天佑さんは約束してくれた。
趙良様への想いと同じ。絶対の信頼。それを疑うくらいなら、死んだほうがいい。
「信じてください。私は文月殿の盾です」
「はい、信じます。天佑さんは私を必ず守ってくれます」
「おいおい、いつまで芝居を打っているんだ。誰も見ちゃいないんだ。もういい。おまえが殺せ」
「ええ……そうします。あなたのような暴漢をね」
天佑さんは突然、助走もなく駆けた。一瞬でトップスピードになる。
あっという間に宦官たちのいる場所まで到達すると、さっきまで話していた相手と重なった。バン、という音と呻き声。何が起こったのかは想像するしかない。ただ、その宦官は倒れ、天佑さんは奪った短刀をきらめかせながら更に右へ飛んだ。
「お、おい。やめろ……」
天佑さんは止まらなかった。命乞いをした宦官の喉がかき切られ、血しぶきが縦方向の線となって弧を描く。
見るな。天佑さんにはそう言われた。でも、無理だ。血なまぐさい記憶が一生消えなくてもいい。自分のために戦ってくれている人から目をそらすなんて、絶対にできない。
「う、うわぁあぁ」
二人の仲間を倒されてパニックになったのか、残った宦官のうちひとりが狂ったように文月に向かってきた。天佑さんはまだ他の敵の相手をしている。ダメだ。間に合わない。逃げようにも腰が抜けて、足が動かない。
ごめんなさい。せっかく守ってくれたのに……。
覚悟して閉じた目を、もう一度開いた時。どう、という大きな音がした。
その宦官の背中には天佑さんの投げた短刀が刺さっていた。もう、ピクリとも動かない。死んでいる……。それがあまりにもあっけなくて、文月には実感がわかなかった。
天佑さんは残った連中を睨みつけた。
「死体を抱えて、さっさと自分の寝ぐらに戻れ。安心しろ。私は誓いにより
一瞬の間のことだった。
襲った五人のうち二人が死に、ひとりが手傷を負った。無傷の二人がそれぞれ死者を背負い、ケガ人は足を引きずりながら自力で逃げて行った。後にはおびただしい血痕だけが残っている。
「天佑さん……」
「おわかりでしょう。私はあなたを殺そうとした人間の仲間です。しかるべきところに突き出していただいて構いません。ただし、私はこのことについては何も話しません。拷問されても同じことです。
ただし、これだけは信じてください。私は、私を
「信じます。私は天佑さんを信じます」
文月は天佑さんの袖にすがりついた。
バカだ。バカだ、バカだ。
自分のわがままのせいで、後宮を血で汚してしまった。天佑さんを人殺しにしてしまった。せめてその罪を一緒に受け止めたい。
文月の服もすぐに血にまみれた。どろっとした返り血のむせかえるような臭いが、その時には全く気にならなかった。
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