2 後宮の名探偵

探偵と助手

「さてと、何から話をしましょうか」


 仙月様の白い肌が、さっき灯されたばかりのロウソクに照らされている。

 それにしても美しい。まるで本物の天女のようだ。見つめられると、自分が女であることも忘れてドキドキしてしまう。

 よく見ると、仙月様の首筋には白い布がしっかりと巻いてあった。もしかしたら、痣や傷を隠しているのかもしれない。


 突然、仙月様が笑った。


「ふふっ。それにしてもさっきは驚いたわよ。あなたのような人物のことを『天然』というのでしょうね。知恵者を気取っていると、意外な落とし穴にハマるものね。今回はいい教訓になったわ」


「あの……それって、褒めているんでしょうか」


「もちろんよ。この私から一本取ったんだから、誇ってもいいわ。

 ところで、今日は大変だったわね。ここに来る前に転んで、中常侍様への大切な贈り物を落としてしまったんでしょう。中身は……そうね。銀の延べ板というところかしら」


「えっ、それ。誰に聞いたんですか」


 文月はビクッとした。

 なんでそんな事を知ってるんだろう。明鈴はずっと一緒の部屋にいたはずだ。中常侍様には気づかれていない。たぶん……だけど。


「あなたの服の膝と肘の部分が汚れているのよ。よく払ったみたいだけど、うっすらと土ぼこりが残っているわ。転んだら普通は手のひらをつくものだけど、あなたは肘をついた。これは体の正面で大切な物を持っていた証拠よ。

 ここに来る途中で落とした大切な物なら、それは中常侍様への贈り物以外には考えられないわ。袖についているのは銀の粉ね。そうだとすると、汚してしまった銀製品を袖で拭いたことになるわ。

 銀の器や置物を贈る場合はあらかじめ磨き上げておくから、拭いたくらいで銀粉は落ちないはずよ。でも地金じがねなら重さを調節する時にヤスリで削るし、刻印の時にもカスは落ちるわ。つまり、あなたは外で転んで延べ板の入った箱を落としたってことになるわけ」


 刻印……。

 あの延べ板にそんな印があっただろうか。

 文月は、あの瞬間の記憶を呼び起こした。キラキラした銀の棒が落ちていく。その瞬間で時を止める。

 あった、確かにあった。

 延べ板の側面に何かが彫られている。数を表す文字だ。


「すごい……その通りです」


「覚えておきなさい。これを推理というのよ」


「推理?」


「観察と理論で正解を導き出す技術、とでも言えばいいかしら。そういえば自己紹介がまだだったわね。私の名前は仙月シェンユェ、探偵よ」


「探偵……えっと、すみません。探偵って後宮に新しくできた官職か何ですか」


 聞いたことのない言葉が次々と出てくる。

 中常侍様とあれだけ親しく話をしていたのだから、普通の人ではない。たぶん、かなり身分の高い方だ。


「知らなくても当然よ。つい最近、私が作った言葉だから。探偵というのは報酬をもらう代わりに事件を解決する人間のことよ。もちろん新しく言葉を作ったくらいだから、他には誰もいないわ。私はこの中華で、ただひとりの探偵になるわけ。

 あなたも後宮で冬貴妃とうきひ様の毒殺未遂事件があったのは知っているでしょう。その事件の解明を中常侍様に依頼されたの」


「でも、あの事件は犯人が自殺して終わったって聞きました」


「直接の犯人は確かに死んだみたいね。ただし、犯行の動機も事件の背景もまだ何もわかっていないわ。もしかしたら、誰かが命令したのかもしれない。それを推理し、明らかにするのが私の仕事よ」


 そんなことができるのだろうか。

 全部もう、終わってしまったことだ。それに死んでしまった人間からは話を聞くこともできない。仮に誰かが命令したとして、それをどう証明するのだろうか。

 だが、仙月様には自信があるようだった。

 

「私が出てきたからには必ず事件を解明するわ。そのためにも、あなたには助手を頼みたいの。私は警戒されると思うから、宮女や宦官に話を聞いて回って私に報告するのが主な仕事よ。それと事件の記録係。どう、やってくれる」


「助手……ですか」


 明鈴ならこう言うだろう。宮女は余計なことに首を突っこまない。それが後宮で平穏無事に過ごすための鉄則だ。

 物事を掘り起こせば必ず波風が立つ。嫉妬や恨みがどれほど恐ろしいものか。そういうものに無頓着な文月でも身に染みて知っている。


「ありがたい話ですが、私にはとても務まりそうにありません。他を当たってください。宮女なら、他に優秀な人がいくらでもいると思います」


「あなたの記憶力は十分、尊敬に値すると思うけど」


「あれは、たまたま興味があるからで、他のことは全然ダメなんです。特に本を読んだ後はぼうっとしていて……。だからよく転ぶし、言いつけを忘れて怒られることもしょっちゅうです。この前なんか、昨日食べた晩ご飯も覚えていないのねって明鈴にからかわれました」


「晩ご飯を?」


「食事中に、覚えたばかりの本を頭の中でずっと読んでいたんです。その間は自分でも何を食べていたか記憶がなくて……まるで、魂が抜けたみたいだったって明鈴が言っていました」


「ある意味、すごい集中力ね。でも、自分で覚えようとしたことなら、いくらでも覚えられるんでしょう」


「それは、まあ……」


「それなら問題はないわ。私が欲しいのは、あなたのそういう能力だから」


「でも、私には秋貴妃様の侍女としての仕事があります」

 

「勤めのことなら心配しなくてもいいわよ。この件に関しては、中常侍様があらゆる便宜をはかってくれることになっているから。秋貴妃様も嫌とは言わないはずよ。

 さあ、もう一度聞くわ。私の助手になってくれない。報酬は弾むわよ」


「ごめんなさい。故郷にいる父母もそこそこ裕福ですし、あまりお金には興味がないんです。今のままでも十分に満足しています」


 これは本当だ。

 貴重な本がこれだけ読める環境なんて、そうはない。

 中常侍様にもかわいがられて、近くには親友の明鈴もいる。雑用のほとんどは宦官がやってくれるから、侍女の仕事も楽なものだ。オマケに食事も美味しい。


「あなたに、夢とかはないの」


「夢? 夢ですか」


 ちょっと心が動いた。

 もちろんある。それもとびっきりのが。

 ただ、それを言うと絶対に笑われる。今までマトモに聞いてくれたのは中常侍様だけだった。でも、もしかしたら。この人なら理解してくれるかもしれない。


「そんなに構えなくてもいいわ。ただの雑談よ」


「えっとその……笑わないでくださいね。私は後宮を出たら、推しに会いに行きたいんです」


「推し?」


「私、戦国時代の偉人とかが大好きなんです。特に藺相如様とか、李牧様とか。あの時代に行って下女のひとりにでもなれれば死んでもいいと思ってるくらいです。

 でも、それは無理ですから。せめて昔にあった趙の国まで行ってお墓参りをしたいなあって。女の身で遠くまで旅をするなんて無理だって、みんな言います。

 もちろん大本命は趙良様なんですけど。今は姿を隠されていて、どこにいらっしゃるかもわからないし……」


 くっく。くっくっく。

 仙月様が口を押さえて笑っている。


「笑った。やっぱり笑いましたね」


「ごめんなさい。でも、その気持ちはわかるわ。私も戦国時代の歴史は大好きよ。

 あの二人がいなければ中華の歴史は変わっていたでしょうね。逆に趙が秦の国に滅ぼされて、現実よりも百年も早く中華に統一王朝ができていたかしれないわ」


「そうそう、そうですよね。私もその可能性があったと思うんです。秦王の政は優秀で力のある王様だったし、野心もあったし。それに優秀な将軍が大勢いて、国力も充実してましたから……うわっ、もっと話してもいいですか。こんなこと話せる人、生まれて初めてです」


「なるほど、あなたには分析力もあるようね。ますます気に入ったわ」


 仙月様はぞっとするくらい美しく微笑んだ。


「あなたは趙良様が好きなんでしょう」


「はいっ、あの方は推しの中でも特別です。現代の人間なんてみんな小物だと思ってましたけど、あの方だけは違います。戦国時代の英雄の誰と比べてたって負けません。趙良様の知略がなければ今の帝国はなかったはずです。もしお会いできるなら、その場で死んでも構いません。『朝、道を聞かば、夕べに死すとも可なり』です」


 文月は一気にまくし立てた。

 趙良様への愛なら、誰にも負けない自信がある。


「会わせてあげてもいいわよ」


「えっ……」


 頭が真っ白になった。

 まさか。趙良様、趙良様に会える?


「これは中常侍様しか知らないことだけど、私は趙良様の縁者なのよ。あなたがもし助手として事件解決の役に立ってくれたら、趙良様とお会いできるように話をつけてあげてもいいわ」


「やります。やらせてください」


 思わず即答してしまった。

 軽々しかったかもしれない。でも、考えたって答えは同じだ。 

 心からお慕いする殿方の中で、まだ生きているのは趙良様だけだ。誰にも言えない話だが、本当は皇帝陛下にだって興味はない。


 趙良様の尊いお顔を拝める。近くで同じ空気を吸える。それに、それに。もしかしたら触れることさえできるかもしれない。


「あの、あの。趙良様は私のような者にでも声をかけてくださるでしょうか」


「趙良様はこの事件に大きな関心を持っているわ。あなたの活躍を聞けば、趙良様はあなたのこともっと知りたいと思うかもね」


「知りたい……」


 うわぁ、どうしよう。

 一瞬、その先の……何か、とんでもないことまで想像してしまった。

 もちろん全てを捧げる覚悟はとっくにできている。でも、もしかして。本当に?

 心臓が破裂しそうなくらいに胸が高鳴る。顔が、耳の先まで熱い。


「どうして顔を赤くしているの」


「知りません」

 文月は、あわてて横を向いた。


「まあ、いいわ。あなたは今この瞬間から私の助手よ。これからは私の指示に従ってちょうだい。まず、聞き取った会話は全て記憶しておくこと。私の許可なしに、事件のことは他人に話さないこと。これは貴妃様や中常侍様でも例外はないわ。

 情報は整理して、必ず私に報告してちょうだい。いいわね」


「はい」


「明日からは、こちらに泊まりこみになるわよ。中常侍様に頼んで宦官の誰かに送らせるから、今日のところはこのままお帰りなさい」


 頼んだわよ。

 仙月様は最後にそう言って、手を握ってくれた。

 その指はまるで白魚のように優雅で美しく、とてもひとの物とは思えないほどだった。

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