「右目の奥は、いつも空っぽ」【カクコン2021短編賞・参加作】

水ぎわ

第1話 「生気がない 駄作だ」

 部屋の鏡に、老婆がうつっている――あたしだ。

 白髪、しわだらけの皮膚、乾いた唇。右目は……かんがえたくない。

 だって本当のあたしは十六歳なのに。

 女子高生だった。十日前までは。

 

 あたしはうめきながら、十日前のおじいちゃんのアトリエを思い出す。

 あそこで従妹の美桜みおと会わなきゃよかったんだ。


 あれが。

 地獄の始まりだった。

 


 ★★★

「生気がない」

 夕暮れのアトリエに、おじいちゃんの冷たい声が響いた。

 目の前には、あたしの彫った少女像がある。形は平凡、動きもない。酷評されても仕方がない。あたしは手を伸ばして、駄作を隠そうとする。

 そのとき。

 あたしの隣で、震える声がした。

「だめ……ですか?」

 声の主は同い年の従妹、美桜だ。

 美桜の顔は血の気が引いて、真っ白だ。大きな目がおじいちゃんだけを見ている。


 美桜の作品の、どこがいけないんだろう。あたしは猫の彫刻を見た。

 猫がジャンプする一瞬をあざやかにとらえたもの。木の猫は肩を低くかがめてお尻をあげ、尻尾をピンとさせて虚空に飛びあがる寸前で――静止していた。

 美しい。こんなに迫力があって躍動感がある彫刻は、美桜にしか作れない。

 しかも仕上げが丁寧で、猫のつややかな毛筋まで計算しつくしてある。あたしの刃跡あらく、勢いだけで彫った少女像とはまるで違う。


 美桜の猫を見ていると、今度はあたしにおじいちゃんの声が落ちてきた。

比呂ひろ、この少女像のテーマはなんだ」

「わかんない」

「伝えたいものがないなら、作るな」


『作りたくなかったよ。だけど、おじいちゃんが作れって言ったんじゃん。美桜の初めてのコンクールだから、お前も出せって――』

 そう言おうと思ったが、もちろん飲み込む。人間国宝の彫刻家・森岡雄三もりおかゆうぞうに逆らうバカはいない。たとえ孫であっても。


 あたしはムッと唇をとがらせる。横にいる美桜はスッと立って、おじいちゃんに一礼した。

「やり直してきます。ありがとうございました」

 美桜は猫の彫刻を布に包み、箱に収めてアトリエを出ていった。あたしは自分の少女像を取り、持ってきたレジ袋に放り込む。最後にあたしはもう一度、アトリエに置いてある傑作彫刻を舐めるように見た。

 生きているような人物像、みずみずしい植物、生命力を放つ動物彫刻。

 こんなふうに彫れたらいいのに。おじいちゃんや美桜みたいに。

 でもおじいちゃんの才能は、美桜だけに伝わった。どうしようもない。


 才能は、残酷だ。持っていない人間を徹底的に拒否する。つまり、あたしはダメってこと。


 たとえばアトリエの棚にある鳩の彫刻は、美桜がはじめて彫ったものだ。鳩の丸みを完璧に再現した作品。おじいちゃんは一目見てうなり、十年間ずっと飾っている。

 ふいに、おじいちゃんは言った。

「この鳩、おぼえているか」

「うん。美桜が六歳で作ったやつ」

「おまえが、六歳で手直ししたものだ」

「くちばしが取れちゃったからね。美桜、泣きそうだったし。直すところは二か所しかなかったし。じゃ、行くね」


 おじいちゃんは、あたしをみてぽつりと言った。

「まだわからんか――帰る途中で、美桜の様子を見てきてくれ。共用アトリエにいるだろう。さっき、言いすぎたかもしれん。様子がおかしかった」

 あたしには、言いすぎじゃないんだね。そう思ったけど、ただうなずいた。


「美桜ね、飼っていた猫が行方不明なんだって。それで落ち込んでいるんじゃないかな。おじいちゃんだって人間国宝になる直前、おばあちゃんが急に――」


おじいちゃんの顔が険しくなる。あたしはあわてて、口を閉じた。

 十年前、おばあちゃんが階段から落ちて事故死したことは、家族の中で禁句だ。

 あたしはいつも余計なことを言う。


 ひとりでアトリエを出ると、もう暗い。

 背後の明かりを受けて、あたしの少女像は半透明のレジ袋の中で中途半端に揺れていた。



 ★★★

 おじいちゃんの家と美桜の家、うちは同じ敷地内に立っている。美桜とあたしの共用アトリエは、庭にある。共用といっても、あたしは使わない。天才少女の隣で駄作を作るなんて、拷問だから。


 歩いていくと、小さなアトリエの窓に美桜の影がうつっていた。あたしは窓からそっと中をのぞく。美桜が元気なら黙って帰ろうと思う。

 アトリエの美桜は、作業台前に立っていた。足元には猫がいる――え。猫は行方不明なんじゃないの? なんだか動かないけど。まさか、死んでいる?


 美桜はきれいな大きな目で猫の彫刻を見つめていた。おじいちゃんはあんなふうに言ったけれど、あたしは力強い作品だと思う。

 あたしには届かない世界。才能ある人だけに許されている世界。

 ぎりっと奥歯をかみしめた時、アトリエの床に黒い影が沸き上がった気がした。

 あたしは目を細めて、よく見た。視力はいい、勉強しないから眼鏡なしでも1.5だ。


 影は、みるみるうちに五十センチほどの小人になった。

 唇がゆがんだ、みにくい小人。頭には焦げた毛糸みたいな毛がまばらに生え、皮膚は乾ききってガサガサ。

 そいつは美桜を見て邪悪に笑った。黒いカギ爪で猫を指す。

「取引だ。猫の目玉を寄こせ」


 ゆるゆると、美桜の手が動いた。

 白い手がぐったりしたままの猫――美桜の可愛がっていた猫の顔に近づいた。白い指が邪悪に曲がる。

 美桜の爪が、電球の下で光った。

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