4 恐ろしい皇后様

恐ろしい皇后様

 皇后陛下の住むお屋敷は個人のものとしては後宮内で最も大きかった。規模だけでなく、豪華さでも比類がない。皇帝陛下の宮廷よりもひと回り小さいことから、俗に小宮殿とも呼ばれている。


 まず、色が違う。

 後宮で使われている瓦は濃い灰色がほとんどだが、皇后様のお屋敷だけは黄色い瓦を使うことが許されていた。柱や壁の装飾に使う金属も、銀だけではなく金も使われている。そこに住む侍女は五十人、宦官は百人。それだけの人間がただ、皇后様ひとりのためにお仕えしている。


 文月は、仙月様の後ろを歩いていた。その更に後ろから宦官の天佑さんがピタリとついてくる。


「皇后様について、ひとつ注意をしておくわ」

 後ろを向いたまま、仙月様が話しかけてきた。


「皇后様は頭のいい方よ。だから他人から与えられた優しさも、恨みも、決して忘れない。そして何よりも恐ろしいのは、それにどうやって効果的に報いたらいいのかを知っていることよ。

 皇帝陛下が世に出る前、お金を借りていた二人の人物がいたわ。そのうちの一人はお金を返してもらえないのに催促もせず、困っているのだと思って食べ物を送ってくれた。もう一人は利息すら回収できない腹いせに、皇后様がかわいがっていた犬を奪って煮殺してしまったそうよ。

 戦乱が収まって、皇帝陛下は貧しい時代にお金を貸してくれた人に、借りた金を十倍にして返すとお触れを出したわ。名乗り出た二人に、皇后様はどうしたと思う?」


「ひとりだけにしか、お金を返さなかったとか……」


「返したわよ。二人とも、それも百倍にして。ただし犬を殺した方の人は水の涸れた井戸の中に入れて、その上から銅銭を投げ込んだそうよ。皇后様は井戸のそばで、その様子をずっと眺めていたと言うわ」


 文月はぞっとした。

 その人は落ちてくる銅貨に打たれ、傷つき、やがて潰されていったのだろう。

 それがどれほどの苦痛か。想像するのも恐ろしい。いや、それを冷静に確かめることのできる人……それを想像することの方が、もっとずっと恐ろしい。


「今、どんな顔をしているか想像できるわ。それでいいのよ。恐れをそのまま表情に出しなさい。皇后様はそうされる方が慣れているから、かえって安心するはずよ」



 皇后様の屋敷には皇帝の執務する宮廷と同じように謁見の間があった。

 一年半前。後宮に初めて入った時、文月も明鈴と並んで皇后様の前に呼び出されたことがある。かけられた言葉はひとつだけ。


 顔を見せなさい。


 そう言うと皇后様はじっとこちらを見てから、やがてすぐに横を向いて白い鳥の羽で作った扇子で虫を追うような仕草をした。

 後で聞いた話では、これは特別なことではなかったらしい。

 それから遠くでお見かけすることは何度もあったが、このように近くでお顔を拝するのはその時以来だった。


「顔を見せなさい」

 皇后様は、あの時と同じ声で言った。


 今年で二十八歳。十三の時に皇帝陛下に嫁ぎ、皇子を含む五人の子を産んでいる。

 だが、その美しさは少しも衰えていない。むしろ若い女性にはない妖艶さのような物が備わっている。

 一方で怖いと思いながらも、心を吸い寄せられる。そんなお顔だ。

 ピクリ。その時、頬がわずかに動いた。


「ふっ、ふふっ。うふふふふ……」


 皇后様は扇子で口を隠して笑い出した。


「私の顔が、そんなに面白うございますか」

 真面目な顔をして仙月様が聞き返す。


「そうね。あなたとは初めて会ったのでしたね。ところで、皇帝陛下から趙良の縁者だと聞いたけれど、あの男は元気にしている? 最近は美女を集めて、昼間から屋敷にこもっていると聞いているけど……」


 ドキン。一瞬、胸がえぐられたような気がした。

 バカ、なんで動揺するの。そんなの当たり前でしょう。趙良様は男性なんだもの。

 皇帝陛下をお慰めするためだけに、千人の女がいるのに。自分も求められれば身体を差し出さなければならない立場なのに。趙良様が好色でなかったらいいなんて。そんな夢想をするなんて、いくら何でも都合が良すぎる。

 

「皇后様は何でもご存知なのですね」

 仙月様は否定しなかった。


「この世に男と女のことより良いものはないわ。あの賢明な趙良のことだもの。戦争や政治も面白いけど、身を焦がすほどの魅力はないことにようやく気づいたのでしょう。その意味では、私たちは似た者同士だわ。だから私は、あの男を本当の弟のように思っているのよ。

 もちろん、あなたが来た理由も知っているわ。例の毒殺未遂の件で私を疑っているのでしょう。最初に言っておくけど、私はあの件とは無関係よ」


「これから、それを確かめさせていただきます。そのために、ここにいる私の助手に侍女や宦官たちから話を聞くことをお許しください」


「いいわよ。あなたなら信頼できるわ。私の無実を証明するために、せいぜい頑張ってちょうだい」


「はい。皇后様のために、一刻も早く真実を明らかにしてみせます」


「別に急がなくてもいいわよ。実は陛下が、昨日と一昨日おととい、二日続けて私のところに通われたの。寝物語に口でも滑らさないかとでも思っているんでしょうけど。私にとっては嬉しいことだわ」

 皇后様は艶然と微笑んだ。


「そういえば趙良もとうとう妻を娶るそうね。陛下から後宮の美女をひとり、賜るとか。誰を選ぶのか今から楽しみだわ」


 えっ、なに?

 バクン。心臓が痛い。


「ふふふふ。面白い。この娘、さっきから趙良の話をするたびに、顔をひきつらせているわよ。よほどあの男のことが好きなのね。

 さあ、私の目を見てごらん。見定めてあげる。……そうね。器量は悪くないわ。あの趙良なら、おまえをどうやって抱くかしら。ゆっくり時間をかけて、それとも乱暴に? あの真面目くさった戦略家は、おまえの固い蕾のような身体をどう開いていくのかしら……」


 ぞくっ。

 全身に悪寒が走った。まるで裸にされて舐め回されているようだ。

 恥ずかしい。顔から火が出るほど恥ずかしいのに、そのことをどこかで期待している自分がいる。

 はしたない。これではまるで売女ばいたと同じだ。こんな気持ちを趙良様に知られたら、もう生きてはいられない。


「私の助手をからかわれるのは、おやめください」


「なるほど……そういうことね。いいわ。この子はあなたの物よ。手を出さないと約束しましょう。誰か、この娘を連れて行きなさい。皆に話を聞きたいようだから、何でもいう通りにしてやって。いいわね。私に遠慮は無用よ。

 さあ、これでいいでしょう。仙月シェンユェ……確か、そういう名前だったわね。その間、私に付き合いなさい。あなたには別に、色々と聞きたいことがあるわ」


「どうぞ、こちらに」

 年配の侍女が、ひざまずいていた文月に立つように促した。

 まずい。足がガクガクと震えている。うまく立てないでいる文月を、天佑が横に来てそっと支えてくれた。

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