【後宮の麗人探偵】〜後宮でなぜか名探偵の助手をやっています〜

千の風

プロローグ 皇帝のムチャぶり

勅命

 その男は、いつもふらりと現れる。


「久しぶりだな。そんなに、かしこまらなくてもいいぞ。気が向いたから寄っただけだ。そうだ、先に茶を出してくれ。待っている間に少しばかり喉が渇いた」


 堂々とした態度に、意図せずに愛嬌を振りまく稀有の才能。勝手に現れた癖に、気がつくとなぜか、こちらが待たせたような格好になっている。


 やれやれ。

 また厄介事を持ってきたな。

 こういう時のカンはまず外れない。茶をすする中年男を眺めながら、趙良ちょうりょうは早くもあきらめの境地に入っていた。


「それで、今度は私に何をさせたいのです」


「いきなりご挨拶だな。わしがそんなに人使いの荒い男に見えるか」


「見えますね。だからこそ私は、まだ生きているのです。おおかた、宮廷の中でイザコザでもあったんでしょう。また、宰相殿と皇后の様一族との争い事ですか」


「そっちの方は、今は落ち着いている。おまえの献策のお陰だ。あれは助かったぞ。波風を立てずに処理できるとは、正直わしも思わなかった。どうだ、今からでも宮廷に出仕せぬか。なんでも好きな官職を選んで良いぞ。俸給も領地もたっぷりとくれてやる。おまえは、こんな小さな村にくすぶっているには惜しい男だ」


 また始まった。

 八年前。うっかりその言葉に乗ったせいで、どれだけの苦労をしたことか。

 その頃はまだ、趙良は十四になったばかりの少年だった。自分の本当の力を試したい。そのことだけが全てに優先した。だが今は違う。机上の探求で構わない。どうせ思考どおりに世界は転がるのだ。人の命を犠牲にした実験など何の意味もない。


「ごめんですね。陛下の周りには火種が多すぎます。賢明な宰相殿なら危険を避けながらでも上手く立ち回れるでしょうが、私にはとても……それに、これはもう終わった話です。

 結論の決まった問答を繰り返しても、陛下がご不快になるだけでしょう。それよりも、そろそろ今回のご用件をお話しくださいませんか。陛下のことです。どうせまた私に無理難題を押し付けに来られたのでしょう」


「先の見える男はつまらぬな」


 こう帝国の皇帝、蕭秀しょうしゅうは甘い餅菓子を口に放りこんだ。毒を確かめたりはしない。趙良もそれくらいには信用されている。

 皇帝の片腕として知略の限りを尽くし、ようやく中華を統一して三年。広大な領地や官職を与えられた功臣たちの中で、趙良ひとりは恩賞のほとんどを辞退し、都の近くにある小さな村に隠棲していた。


 本当はもっと田舎が良かったのだが、皇帝のたっての希望とあれば仕方がない。

 もちろんその裏にある意味も知っている。相談役というのは建前で、趙良ほどの人物を目の届かない場所に置くのが不安なのだ。それがわかっているから、こうやってわざわざ毎日読書三昧の生活を送っている。


「……それで、だ」

 皇帝の目が急に細くなった。


「ここからの話は内密で頼む。おまえを信用していないわけではないが、ウワサというものは実に厄介だからな。二日前、四人いる貴妃のひとりに毒が盛られた。幸い貴妃の口に入ることはなかったが、そのせいで後宮は今、大騒ぎになっている」


「それが私に何の関係があるのです。後宮のことなど、お気に入りの宦官にでも任せておけばいいでしょう」


「それが役に立たないから、おまえに相談しているのだ」

 皇帝は深いため息をついた。


「それほど難しい話ではないと思いますが……。後宮は人の出入りがほとんどない、いわば巨大な密室です。その場所、その時刻に犯行が可能だった者を全員集めて、口を割らせれば済むことでしょう」


「その必要はない。犯人なら、もうわかっている。事件の後すぐに貴妃付きの侍女が二人、別の場所で死体で発見された。その侍女はその日、配膳の担当だったそうだ。部屋からは毒の入った小瓶も見つかっている」


「それならば、もう……」


「まあ待て。結論を急ぐな。狙われたのはわしの寵姫だ。知っておろう。後宮に美女は多いが、寝所にいて本当に心が安らぐのはあの者だけだ。男子も産んだことだし、そのうち皇后に次ぐ位にしてやるつもりでいた。だが、女の嫉妬とは恐ろしいものでな。以前から何かと嫌がらせを受けていたらしい。

 その貴妃は今回の毒殺未遂も皇后の指示ではないかと疑い、怯えているのだ。なにせあの皇后だ。やりかねないとは、わしも思う。

 おまえに頼みたいのは、この事件の真相を明らかにすることだ。後宮に潜入して、直接おまえの手で事件の調査をしてほしい。もちろん報酬は望むがままだ。天下の大軍師、趙良の名は隠す。どうだ。やってくれるか」


 冗談ではない。無理難題は慣れているつもりだったが、これはその中でも最悪だ。

 皇后と寵妃。どちらに味方しても恨まれる。特に皇后は怖い。戦乱の時代から蕭秀を支えた一族の娘で、今では後宮の外にまで大きな勢力を持っている。


「しかし、私は男です。後宮には入れません」


「ならばいっそのこと、宦官にでもなるか。わしが後押しするぞ。おまえが奥にいてくれれば帝国は盤石だ」


「待ってください。いくら陛下のご命令でも、従えないものは従えません。宦官にされるくらいなら、自分の手で首を刎ねて死んだ方がマシです」


「ふ、ふふっ。ふわっはっは」

 皇帝は大声で笑い出した。


「冗談、いや冗談だ。おまえほどの人材を無駄に殺すわけにはいかん。それにたとえ宦官でも、おまえのような美男が後宮にいては困る。臣下に貴妃たちの心を奪われたのでは、わしの面目は丸潰れだ」


「いいえ。私など、ただ体の線が細いだけのひ弱な男です。その証拠に、まだ嫁さえおりません。女性はむしろ陛下のような逞しい男性を好むものです」


「すぐに世辞とわかる言葉はよせ。背中がむず痒くなる。だが困ったな。宦官が駄目だとすると、どうするか。それではおまえを後宮に入れる手段がない。困った。いや困った……」


 恐る恐る趙良は口を挟んだ。

「私が行かないという選択肢はないのですか」


「あるくらいなら、わざわざこんな田舎まで来るものか。……それにしても、おまえは非情な男だな。天下に聞こえた知恵者なら想像がつくだろう。このまま放置しておれば後継者争いがこじれて、また戦乱になるかもしれん。そうなれば、この帝国に住む幾千万の民の命はどうなる」


 陛下が身を慎めば良い話でしょうに。

 そう言いたいところだったが、趙良は知っている。気さくに見えるが、皇帝の心の底には氷のように冷えた部分がある。それを心得ずに誅殺された臣下は一人や二人ではない。

 まあ、それを皇帝の意思だと見抜いている者は少ないだろうが。


「わかりました。私が女装して後宮に入りましょう。あまり気が進みませんが、見破られない自信はあります。それでよろしいですね」


「おお、さすがは趙良だ。それには気づかなかった。それにしても……これは見ものだな。おまえが女の格好をしたらどれほどの美女になるのか。皇后などは前から、見たい見たいと申していた。これでひねくれた機嫌も少しは直るかもしれん」


 最初から、そのつもりだったな。

 趙良は舌打ちをようやくこらえた。白々しいのも、ここまで来ると芸術だ。


「その代わり、妃嬪として後宮に入るのは困ります。競争相手として警戒されたのでは調査になりません」


「それは良いが、後宮の女性には妃嬪以外の官職はないぞ。下働きの宮女では他の者が言うことを聞かぬであろう」


「官職がなければ、新しく役目を作ればいいのです。そうですね。たとえば『探偵』というのはどうでしょう。事件の解決のため、報酬と引き換えに捜査を行う人物という意味です」


「わしは『探偵』などという言葉は知らんぞ」


「それはそうでしょう。たった今、私が作ったのですから。陛下が高位の宦官に事件の解決を命じ、その宦官が私を雇う。そういう形でどうです。陛下はただ、後宮に入る許可を与えさえすればいいのです」


「なるほど名案だ。それならわしが表に出なくても済む。さすがは天下の大軍師だ。おまえに任せてよかった。おい、誰か酒を持って来い。酒盛りだ。趙良、おまえも付き合え」


 他人の家で勝手に、という理屈は皇帝には通じない。

 もちろん上等の酒はいつも用意している。使用人に何人も美女を雇っているのも、こういう時の備えだ。

 ただし、それを知っているのは趙良だけだ。


「そうだ。おまえにやる報酬をまだ決めていなかったな。遠慮はいらん。何でも良いから言ってみろ」


 酔いが回った頃、皇帝が趙良に聞いてきた。


「今までに陛下にいただいた物で十分です」


「わしに恥をかかせる気か。どうやらおまえは、皇帝というものを軽く見ているようだな。臣下にタダで仕事をさせるような、ケチな男だと思われては心外だ」


「それなら、何でも陛下が良いと思われる物を……」


 しまった。

 そう思った時には遅かった。


「そうだ。ならば後宮にいる女をひとりやろう。おまえもそろそろ嫁を取ってもいい頃だ。男子を産んでいない者なら、わしの手のついた女でも良いぞ。天下の大軍師がどのような美女を望むのか。これは今から楽しみだ」


 こうなったら、もう断れない。

 どのような女を選べばいいか。選んだとして、どう遇すればいいのか。

 事件の解決よりも、よっぽどの難問だ。その日の趙良は、憂鬱を隠すために珍しく酒を過ごす羽目になった。

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