▄︻┻┳═一   二発目     ≫【寄り道】

——東京、練馬

 あたたかい日差しがカーテンをすりけ部屋に充満じゅうまんする。春の日差しというのは冬のこたつに引けを取らない気持ちのよさだった。今ならねこの気持ちがわかりそうだ。

 おぼつかない足取りで洗面台へ向かう。手早く顔を洗い、寝起きの顔に一発気合きあいを入れる。目も覚めたことだし、早速お弁当を作ろう。

 食器棚しょっきだなからボウルを取り出してたまごき、あぶらを引いたフライパンに少しらす。らず弱火よわびでやるのがコツだ。ここで残った卵にきざんだネギを入れるのが俺のこだわり。

 残りの溶き卵を入れて十分に火を通したら卵焼きのできあがりだ。

 冷蔵庫れいぞうこをあさり、昨日の残り物をちょいとめたらお弁当の完成。

 時計を確認しエプロンを外しながら二階へあがる。部屋に入るまえに一応ノックするがいつも反応はない。そのままドアを開け、枕元まくらもとへ行く。

うみ、朝だぞ。ご飯作ったから先に顔洗ってきな」

 妹の柊木ひいらぎうみ、朝はこんな感じだがとてもしっかりした子だ。俺よりも成績せいせきはいいし文句もんくもあまりいわない。そのうえ普段ふだん家事かじは妹がこなしている。そんな自慢じまんの妹を起こして朝のルーティンは終わり。


 ふあーっとあくびをする海が椅子いすに座る。ツインテールが眠たそうにゆらゆらと揺れていた。そんな彼女に笑みがこぼれる。

 両手をあわせて兄妹ふたりで朝ごはんを食べる。

「お兄ちゃん、なんでお弁当作ったの? 今日始業式でしょ」

 はっとしてカレンダーを見た。そこにはペンでしっかり"始業式しぎょうしき"と書いてある。もちろん自分の字で。春の暖かさに気が緩んだのか、はたまた学校が楽しみだったのかさだかじゃない。

「お兄ちゃんそういうとこあるよね。うちまだ中学生だけど頼っていいからね」

 妹は年齢ねんれいを疑うほどしっかりしている。だからこそ無理をしてほしくないと思うのは兄の心境しんきょう。うちがこんなんじゃなければもっと友達と遊んだりしたのかなと考えてはいけないことを考えてしまう。

 父さんは俺が中学のときに交通事故こうつうじこくなった。それから母さんは女手ひとつで俺らを育ててくれたが、元々病弱びょうじゃくだったうえに精神せいしんてきダメージが大きく去年入院にゅういんした。

 今は無理むりいって親戚の経済けいざいてき支援しえんけているが、いつまで続くかわからない。俺もバイトをかけ持ちして少しでも海に好きなことをさせれるように頑張っている。それでもふたりでらすには、この家はあまりに大きすぎて心にくるものがある。

 海は俺の作ったご飯を美味しそうに食べる。そんな妹を見るのが俺の数少ないすくいだ。


   ◯


「それじゃあお兄ちゃん、行ってくるね」

 海とはここでお別れ。空いているカバンを揺らして友達ともだちと仲良く歩いていく。妹を見送ると、自転車にまたがり坂を一気いっきにくだった。俺のかよう高校は少し離れたところにあるため自転車がマストだ。

 春の陽気ようきを感じながら先を急ごうとしたとき、ひとりの男の子が目に入った。小学校低学年ていがくねんくらいだろうか、地面に座り込んで泣いている。

「どうしたの?」

「走ってたらね、おひざをね……ぐすっ」

 涙ながら事情を説明してくれた。転んで膝をすりむいたらしい。足元を見るとあたらしいくつが脱げて転がっていた。

 俺も小さいころよく転んでいたから、昔の俺とこの子の姿を重ねてしまう。泣いている子どもを目の前に懐かしんでいるのもどうかと思うけど。

 このままではかわいそうだし、応急おうきゅう処置しょちだけでもしておこうか。とりあえず軽くティッシュで拭いて絆創膏だけでも貼っておく。

「これでもう大丈夫だ。学校着いたら保健室ほけんしつでちゃんと消毒しょうどくしてもらうんだぞ」

 泣き止んだ男の子はおれいをいうと、元気に手を振って学校へ向かった。揺れるランドセルを見ながら一件落着いっけんらくちゃくと満足げに息をく。

 おっとあぶない、こんなところでゆっくりしている場合じゃなかった。早く学校に行かないと新学期早々そうそう遅刻ちこくしてしまう。カバンを背負い自転車に足をかけたそのとき、突然声をかけられた。

「空ちゃんじゃない、いいとこにいたわ」

 それは知り合いのおばさんだった。軽く挨拶して話を聞いた。荷物を車に乗せるの手伝ってほしいとのことだった。

 見た感じ重そうな段ボールがいくつもあった。ちから仕事しごとは得意ではないがこまっている人を放って置けない。朝からあせをかいてせっせと荷物を運ぶ。

 ひと仕事終えるとおばさんがお礼にとお茶をくれた。


 意気揚々いきようようと走り出した俺は信号しんごうを渡るおじいさんの手を取り、財布さいふを落とすドジなお兄さんをいかけ、迷子の女の子を交番こうばんに連れていった。

 あれ、なんか先に進めない……。急ぐ体に反して偶然に偶然が重なる。学校があるにも関わらずあちらこちらに困っている人がいる。それを見逃せない性格せいかくあだとなって助けてしまう。

 近くの学校のチャイムが聞こえた。その瞬間俺は遅刻を確信した。

  それならと、ある場所で自転車を故意こいに止めた。


 大東橋だいとうばし


 ここは俺が好きな場所だ。この時期になるとソメイヨシノがくるき、お花見はなみをする人もいる。下に流れる神田川かんだがわ心地ここちいい音色ねいろを出している。

“キーンコーンカーンコーン”

 二回目のチャイムが鳴ってしまったらもう仕方がない。あきらめて学校へ行こう。自転車にまたがり、重いペダルを回しだす。諦めという優越感ゆうえつかん罪悪感ざいあくかんに心が遊ばれそう。

 名残惜しそうに桜を眺めているとふと人影が目に入った。


 とっさに自転車のブレーキをかけた。


 着ていた制服は間違いなくうちの学校のやつ。彼女はフェンスにもたれかかって、手を伸ばし桜を眺めていた。それは表情ひょうじょうこそ見えないが、枝一本いっぽん一本いっぽんに話しかけるように優しくれているのが伝わってくる。

 しかしその桜は枯れ木だ。いや……微かにつぼみがついている。時期じきに間に合わなかったのだろうか、とても寂しそうにしている。

 彼女はなぜその桜の木を見ているのだろうか、なぜ学校に行かないのか、いったいだれなんだ。そうやって彼女と老いた桜の木を見ていたそのとき、突風とっぷうが吹いた。

 堪らず目を閉じた。砂が混じり目が痛くて開けられない。

 目を優しくこすりゆっくり開けるとそこには彼女が、“景色”があった。


 彼女を包むように舞いあがる桜の花弁。

 微動びどうだにしない彼女のなびく髪。

 精霊のたわむれで不規則ふきそくに動く桜。


 まるで俺と彼女が同じ存在ではないと暗示あんじしているように現実味げんじつみを帯びていなかった。こんなにも心をうばわれたのはいつぶりだろう。少し胸が苦しい。

 不意ふいに小麦色の髪をかきあげて俺のほうを向いた。その目はい込まれるほど綺麗きれい青色あおいろで、つい見惚みほれてしまった。

 じっと見つめてくる彼女にこっちがずかしくなった。視線しせんをそらすように大慌おおあわてで自転車に乗った。

 頭の中にこびりつく“景色けしき”は鮮明せんめいなものだった。後ろを振り返ってみたがそこに彼女はいなかった。


   ◯

 

初日しょにちから遅刻ちこくなんていい度胸どきょうだな」

 玄関玄関まえ体育たいいく教師きょうしつかまり生徒指導室せいとしどうしつれていかれた。今は全校ぜんこう集会しゅうかいちゅうらしく、時間も時間なんで教室に行くようにいわれた。

「先生、俺って何組なんくみですか? 確認するまえにここにきちゃって」

「ったくお前ってやつは。ちょっと待ってろ確か集会のまえに……」

 先生がそのまま連れていったんだろとはいえず、パイプ椅子にちょこんと座る。先生はバインダーの紙を確認して教えてくれた。

 “二年七組”、それが俺のクラスだ。

 教室に着くともちろんだれもいなく、黒板に貼ってあった座席表ざせきひょうを確認する。思いのほか知り合いがいて、なんだかさわがしくなりそうな予感よかんがする。するとふとひとりの名前が目に入った。

里中さとなか……アマリリス……」

 突然教室のドアが開いて、クラスメイトが戻ってきた。

「お、空きたのかよ。これで皆勤賞かいきんしょうなくなったな」

「今日は授業日数にっすうふくまれませんので安心してくださいね柊木君」

 友達と担任の先生がにこやかに話しかけてくる。別に皆勤賞を狙っているわけではないが、そういわれると少し恥ずかしくなった。カバンを抱えて自分の席を探す。

 席に座ると配布物はいふぶつが次々に送られてきた。学級がっきゅう通信つうしんや保護者あてのプリント。それほど重要な物でもなさそう。さらっと読んでから机に置く。

 教室を見渡みわたすと知らない人たち、目の前には新しい担任、手にはプリント。それらすべてがあらためて新学期だと感じさせた。


 初日なだけあって今日の学校は午前中に終了した。学校にくるまえからすでにいろいろあったなとため息をつき、カバンに顔をめる。ちょうどいい気温に窓の隙間すきまから入ってくるそよ風がとても心地よい。

 クラスメイトはあらかた帰ったらしく教室は静かだった。このまま寝ようかな……でもだれか俺を呼んでいる気がする。「そーらー、ねえ空ってば」と聞こえるが、空耳そらみみかなと無視むしする。きっと疲れたせいで夢でも見ているのだろう。

 クラス替えがどうなるかと思ったが、先生も優しそうだし別にボッチじゃないから問題なさそう。そういえばこのクラスに……。

「空! 何回も呼びかけたのに反応しないなんて! それに初日からなんで遅刻してんのよ。あんたらしくない」

 いきなり机を叩き現れた彼女はあきれ顔だった。わっとなさけなく驚いて飛び起きると、足が椅子に引っかかりそのまま倒れた。

「もうなにやってるの。あんたってやっぱドジよね」

 彼女は島塚しまづかすみれ、うちの近所に住んでいて幼稚園ようちえんからの付き合いになる。つまり幼馴染おさななじみだ。

 頭に手をついてやれやれといいたげな彼女を見るのはこれで何回目だろうか。

 元気いっぱいなすみれがしつこく聞いてくるので、今日あったことを軽く説明した。桜のこと以外は。

「あんたって相変わらずお人好ひとよししなんだから。てか、同じクラスになったのって久々じゃない? 小学校以来いらいだっけ」

 幼馴染みとはいえ、すみれは部活ぶかつがあるし俺はバイトがある。学校で会うことはあまりない。改めて制服を着ているすみれを見るとなんというか大人っぽい……いろいろと。バスケしているだけあってスタイルはいいし、顔もそこそこ……。

「ちょ、ちょっとどうしたのよ。顔になにかついてるの」

 スマホを取り出して顔を確認する姿が滑稽こっけいで思わず笑ってしまう。

「いやなんでもない。一緒に帰ろうかすみれ」

 すみれは大きくうなずくと嬉しそうに自分のカバンを取りに行く。相変あいかわらずいつも元気でこっちもうれしくなる。


   ◯


「ちょっとまた信号じゃん」

「まあまあゆっくり行こうよ」

 信号に捕まったすみれは威嚇いかくするように歯軋はぎしりをしている。昼でも交通量こうつうりょうが多い、それが新宿だ。特に俺らが通っている八重桜高校は新宿駅の近くということもあり、人通りも多い。

「ねえママ、あの人ゴリラみたい」

「こらっ見ちゃだめ!」

 信号が青になりすみれはいきおいよく漕ぎだした。置いていかれた俺はすでに息があがっている。

 角を曲がり、川を沿い、橋を渡る。周りは桜並木、目の前では幼馴染みが元気に自転車を漕いでいる。

 またしばらくして信号待ちをしていると、すみれは難しい顔をした。

「今度はどうしたの」

「お……お腹が空いたぁ」

 そういえばお昼はまだだった。運動しているからかもしれないが、昔からよく食べる子である。すみれが「なに食べる?」と聞いてきたとき思い出した。今日は間違ってお弁当を作ったんだった。

 すみれには申し訳ないが、食べないのももったいない。

「ごめん、今日お弁当作っちゃったからいらないや」

「あ! じゃあいつものとこ行こう。きっとお花見できるよ! そうと決まれば神社じんじゃまで競走きょうそう!」

「え? ちょっと待ってすみれ、危ないってばー!」

 弱々よわよわしくいったころには、すみれはもう見えなくなっていた。


「空おそーい! あたしコンビニ行く余裕よゆうすらあったのに」

「さすがすみれだね。俺もう喉カラカラ……」

 くたくたになりながらもひとまず自転車を停め、すみれとともに公園内に入っていく。あたり一面桜で満たされている。普段はただの公園だが、この時期は遠くから人がくるほどの賑わいを見せる。

「あ、もう屋台やたい準備してるんだね。早いなぁもう一年ったのか」

 特にまつりというわけではないが、二週間ほどここではたこ焼きや焼き鳥などの屋台が出る。家が近所ということもあり妹を連れて毎年おとずれていた。そしてさらにおくに行くと階段がある。

「空、昔ここでよく遊んでたよね。あのジャンケンするやつ。久々にやろうよ」

「いいね。手加減しないよ」

 すみれは子供に戻ったように無邪気むじゃきな笑顔を見せる。ローカルルール、いやふたり独自どくじのルールで始まった遊びは俺も楽しくてしょうがない。「ジャンケンポン!」「アイコで……」と童心どうしんに帰って遊び続けた。

「やった! 今回もあたしの勝ちね。なにかおごってよ空」

四段よんだんばしはずるいよ……ルール違反いはんじゃないけど」

 お互いかばんを持ちながらはしゃいだせいか、息があがってる。俺らもう歳だねというと、なにいってんのよと息をせはせはさせていい返された。

 勝負の結果がこうなるのはなんとなく予想よそうがついていた。やっぱりさっき買っておいてよかった。カバンの中から飲み物を取り出して、それをすみれに投げ渡す。

「わあびっくりした! ってこれあたしが好きなやつ」

「負けたからね」

     やっと上まできたが疲れ過ぎて膝に手をつく。すみれは満足したのか、手を後ろで組んで嬉しそうに歩き出した。


     ここは高稲荷たかいなり神社。境内は小さな社殿しゃでんくらいしかない。昔二度建て替えられたらしく、その建て替えを記念きねんする石碑せきひならんでいる。

「あーお腹すいた。早く食べようよ」

 そういうとすみれは社殿の階段に腰かけた。人もこないし雨宿あまやどりもできる。猛暑もうしょの日には日陰ひかげができすずむことができる。ときが経つのを忘れるそこは俺らにとって竜宮城りゅうぐうじょうに等しい。ノスタルジックな時間の流れに心を奪われる。しみじみと浸ってるってことは、すみれよりこの場所が好きなのかもしれない。

 そんなことはつゆ知らず、すみれはコンビニ弁当のフタを開けた。俺もカバンから弁当を取り出して少し遅めの昼食を取る。

「空の弁当っていつ見ても美味しそうよね。じゃあこれいっただき!」

 俺の弁当から卵焼きがひと切れ消えた。俺のこだわりネギ卵焼きが……。まあこうなるのは知っていたし、すみれが唐揚からあげを一個くれた。なにより美味しそうに頬張ほおばる姿が一番嬉しい。

「そうだ、今度海も連れてお花見しようよ。お弁当たくさん作ってくるよ」

「それ最高さいこう! じゃああたしは飲み物とか敷物しきもの準備するね」

 毎年人が多く、神社のほうにも観光にくるため、いつも食べ歩きするだけだった。海が来年らいねんどこの高校に行くかわからないし、単に桜をもっと楽しみたいという理由もある。


 お弁当も食べ終わり、すみれはおもむろにお菓子かしを食べ始める。これもいつもの光景だ。すみれは太りにくく痩せにくい体質なだといっていたが、クラスの女子が聞いたらしゃくさわるだけだろう。

「ちょっとまた見てるし。しょうがないなぁ。ほら口開けて」

「いや別にそんなんじゃないよ……」

「そっか、あーんされるの恥ずかしいんだ。空も思春期入っちゃった感じ?」

 意識していたわけじゃないがそういわれると恥ずかしくなる。そんな俺を見てすみれが笑う。釣られてこっちまで頬がゆるむじゃないか。

 隙ありといわんばかりにすみれが口にお菓子を入れてきた。鼻歌はなうたまで歌っちゃって、よほどご機嫌きげんなんだな。そして歌い終わったかと思うと、なにやら神妙しんみょう面持おももちで下を向いている。

「ねぇ空、あ、あのさ……新学期になってクラス替えもしたじゃん。可愛い子とかいた?」

「すみれ、もしかして好きな人できたの?」

「え! いや……その……あたしね空のことが……」

 その瞬間しゅんかん突如とつじょ強い風が吹いた。桜の花びらも風の波に乗り桜吹雪さくらふぶきになる。とても美しい光景だ。すみれの声がかき消され、俺はまた不意に例の彼女のことが脳裏のうりに浮かぶ。

「あ、ごめん風で全然聞こえなかった。なんていったの?」

「なんでもない!」

 すみれの顔は桜のように色づいていた。すみれに好きな人がいるなら応援おうえんしてあげよう。幼馴染みだから。



 太陽もだいぶかたむき、俺たちは家路いえじに着こうとしていた。

「空、今日このあと行くの? あたしも顔出して大丈夫?」

「大丈夫だよ。きっと喜ぶと思うよ」

 定期的ていきてきにあるとこに行っている。今日は新学期も始まったしその報告ほうこくに行こう。

 空が朱色しゅいろまって影が長くなる。自転車を漕ぎながら横目で自分の影を見ると、自転車の後ろに乗っていたころを思い出す。大好きな母さんの背中は暖かく安堵あんどを覚える。

 朝や昼に比べてゆっくり自転車を漕げる。そこで改めて街全体が夕暮ゆうぐれに染まっているのに気がついた。俺はいつからこういうものに目を向けるようになったのだろう。大人になっても忘れたくない、そう思った。

 自分の感情に浸っているとあっという間に目的地もくてきちについた。 


“東京筑波嶺つくばね病院”


 俺の母さんは統合性失調症とうごうせいしっちょうしょうだ。簡単にいってしまうとうつのようなものと主治医しゅじいの人にいわれた。

 当時どう声をかければいいかわからなかった。俺もバイトや家のことをやるだけやったが、結局母さんにはなにもしてあげれず入院する羽目はめになった。無力な自分がとても悔しい。

「そんな難しい顔しないで。だれが悪いとかないんだからさ」

 頭では理解しているが心がついていかない。しかし情けない顔を見せるわけにもいかない。大きく深呼吸しんこきゅうして病室のドアを開ける。

「あら、空きてくれたのね」

「もちろん、それに今日は俺だけじゃ……」

「おばさんお久しぶりです!」

 すみれが元気なのはいいがここは病院。看護師かんごしさんに咳払せきばらいされ、逃げるように部屋に入る。母さんは今日も元気そうだ。すみれと久々の再会さいかいというのもあり、出会って早々賑やかな雰囲気に笑みをこぼす。

 しかし食事は十分に食べていないのだろうか。服の上からでもその様子に察しがつくほどせていた。このままだとあの背中が虚像きょぞうになってしまう。

「今日ね、私の好きなきんぴらごぼうが出たのよ」

「そうなんですか! おばさん本当にきんぴらごぼう好きですよね」

 言葉を選んでくれてるすみれと母さんは会話が弾み、俺の入る余地はない。昔から家族同士の付き合いだったため、おたがい気がおけない。柊木家にとって一番の理解者でもある。

 こうしてみるとすみれは実の兄弟のようにも思えてくる。あんなゴリラ顔するやつでも気遣きづかいはまさに姉のそれだ。

 というかいつまできんぴらごぼうの話をするつもりなんだろう。今日はそれで終わりそうな勢いなんだけど。

「そういえば、今日始業式よね。クラスはどうだったの?」

「あ、そうそう。俺は七組ですみれも同じクラスだよ」

 母さんはそれなら安心というふうに手をあわせた。それから今日の出来事できごとを話した。遅刻したこと、高稲荷神社に行ったこと、今度海も連れて花見をすること。あの“景色”については内緒ないしょにしておいた。


 気がつくと時間が過ぎていて、太陽は身を隠し空にはポツポツと星が顔を見せる。そろそろ帰らないといけないので、母さんにまたくるねと伝え病室をあとにする。

「おばさん元気そうだったね。退院はいつとか聞いてる?」

「まだ詳しいことは聞かされてないけど、もうそろなんじゃないかなって俺は思ってる」

 母さんのお見舞いに行くと毎回安心する。それが母親というものなのだろう。

 家に帰ったら海に母さんの様子を伝えてやろう。また家族一緒に過ごせるように、今は長男の俺が頑張らないといけない。俺はこぶしを強く握った。

 おそらく家では海がご飯の準備をしているだろう。あまり待たせると怒られるし、すみれを送り届けたら急いで帰ろう。二軒にけん隣の柊木家に。

「空、置いてっちゃうぞー」

「今行くよ」

 空に浮かぶ北極星ほっきょくせいを目印に家路につく。

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