顔のない死体

 皇后様の小宮殿を出てから、文月は仙月様と一緒に、挨拶も兼ねて主人である秋貴妃の所に寄った。

 一応は侍女や宦官にも話を聞いたが、いつも一緒にいる人たちばかりだから特に新しい情報はなかった。


「今度は私のところに毒が盛られるんじゃないかと、怖くて怖くて。ずっと食事も喉に通らないんです。誰が毒を入れるように命令したのか、早く突き止めてください。お願いします」


 秋貴妃様が大袈裟に訴えかけた。

 この方はいつもそうだ。他人に自分を印象付けようと必死なのだ。貴妃の中で三番目の序列とはいっても、決してその座は安泰ではない。皇子を産んだ冬貴妃様が繰り上がるのはほぼ決定的だ。誰か別の妃嬪に皇帝陛下の寵愛が向けば、貴妃の地位から陥落することだってあり得る。


「私は別に、誰かが冬貴妃様の毒殺を命令したとは言っていませんよ。全てはまだ、調査中です」


「ええ、もちろん、もちろんですとも。皇后様も他の貴妃様も、そんな恐ろしい事をする方だとは思えません」


 ちゃっかり自分を除いている。

 自分に疑いがかかるのを恐れているんだ。それがひしひしと感じられる。

 仙月様に言われてから文月も自分の頭で考えるようになった。他の貴妃と同じく、動機という意味では秋貴妃様にも十分に疑う理由がある。


 自分を追い抜いていく者を良く思わないのは当然だ。

 それに貴妃の地位とその下の位である貴人とは、天と地ほどの差がある。付き従う侍女も宦官も四分の一だ。化粧料などの名目で与えられる絹や金銀は、その十分の一にも満たない。


「私の目的はあくまでも真実の解明です。そのためにも当分の間、文月ウェンユェを私にお貸しください。代わりの侍女は、明日にでも中常侍様が手配してくださるはずです」


文月ウェンユェで役に立つのでしたら、いつまででもお使いください。私の願いは後宮が常に平穏であることです。優秀な侍女がいなくなるのは痛手ですが、できるだけの協力はさせていただきます」


 優秀なんて言葉、初めて聞いた。

 でもまあ、これも出来るだけ高く売りつけようという算段だろう。秋貴妃様には、こういう調子のいいところがある。



 仙月様の部屋に戻った時には、もう夕刻近くになっていた。


 ぐううぅ。お腹が鳴っている。

 それに疲れた。朝食を食べてからずっと働きづめだ。


「ううぅ……。なんかもう、一年分の仕事をした気分です」


「初日はまあ、こんなものね。夕食までまだ少し時間があるけど、あなたのために饅頭をかしてもらっているわ。趙良様が戦場で食べた夜食と同じ。豚肉とキノコの餡が入った特製品よ」


「うわっ、お饅頭。食べます食べます」


 やがてすぐに、いい匂いが漂ってきた。

 目のクリクリした童子が皿の上に湯気の立つ蒸篭せいろを持ってきた。宦官にされてまだ間もないのだろう。内股でモゾモゾと歩く様子が、ちょっと痛々しい。


「お役目、ご苦労さま」

 仙月様は童子に銀の粒を渡した。


「誰にも言わなくていいわ。これはあなたの物よ。次に外出する機会があれば持って行きなさい」


 宮女は基本的に後宮からは出られないが、宦官は許可があれば外出できる。もちろん後宮に戻る時には例の屈辱的な検査を受ける必要があるが、年に二度、合わせて十日間の休みがもらえることになっている。


 童子は目を輝かせて礼を言うと、部屋から出て行った。


「あの子はたぶん口減らしでしょう。土地を失った貧農か、戦災で夫を失った未亡人の子か……。宦官にすれば食べることには困らないから、親が自分から闇医者に頼むのよ。熱を出して死ぬ子どもも多いみたいだから、あの子はまだ幸運のほうね」


「そこまでは……知りませんでした」


「いいのよ。ただし私の仕事を手伝うのなら世の中の裏事情も知っておかないとね。人間は綺麗な部分だけではないわ。見たくはない物でも、場合によっては犯罪の解明につながることもあるのよ。でもまあ、それはいいわ。……さあ、食べましょう。せっかくの饅頭が冷めてしまうわ」


 仙月様はそう言って蒸篭の蓋を開けた。湯気がぶわっっと広がる。

 ここは仙月様が手をつけるまで遠慮するところだ。でも、もうダメ。我慢できない。饅頭が私を呼んでいる。


「いただきます」


「どうぞ。私は皇后様のところで食事をさせていただいたから、ひとつでいいわ。残りはあなたの物よ」


「はい。ありがとうございます。ふひゃあ。おいひい。ふっ、ふっ。ふほっ……」


「ふふふ。急がなくても饅頭は逃げないわよ」


 うわああ。仙月様に笑われた。

 恥ずかしい。まだ仙月様だからいいけど。こんなところを趙良様に見られたら、もう生きてはいられない。


 文月は、あっという間に三個の饅頭を平らげてしまった。

 それに比べて仙月様はまだ、手をつけてさえいない。


「人が物を美味しそうに食べる姿はいいものね。なんだか幸せな気分になれるわ。ところで、この部屋の変化には気づいた?」


「えっ?」


 あわてて立ち上がり、がらんとした部屋を見回す。

 さっきは一刻も早く座りたいと思っていたから気づかなかった。床に、大きな図面が広げて置いてある。

 仙月様は歩いてその図面に近づいた。身長からざっと計算すると、縦が十尺、横幅は十五尺はある。


「後宮の全体図よ。昨日のうちに、写しを描いて持ってくるように頼んでおいたの。捜査はイメージが大事だから、これに調査した内容を書きこんでいくのよ。とりあえず今は中国将棋シャンチーの駒を使うわ。今日行ったのは、こことここ……」


 仙月様は木製の黒く丸い駒を、図面の上に置いていった。共同墓地と皇后様の小宮殿、それに秋貴妃様の屋敷だ。


「今日の成果を整理しましょう。まず、二人の容疑者の死体を調べて、そのうちひとりの顔が潰されていることがわかったわ。記録を書いた宦官に確かめたら、最初から顔は潰れていたけれど、意味がないと思ってわざと書かなかったそうよ」


「意味がない?」

 文月は思わず聞き返してしまった。


「別に不思議なことじゃないわ。どうせ自殺で処理するんだから、余計ないことは記録したくなかったんでしょう。

 とにかくこれで以前の調査資料はほとんど役に立たないことがわかったわ。成果のふたつ目は、宮女を使った実験で二人の死因が背の高い人物による他殺であることがほぼ判明したこと。そうだとすると、顔を潰された方の死体が本当に冬貴妃様の侍女かどうかも怪しくなってくるわね。

 ところで文月ウェンユェ。今日の事情聴取で皇后様の侍女と宦官の顔は覚えた?」


「はい。顔と名前、背の高さは百五十人分、全部覚えました。椅子に座った時に座高も確認しましたから、腰の位置もだいたいわかります」


 文月は胸を張って答えた。これくらいしか取り柄がないから、アピールする機会は今しかない。


「さすがね。あなたは気づいていないかもしれないけど。本当はこれって、すぐには信じられないくらいすごいことなのよ。別の場所で皇后様の侍女の顔を見たら、そのことも覚えておいてちょうだい。さて、それで本来の目的の、事情聴取だけど。何かわかった?」


「はい。それなんですが……」


 文月は、死んだ侍女のひとりが酷いイジメにあっていたことを話した。イジメた相手と共謀して犯罪をやるのは奇妙だ。そう話していた皇后様の侍女の言葉も付け加えた。


「顔の潰された死体の体には傷らしい傷はありませんでした。棒で殴られた傷や痣が、そんなに早く治るものなんでしょうか」


「脅迫されて従わされた可能性もあるけど、傷が消えた説明にはならないわね。ともかく死体が別人なのは間違いなさそうだわ。わざわざ顔を潰した理由もそれなら納得できるしね」


「すると、本物の侍女は……」


「それを探すのが次の目標よ。明日はまず最初に、この場所。冬貴妃様の屋敷に行きましょう。そこで二人の侍女の情報を集めることにするわ。

 それから、残りの二人の貴妃の屋敷の捜査……いいわね。後宮は逃げることのできない巨大な密室よ。人間の数も常に把握されているから、行方不明になってもすぐにわかるわ。つまりその侍女は誰かになりすまして、まだ後宮のどこかにいるということになるわけ」


 仙月様は白く塗った駒を冬貴妃様の屋敷の上に置いた。

 その姿はまるで、将棋の駒を使って敵を追い詰めていく熟練の棋士のように見えた。

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