1 謎の麗人

中常侍

 カタッ、カタッ、カタッ。

 贈り物の入った白木の箱が音を立てている。


 箱の中身は聞かされていない。ずっしりと重いから、すずりか何かだろうか。

 でも、そんなことはどうでもよかった。これから本が読める。それも最新の歴史書だ。王朝の歴史を書いている史官の最新の草稿の写しを、中常侍様が特別に取り寄せてくださったのだ。

 楽しみで楽しみで、昨日は眠れなかった。

 心の中で歴史上の人物が踊る。何百年も前の偉人が頭の中を駆け回る。悲しみや苦しみ、それを十倍する爽快感。今もドキドキが止まらない。本は魔法だ。ページを開くだけで、どんな所にいても最高の出逢いと感動を与えてくれる。


「……で、それでね。あの事件を調べに来る人が、うちの貴妃様も驚くくらいの美人なんだってさ。ねえちょっと文月ウェンユェ、もう。聞いてる?」


「えっ、ごめん。聞いてなかった」


 いけない。また白昼夢の中にいた。


 目の前に明鈴メイリンがいる。一緒に後宮に入った同郷の友達だ。

 二人とも地元では器量良しだと言われていたが、後宮ではそんな評判は全く通用しなかった。特に皇后様や貴妃様は天女か菩薩様だ。正面に立っただけで圧倒される。

 だから当然のように妃嬪の選から漏れ、四貴妃のひとり、秋貴妃しゅうきひ様付きの侍女として勤めることになった。だが、それを不運だとは思っていない。


 後宮に来なければ、こんなにたくさんの本を読むことなどできなかった。特に中常侍様に出会えたのは最高の幸運だった。宦官の最高位の方なのに、自分のような者にも気さくに話しかけてくださる。


「空想もいいけど、ぼけっとしてると危ないよ」


「うん。……うっ、ふうわっ」


 石につまずいた。そう気づいた時には、もう手遅れだった。


 ガタガタッ。

 箱の中身が激しく揺れる。

 体が前につんのめった。大事な箱が、手からすうっと離れていく。

 あわてて取り返そうと宙をつかんだが、もう届かない。


 あ、あ、あ……。

 その時、文月の中で時間が止まった。


 銀色にキラキラと輝くいくつもの棒。それが目の前で交差しながら、舞うように落ちていく。美しい。まるで雪の日に反射する太陽の光のようだ。


 なんだろう……これ。

 銀色の棒に、文字のようなものが刻まれている。


 危ない! 手だ、手をつかなきゃ。


 気がつくと、文月は前のめりに転んでいた。

 反射的に肘をついたが、箱の中身は地面に散乱してしまっていた。幸い、何かが割れたような音はしなかった。どうやら硯ではなかったらしい。


「もう、言わんこっちゃない。文月ウェンユェ、大丈夫?」


「う、うん。でもそれより早く拾わなきゃ」


 箱は腕を伸ばした場所よりも先にあった。

 肘や膝の痛みを気にしている余裕はなかった。こんな所を他の貴妃の侍女にでも見られたら大変なことになる。自分の失態は主人の失態だ。後でどれほど叱られるか。考えただけでも寒気がする。

 最初にまず箱を拾い、それから散乱した中身に手を伸ばす。


「うわっ!」

 その時ようやく、文月は箱の中身に気づいた。


「何これ。全部、銀の板だよ。すごい大金……これだけあったら、家が買えるかも」


文月ウェンユェ、いい。自分に関係ないことは見ない。聞かない。宮女の鉄則だよ。さあ、一緒に拾ってあげる。早くしまって中常侍様の所に行こう」


 明鈴はしゃがんで自分の荷物を脇に置いた。拾ってから、一枚ずつ服の裾で丁寧にぬぐう。

 銀の板は全部で八枚あった。全部が新しいピカピカの延板だ。

「ほうら、膝の土ぼこりも払って。これじゃあ転んだのがバレバレだよ」


「うん、ありがとう」


 そうだ。考えても仕方ない。

 こんな風に中常侍様の所に通うのを許可してくれているのも、善意ばかりとは限らない。力のある者に賄賂を渡してつながりを持とうとする。本の中ではよくある話だ。貴妃様にとっては自分もその道具のひとつなのだろう。



 中常侍様がいる建物は、後宮でも宮廷に一番近い一画にあった。

 後宮と言ってもひとつの建物ではない。皇帝が政務を司る宮廷に隣り合った巨大な敷地に無数の建物がひしめいている。中には庭だけでなく広場もあり、むしろ町と言った方がよかった。

 妃嬪と宮女が合わせて千人近く。宦官はその三倍はいる。普通の町と違うのはその敷地が高い塀で囲まれており、常に厳重に警戒されていることだ。許可なく出入りしようとする者は当然、死罪になる。


「おお文月ウェンユェ、よく来たな。待ちかねたぞ」

 中常侍様は、皺だらけの顔を綻ばせながら迎えてくれた。


 本名は曹高そうこうという。中常侍は役職だ。本来は皇帝の後宮入りを取り継ぐだけの役目だが、そう思っている者は誰もいない。後宮における皇帝の秘書、つまり宦官の実質的なトップとして妃嬪たちにも負けない権勢を誇っている。


「中常侍様もご機嫌うるわしく。私などのために貴重な本を取り寄せていただいて、感謝の言葉もありません」


「世辞は文月ウェンユェには似合わぬぞ。いつものようにお爺様と呼んでおくれ。子を成すこともできぬ半端者の身には、その言葉が何よりのご馳走だ。それで、こちらにいるのは誰かな。たぶん、初めて見る顔だと思うが」


 明鈴が文月の横でさっとひざまずいた。

 

「私は同じ秋貴妃様の侍女で明鈴メイリンと申します。今日は貴妃様の使いで参りました。郷里の桃を是非、中常侍様に食べていただきたいとのことです。それと文月が持っているのは中常侍様へのお礼です。自分の侍女に貴重な本を読ませていただいたことを、貴妃様はとても感謝しておられます」


 貴妃は数多あまたいる皇帝の妻妾の中でも皇后に次ぐ高い位だ。

 定員は四人と決まっていて、それぞれ格の高い順から春夏秋冬の一文字を与えられている。つまり文月の仕える秋貴妃様は貴妃の三番目、皇后様を加えれば四番目の序列にいることになる。


「秋貴妃様が……それはそれは、わざわざ痛み入ります。曹高がお心づかいに恐縮しているとお伝えください。おい、誰か。この二人のお嬢さんにお茶とお菓子を。それとその桃も剥いてやってくれ」


「はい。中常侍様」

 側に控えていた若い宦官が、桃の入った包みを持って部屋を出て行った。まるで童子のように頬がふっくらとしている。


 その間に、中常侍様は引き出しから大切そうに一冊の本を取り出した。

 紙の本は貴重品だ。地方では、まだ竹や木の札を使っている所も多いらしい。貴重な文献から順番に紙に書き写す作業も続けられているが、完成までに何十年かかるかもわからない。


「さあ、文月ウェンユェ。これが、このまえ話した写本だ。皇帝陛下が挙兵してから中華を支配されるまでの過程が詳細に書かれることになっている。完成した部分はまだ、全体の十分の一にもならないが、おまえのヒイキの趙良様も出てくるぞ」


「趙良様がですか」

 文月は思わず身を乗り出した。


「ははは。まるで餌に食いつく鯉のようだな。あわてずとも、本は逃げないぞ。私はこれから人と会う予定がある。終わったら戻ってくるから、ゆっくりとしていきなさい。読み終わったら後で感想を聞かせておくれ」


「はっ、はい。お爺様。そうさせていただきます」


 文月は両膝をつき、組んだ腕を持ち上げてお辞儀をした。

 うやうやしく本を受け取る。それを机の上に開くまでの時間がまた。もどかしい。


文月ウェンユェ、いただいたお茶はどこに置く?」


「そっちに置いて。本が濡れたら大変だから」


「持ってきた宦官の人が困ってるよ」


「ごめん、明鈴メイリン。お願いだから話しかけないで。これから私は趙良様に会うの。桃もお菓子もみんなあげる。だから今は、この本だけに集中させて」


「はいはい、わかりましたよ。まったく文月ウェンユェは、本の事になると普通じゃいられないんだから。そんなんじゃ、後宮を追い出されてもお嫁に行けないわよ」


「いいの。私は趙良様と結婚するんだから」

 もちろん現実になるわけがないけど。この中華のどこかにいるなら、可能性はゼロじゃない。


 震える手で本をめくる。

 美しい文字だ。この文字の中に趙良様はいる。


 お目当ての趙良様は、全体の二割くらいまで読み進めた時に突如として現れた。

 名前を見つけた瞬間、心臓がぎゅううぅっとする。

 やばい。心を落ち着けなくちゃ。このままじゃ、ページをめくれない。


 王朝の記録を綴る歴史書だから、趙良様の容貌や特徴も詳しく書かれていた。

 皇帝に会った時は十四歳。白皙の美少年で、その美しさは女性も羨むほどだった。星のように澄んだ瞳に秀でた眉。カラスの濡羽のように艶やかな黒髪。だが、そんな外見にもかかわらず、その知謀は千年の時、千里の先を見通すようであった。


 やがて皇帝となる蕭秀の前にいきなり現れ、絶体絶命の窮地を秘策で救い軍師として迎えられる。戦うべき相手、和睦すべき相手を的確に見抜き、弱小勢力のひとつに過ぎなかった蕭秀を天下を争う英雄へと成長させていく。


 もともと文月は戦国時代の英雄が好きだった。その後の時代に英雄と呼ばれた人間は、みんな小粒でつまらない人間ばかりだと思っていた。でも趙良様だけは違う。戦国時代のどんな英雄にも引けを取らない。いや、全てにおいて優っている。


 文月にとって夢のような時間が過ぎていった。

 気がつくと格子模様の窓から差しこむ光が弱くなっていた。残りのページが少なくなるにつれ、高揚した心の中にも寂しさを感じるようになってくる。もうすぐ終わってしまう。それがわかっていても、ページをめくる指が止まらない。


 ああ、終わってしまった……。


「どう。そろそろ正気に戻った?」


 顔を上げると、明鈴があきれたように文月を見つめていた。


「あ、明鈴メイリン。なんでそこにいるの。えっと……そうか。そう言えばここ、中常侍様のお部屋だったわよね。もしかしてずっと待ってたの」


「なに言ってるのよ。文月を置いて勝手に帰れるわけないじゃない。でもまあ、私もサボれたからいいけど。ちゃんと貴妃様にはうまく言ってよ。中常侍様が無理に引き留めたから遅くなったってね。それと、たまには私も連れて来てもいいか、お願いしておいて。実はさっきイケメンの宦官様に会ったの。ちょっとだけだけどお話ししちゃった。これ、宮女的にはセーフよね」


「別に大丈夫だと思うけど。う……ちょっと待って」


文月ウェンユェ、どうしたの?」


「目が痛い。瞬きを忘れてたのかも。バカ……だと思う?」


「ふ、ふふっ。ふぁははは……」


 予想どおり大笑いされた。

 本当に痛いだけに、ちょっとくやしい。

 乾いた目に指先で、ちょんちょんと水をつけると少しはマシになった。

 空が赤い。にじんだ目で窓から外を見ると、ちょうど夕陽が落ちそうになっているところだった。

 もう戻らないといけない。後宮は嫉妬の塊だ。中常侍様に気に入られているからって、調子に乗っている。同僚の侍女たちにそう思われているのは、いくらカンの鈍い文月でも知っている。

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