人は二度死ぬ

 入学式の翌日の日曜日、まだ引っ越したばかりの部屋を片付けてから、お昼前に翔ちゃんに会いに出かけた。

 病院からすぐ近く、10分くらいで着くところにアパートを借りた。大学までは少し遠いけれど、私には翔ちゃんに会いたいとき会えることのほうが大事だ。

 久しぶりにおしゃれをした。伸ばした髪を肩のところからくるくる巻いて、お化粧は翔ちゃんの好きそうなナチュラルメイクだけど、ピンクのチークとグロスでかわいらしく。自転車を漕ぐので、すこし丈の長い花柄のワンピースに、デニムのジャケット。春らしいパンプス。翔ちゃんは、なんて言ってくれるだろうか。


 玄関前の広いホールで、翔ちゃんのお母さんと待ち合わせだ。独特の鼻につく匂いがする。この匂いに慣れていない私は、健康だな、と思う。この建物は、心臓の治療を専門とする、都内でも有数の大きな病院だ。翔ちゃんは中学卒業と同時にここに入院して、手術を受けたのだ。

 私がそれを知ったのは去年の夏、翔ちゃんが一時退院して私を訪ねてきてくれたときだ。それまで何も知らずに文通なんかしていた。その夜はショックと情けなさで泣いたものだった。次の日は雨が降っていたっけ。一日中翔ちゃんと家の中で過ごして、ずっと隣にいるうちに、少しずつ事実が事実として私の中に溶け込んできた。翔ちゃんの体のこと、翔ちゃんが考えることを自然に受け入れた。自然に東京に行こうと思った。

 きょろきょろしながら患者さんたちの間を進んでいくと、奥の大きな時計の下にお母さんがいた。

「おばさん!」

 駆け寄ったら、翔ちゃんのお母さんは、目を丸くして私の顔を見る。

「美季ちゃん?」

「はいっ。美季です。お久しぶりです」

「ずいぶん大人っぽくなったわねえ。あっ、大学入学おめでとう」

 ありがとうございます、と応えたが、微笑んでいる翔ちゃんのお母さんの顔は、どこか少し寂しげだった。

 もう3年も経つんだものね、と言う。時の流れは残酷かもしれない。おばさん、すこし痩せたみたいだ。白髪が増えたし、目のあたりのシワも目立つ。うちのお母さんから聞いた話だと、前は専業主婦だったのだけど、翔ちゃんの治療費のために、おじさんと交代で夜に働いているのだという。

 疲れや哀しみが、私なんかにも見て取れた。この人は、ひとり息子の未来を見ることができないのだ。翔ちゃんは高校に通うこともほとんどできなかった。私が大学生になったのに、おばさんの中の翔ちゃんは、身体の成長こそすれど、きっと中学のころと変わっていない、変わることができないでいるのだ。

 おしゃれしてきたのを少し後悔しそうになったけれど、思い直した。近所に住んでいたころ、おばさん、私のことも実の娘のように可愛がってくれたっけ。たぶん今も。せめて私は、元気な姿を見せなきゃ。


 病室に行くと、翔ちゃんは眠っていた。白いベッドの中で、ずいぶんと細くなった姿を揺らし、静かな呼吸を繰り返していた。

 おばさんに促されて近くの椅子に座ったけれど、久し振りに会う翔ちゃんが、あんなに会いたかった翔ちゃんが目の前にいるのに、緊張と不安にこわばった表情しかできない。お昼ごはん取ってくるわね、と言って、おばさんが病室を出て行った。私は小さくうなずいた。

 周りを見回すと、翔ちゃんの体に繋がってる点滴や、何に使うのかもわからない機械のほかに、漫画や小説の並んだ小さな本棚なんかも目に入った。枕もとに置かれた目覚まし時計にも、見おぼえがある。昔翔ちゃんの部屋にあったものが、いくつかそのまま移ってきている。

 ベッドの下にある大きなバッグ、私の家に来た時使っていたのと同じものだ。その横に置いてあるスリッパは初めて見るな。コップやタオル、少し乱暴に畳んである着替え、私の知らない生活の空気に、今の翔ちゃんの世界はここなんだなと思った。

 ベッドの横の棚の引き出しが、半分開いていた。ノートと便せんと、ペンが数本、その下には中身の入った封筒が――たぶん私が3年間送り続けた手紙だろう――いっぱい、いっぱい、入っていた。私の部屋にも、同じように手紙の詰まった引き出しがある。最近は新しいものを入れることはなくなったけれど。

 翔ちゃんからの手紙は、少し前に途切れた。字の具合でいつも何日かにわけて書いてるのはわかっていたし、その筆跡もだんだんと乱れてきていて、手紙書くの辛いならいいよ、って書いたら、返信が来なくなった。それからは寂しい時には以前のものを読み返した。私は翔ちゃんに送り続けたけれど。


「翔ちゃん」

 名前を呼んだら、「んん……」と小さな声。うっすらと目を開ける。どきどきした。顔を覗き込んで、もう一度呼んだ。

 目が合った。重そうなまぶたで、数回瞬きをした。

 翔ちゃんは頭がぼんやりしているみたいで、迷った視線のまま、じっと私の顔を見上げている。やがて少しずつ意識が覚醒してくると、目を見開き、「ええ!?」と声を上げた。

「美季? えっ、なんで……」

「おばさんに病室聞いたんだよー。びっくりさせようと思って、内緒にしといてもらったの。……あっ、寝ててよっ」

「平気だよ」と言って、翔ちゃんがゆっくりと体を起こした。こちらに向き直り、私の顔を見つめる。

 翔ちゃんの顔、白いな。少し輪郭が細くなった。唇は乾いて皮がむけている。ひげも毎日は剃っていないみたい。ちょっと慌てた風に寝ぐせのついた髪を触っている手もやっぱり白くて、大きな手なのに指は細い。

 去年の翔ちゃんの姿を思い出す。あのときは今ほど具合は悪くなかったっておばさんに聞いた。私は翔ちゃんが目の前で倒れるまで病気を持っているとは気付かなかったっけ。今はたぶん、翔ちゃんが病院の服を着ていなくても、私たちが生まれた町ではしゃぎ回っていても、どんなに元気そうな表情や声をしていても、翔ちゃんは誰が見ても病人に見えるだろうと思った。

「美季、大人っぽくなったなあ」

 ついさっきおばさんにも言われた、去年私が翔ちゃんにも言ったその言葉は、なぜだかとても痛かった。翔ちゃんも笑ってなかった。会ったらどんなに嬉しそうな顔をするだろうかとずっと思っていたのに。

 翔ちゃんと私は、会わないでいる間に、別の方向を向いたまま変わってしまったみたいだった。

 ドアが開く音がした。おばさんが、食事ののったお盆を持って入ってくる。

「はい、翔、お昼ごはん」

「ああ、もう昼なんだ。ありがとう」

 翔ちゃんが、時計を見上げた目を、そのまま私の顔に向けた。

「美季は? 飯食った?」

「え、あたしはまだ」

「じゃあ売店でなんか買ってこいよ。一緒に食べよう」

 少し戸惑った私に、翔ちゃんは、「待っててやるから」と、初めて笑ってくれたのだった。

 おばさんと一緒に、病室を出た。売店まで案内してもらって別れる。おばさんは午後から仕事が入っているらしい。

「美季ちゃん、翔のこと、よろしくね。また来てやってね」

 そう言って笑った顔が、さっきの翔ちゃんの笑った顔と、かぶる。翔ちゃんはお父さん似のはずなのに。

 顔、というよりかは、心からの笑顔のはずなのに、その中にほんの少し影を落としている何かが、同じ匂いだった。


 病室に戻ると、翔ちゃんはベッドの上にいなかった。病室に備え付けられている洗面台で、鏡に向かっていた。

「何してるのー?」

「ん、寝ぐせが気になってさ」

 急に身だしなみなんか気にしなくてもいいのに、手にはカミソリも。つるつるのあごにさわったら、「ひゃっ」と声を上げる。にらまれた。

 ちょっと笑ったら、翔ちゃんも笑った。ぎこちなくはあったけれど。

「なに買ってきたの」

「サンドイッチとジュース! チョコも買ったよ」

「おお、あとでチョコくれよ」

 さっきと同じく、翔ちゃんはベッドの上、私は椅子に座り、手を合わせた。

「いただきます」

 ツナのたっぷり入ったサンドイッチにかじりつく。翔ちゃんが頬杖をついて私を見ていた。少し困ったけれど食べ続ける。半分くらい食べてから「なんで見てるの?」と訊くと、ようやく自分も箸を持つ。ひと口ふた口、ゆっくり白いご飯を口に運ぶ。

 おいしくなさそうだった。実際においしくないのかもしれないし、翔ちゃんは味なんて感じないのかもしれない。

「……なあ、昨日入学式だったんだっけ」

 ふたつめの卵のサンドイッチを食べ始めた頃に、訊かれた。手紙に書いたことを、覚えてくれているんだ。

「そうだよ」

「美季、大学生か」ちょっと意地悪く笑う。

「なによー。あたしだってもうすぐ19だよ!」

 そうか、もうそんな年なんだ俺ら、って、翔ちゃんがつぶやいた。翔ちゃんの誕生日は、まだしばらく先だけれど。

「翔ちゃん……」

「ん?」

「翔ちゃんは、毎日何してるの?」

「寝てたり、本読んだり」

「友達はお見舞いに来ないの?」

「俺、こっちに友達いないし」

 小さな笑顔のまま、軽いため息をつく。私の目を見る。元気な体を、羨んでいるのか。妬んでいるのかな。中学の友達で、進学や就職で東京に出てきてる子を何人か知っているけれど、翔ちゃんは彼らに会いたくなんかないだろうな。

「これからは、あたしが毎日会いに来る」

 翔ちゃんは、表情を変えなかった。ように見えた。

「……美季がいたら、いろいろ退屈しないだろうなあ」

「さわがしい子ってこと?」

「ちょっとうれしいってことだよ」

 あ、笑ってるよ。翔ちゃんが笑っている。

 抱きついて、あの夏の夜みたいに、キスしてしまいたかった。翔ちゃんはたぶん拒まない。受け入れてくれるとも思わないけれど。

 サンドイッチを食べ終えると、売店の袋からチョコを取り出した。包みを開けて、ひとかけらを手に取る。翔ちゃんが無言で口を開けた。唇に載せてやると、ゆっくり味わうように顎を動かして、口の中で溶かしたのを飲み込んでから「おいしい」と言う。

 指先を握って、軽く絡ませた。翔ちゃんは握り返してくれなかった。冷たい指先だ。

 いつだかあっためてあげるねと言ったことがあったけど、翔ちゃんの手は冷たいままだったっけ。今も。笑って、食べて、ちゃんと生きているのにね。




 私は毎日翔ちゃんの病室に通った。授業が午後からの日は午前中に会いに行ったし、そうでない日は授業が終わってから会いに行った。一緒にお菓子食べたり、マンガ読んだり、テレビ借りてきて一緒に見たり、たわいもない話をしたりする。そうして5月になっていた。

 翔ちゃんに会っている時間、私がどんなにうれしいか、どんなに悲しいか、翔ちゃんにはきっとわからないだろう。翔ちゃんが、限られた中の私との時間をどんなふうに思って過ごしているのかも、私にはわかり得ないことなのだけど。


「また来たの」

 そっとドアを開けて覗いたら、翔ちゃんはベッドの上に起き上がってて、そんなふうに私に言う。

「来たよ。ほんとは待ってたんでしょー」

 翔ちゃんはほほ笑むばかりで何も言わない。でも、たぶん私はわかっているよ。

 テーブルの上に、夕ごはんのお盆が置かれている。まただ、がんばって食べているようだけど、最近いつも半分くらい残している。

「だめだよ、ちゃんと全部食べないと」

「腹減ってないんだよ。美季食っていいよ」

「いいの? いただきます」

 本当はさっき早めにご飯食べたんだけどね。ほんとに食うのかよ、太るぞ、って言われたけれど、気にしない。翔ちゃんのかわりにいっぱい食べて、翔ちゃんのかわりに太るよ。いくらでも。

 病院のご飯は、味が薄い。やっぱりあまりおいしくない。たぶん翔ちゃんよりはおいしく食べることができているだろうけど。翔ちゃんは3年間ほぼ毎日食べているんだもんね。こうやって、ひとりで。去年一緒に作った冷やし中華、私が作ったチョコバナナケーキもいっぱい食べてたっけ……。

「あ、そうだ、今度お菓子作ってくるね」

「よく飯食いながらお菓子の話できるよなぁ」

「いいじゃん別に! 何がいい? 翔ちゃんの食べたいもの作るよ」

 そうだなあ、と、私が持ってる箸を見ながら、ちょっと翔ちゃんは考える。チーズケーキ? アップルパイ?

「やっぱり、美季に作ってもらうんならチョコケーキかな」

「わかった。おいしいの作る」

「……忙しいならいいよ」

「忙しくないよ、ぜんぜん」

 本当だった。優先順位が、私の中でばっちり決まっている。大学で友達はできたけれど、付き合いは悪いと思われてるだろうな。サークルも、アルバイトも、勉強だって、そんなの、どうでもよかった。言ったら怒られるだろうから言えないけれど、翔ちゃんに比べたら――いや、比べ物にもならないほどに。

「美季、おまえ……学校は楽しいの?」

「うん。充実してるよ」

 嘘ではない。でも翔ちゃんは、何か言いたそうな顔をした。少し困っているようだ。そんなふうに笑ってほしいわけじゃないのに。

 本当はもっとふさわしい距離があるんだろうか。毎日会いに来なくてもいいの? 順位の一番上に翔ちゃんがいるのは間違いだろうか? 口に出さずとも、伝わらなくていいことまで伝わっている? 私が辛い思いをさせている?

「暗くなってきたな」

 カーテンの隙間を少し開けて、翔ちゃんが言った。来た時に夕焼けを見た狭い空は、もう濃い青から黒に変わろうとしていた。

 翔ちゃんはこっちを向いて、中途半端な笑顔のまま言う。

「食い終わったら、帰れよ」

「え、でも、いま来たばっか、」

「たまには家でゆっくりしなよ。なっ」

 言い聞かせるように言う。"でも"……。

 帰りたくなくてゆっくりゆっくり口を動かしたけれど、私が全部食べたのを見ると、翔ちゃんはスリッパを履いた。

「送ってくよ」

「いいよ、安静にしてなきゃ」

「大丈夫だって。エレベーターのとこまでな」

 さっきから、どうしてそんな顔で無理に笑うんだろう。困ってるんだって、わかるのに。

 病室を出て、点滴台を押しながら長い廊下を歩いて、エレベーターの前に着いて足を止めるまで、二人とも何も言わなかった。

 翔ちゃんがボタンを押した。ゆっくりとエレベーターが下り始めて、表示が2つ上の階まで来たところで、低い声が聞こえた。

「おまえ、俺がいなくなったら、どうすんの」

 すぐには何の反応もできず、固まった。ゆっくり首を回して翔ちゃんの横顔を見上げた、そこでエレベーターが開いた。

 看護師さんがひとり乗っていた。扉を開けたまま待ってくれている。

「……また来るね」

 さっきの質問には答えることができるわけがなくて、私はそれだけ言ってエレベーターに乗った。顔の横で小さく手を振ったけれど、翔ちゃんはこちらを見てくれなかった。無言のまま扉が閉まって、私たちの世界を断った。




 次の日、初めて大学をさぼった。朝からスーパーに買い物に行き、家で一人でケーキを作っていた。 スポンジが焼き上がるまでの間、ベッドに横になり、天井を見つめたまま、ぼんやりと考えていた。翔ちゃんも、こんな風にベッドの上で病院の天井を見ていたんだろうか。とてつもなく重い一日の終わりと始まり、眠るときに、目を覚ました時に。目を閉じてみたら、当たり前だけど、暗かった。心細くなる。目を開けたらこのまま全てが消えていたらどうしようって。

 オーブンが鳴った。目を開ける。ちゃんとそこには私の部屋があって、ほっとした。翔ちゃんは目を開けた時、自分の部屋を見て安心できるのかな。

 チョコ味のスポンジにイチゴを切って挟み込み、チョコクリームを塗って、飾り付けをした。今回は長方形のケーキ。丁寧に箱に入れて、ふたを閉める。

 翔ちゃん、最近元気がないみたい。喜んでくれるかな。喜んでくれるよね。

 昨日のことを思い出す。翔ちゃんが私の耳元で言った、低い声を。

 私は翔ちゃんの病気について詳しい説明を受けていない。聞くのが怖いし、その必要もないと思っていたけれど、翔ちゃんは自分の身体のことをどれだけわかっているのだろうか。


 毎日通った病棟、翔ちゃんの病室の前の廊下は、いつもと空気が違っていた。すれ違いざま、何度か顔を合わせた患者さんが、私のことを見ていた。顔なじみの看護師さんも、私のことを見ていた。

 怪訝に思いながら歩く。ナースステーションを過ぎて少ししたところで、ぱたぱたと足音が聞こえてきた。

「美季ちゃん」

 振り向くと、翔ちゃんの担当の看護師さんがいた。私の姿を見て追いかけてきたようだ。

「あ……。こんにちは」

「翔くんに?」

「はい。あの、」

「翔くん、いま少し具合が悪いのよ。ちょっと待っててね」

 看護師さんが私を追い越し、先に翔ちゃんの病室に入っていく。

 具合が悪い? 不安に胸が鳴った。手に持ったケーキの袋を握りしめる。何考えてるんだろう、大丈夫だよ。

 看護師さんはすぐに出てきた。心細さが顔に出ていただろう私を見て、優しく微笑む。

「会えますって。でも少しだけね。無理させないように」

 笑顔の裏に、厳しい表情が見えた。小さくうなずいて、ドアを開けた。

 翔ちゃんはベッドの上に横になっていた。その景色や不安と緊張は、初めてお見舞いに来た時のそれと似ている。だけど、あのときとは違う、翔ちゃんに近づいていく私の顔も、私を待っている翔ちゃんの姿も。

「……翔ちゃん」

 椅子に座り声をかけたら、翔ちゃんは、目を開けてこっちを見た。

「……おう」

「あの、具合悪いって」

「ああ……昨日、あのあと、発作」

 私は何と言っていいかわからなかった。閉まるエレベーターの扉の隙間から見た、翔ちゃんの頼りない立ち姿を思い出す。昨日私を送ってくれた、あれだけの距離を歩くのも無理していたのだ。だから安静にしてろって言ったのに。

 私のせいだ。なのに謝ることもできない、よほど苦しかっただろうに、翔ちゃんの目は私を責めていない。

「そんな顔するなよ、大丈夫だって」

 翔ちゃんは昨日も大丈夫だって言った。口元を無理してるみたいに持ちあげた。目は笑っていない。笑うのも辛いのかな。やがて翔ちゃんが口元だけ笑ったまま悲しそうな表情になったので、私の"そんな顔"っていうのがよほどひどい顔なんだろうと思った。

 一度目を反らしたら、もう翔ちゃんの顔を見れなくなった。そんな私を見て、どんな表情してるのかも、見れない。もう作り笑顔もしていないかも。

「あたし……迷惑かなあ」

 すぐに答えは返ってこなかった。少しして「迷惑じゃないよ」と、聞こえる。当たり前だ、翔ちゃんは優しいから迷惑なんて言わない。

「ただ、こんなとこ来るより、もっと大事なこと、あるんじゃないのかなって思う」

「あたし、来ない方がいい?」

「そのほうがいいんじゃないの、美季は」

「あたしじゃなくて、翔ちゃんは」

「俺は……」

 翔ちゃんは言いよどむ。

 ねえ、私は翔ちゃんに会いたくて会いに来ているんだよ。

 だって、会っていないと、遠くにいると、私が笑っている間に知らないところでもがき苦しんでいるかもしれない翔ちゃんを想像すると、

「あたしは、怖いよ」

 ――言った瞬間にしまったと思ったけれど、もう遅かった。

「翔ちゃんがいなくなったらどうするかなんてさ、考えることもできないくらい、怖いよ」

 完全に黙した翔ちゃんの顔を見て、その冷たい表情を見て、激しく後悔した。私の顔を睨むように見た。何かを言おうとした唇が、ぶるぶると震えていた。

 立ち上がった。バイバイも言えず、逃げるようにして病室を出た。昨日翔ちゃんに送ってもらった廊下を走る。看護師さんに注意されたけれど、聞こえなかった。涙がにじんで前もよく見えない。

 エレベーターはこの階に止まっていた。駆け込んでドアを閉めると、翔ちゃんの顔を思い出し、しゃがみ込んだ。

 私は、なんてことを言ってしまったんだろうか。言っちゃ、いけなかった。私は。

"俺は……"

 その先の言葉だって、わかってたはずなのに。きっと今まで何度も何度も飲み込んできた言葉を。

 翔ちゃんだって同じように、だけど翔ちゃんは何倍も、怖いに決まっているのだ。私なんかよりも、ずっとずっと。自分の声で誰に吐き出すこともできないくらいに……。




 そのまま、翔ちゃんのところに行けないまま、数日が経った。 

 その間、大学のサークルの新歓にもたくさん参加したし、クラスの飲み会にも行ったし、アルバイトの面接も受けた。人の中で笑い疲れて夜遅く帰る生活に慣れた。

 翔ちゃんのこと、最後に会った日のことは学校にいる間は忘れようと努めた。不思議なもので、関心を持つようにしただけで、友達は増えた。今までそんなことどうでもいいと思っていたくせに、それなりに楽しかった。私の頭の中はどれほど翔ちゃんのことでいっぱいになっていたんだろうね。

 だけど、忘れることはできないのだ。いつも心のどこかに翔ちゃんがいる。隅に小さく小さく押し込まれた不安の中で翔ちゃんのことを考えている。この間よりも更に具合が悪くなっているかもしれない。また発作を起こして苦しんでいるかもしれない。ひとりで不安に泣いているかもしれない。私のことを怒っていたらどうしよう。恐怖を口に出してしまった、弱い私を。

 家に帰ると、反動で翔ちゃんのことしか考えられない。会わずにいるのが怖いのに、会いに行くのも怖い。悩んでいるふりをして、なのに疲れてすぐに眠れる自分の身体が、恨めしい。

 二週間めの朝、翔ちゃんのお母さんから電話がかかってきた。「実は、翔が」と聞いた瞬間、動悸が激しくなり、卒倒するかと思った。

「翔が、美季ちゃんに会いたいんですって」

「……え?」

「忙しいのはわかるから、時間のあるときでいいから、来てほしいって。寂しがってるわよ」

 寂しがってるっていうのは、おばさんの冗談だろうけど。少し、気が楽になる。すぐに行きます、と、泣きそうになりながら電話を切った。

 翔ちゃんが私を必要としてくれている……。Tシャツにジーンズで、急いで家を出た。病院までの並木道の緑がまぶしい、夏に近い一日だ。


「もう来ないかと思った」

 久し振りの、翔ちゃんの病室。翔ちゃんはベッドの上にあぐらをかき、そう笑った。

 前に会ったときより、少し頬がこけている。鼻には酸素のチューブをつけ、あまり眠れていないのか、目の下にクマもできている。でもなんだか調子はよさそうだ。ベッドの後ろの機械や荷物は変わっていないけれど、点滴の薬、前と違うものになったのかな。

「ごめん……ね」

「なんで謝ってんの」

「ううん、なんでもない。寂しかった?」

「何言ってんだよ」

 寂しかった。怖かった。いいよ言わなくても。わかってるよ。否定も肯定もしない気持ちは、翔ちゃんはだいたい私と同じように思っているのだ。

「ああ、そういえば、ケーキ。このあいだ置いてっただろ」

「あ……」

「すげえおいしかったよ。母さんも食べて、美季のこと誉めてたよ」

「ほんと? ちょっと恥ずかしいなー」

「美季の唯一の特技だよな」

「あはは。それは否定できないなぁ」

 気まずくてほんの少し濁っていた空気が、ゆっくり少しずつ、いつも通りの私と翔ちゃんに戻っていく。翔ちゃんの笑顔が、嬉しい。今は不安よりも一緒にこうして向かい合っていられることのほうが嬉しい。そしてそれは、たぶん、翔ちゃんも。

 コンコン、とノックの音がした。看護師さんが入ってくる。手にはお昼ごはんのお盆を持っている。テーブルの上に置いたそれを見て、翔ちゃんが顔をしかめた。

「多い」

「多くないわよ! 頑張って食べてね」

 翔ちゃんの肩を軽く叩くと、私の方にも笑いかけて、看護師さんは忙しそうに部屋を出て行った。翔ちゃんがちらりと私の顔を見る。

「ちょっと手伝って」

「いいよ。食べさせてあげる」

「そうじゃねーよ」

 翔ちゃんがゆっくりご飯を食べ始める。私は黙って見ていた。休み休み、頑張って口に運ぶ。えらいね。しばらくその様子を見ていたら、私のお腹が鳴った。翔ちゃんが噴き出した。やっぱり食べたいんじゃん、健康な証拠だな、って言って。

 翔ちゃんが卵焼きを半分に割り、私の方に差し出す。口を開ける。

「おいしい?」

「うん」

「嘘つけ」

 お腹がいっぱいになってきたのか、翔ちゃんはお盆の上に箸を置いた。私はそれを取り、卵焼きのもう半分を掴んで、翔ちゃんに食べさせてあげる。

「おいしいでしょ」

 翔ちゃんは首を傾げながら頷く。さっきと味が違う、というので、同じ皿にのっていた野菜炒めもそうやって食べさせた。

 自分で食べなよっていうと食べないけど、私が食べさせてあげると口を開けてくる。味が違うというのは本当かもしれない。結局ほとんど全部を翔ちゃんひとりで食べ終えた。「食いすぎ」と言いながらしばらくお腹をさすっていたけれど、完食したのは久しぶりのようで、お盆を下げに来た看護師さんにびっくりされても、少し得意そうだった。

「……外に出たいんですけど」

 お盆を持って病室を出かけていた看護師さんに、翔ちゃんがぽそりと言った。突然だ。看護師さんと私で顔を見合せた。

「……最近体調いいみたいだものね。ちょっと待っててね」

 看護師さんが出ていくと、翔ちゃんは窓の方を見た。この下は、病院の中庭になっている。私は行ったことはないけれど、よく患者さんたちがたくさん散歩しているのが見える。4月には桜が満開になって、とてもきれいだったようだけど、翔ちゃんは体調が悪くて、病棟の小さなお花見にも参加できなかったって言っていたっけ。

 しばらくして、看護師さんが車いすを持って戻ってきた。

「20分だけよ。少しでも具合悪くなったら戻ってきてね」

 翔ちゃんが頷いてカーディガンをはおった。車いすに乗って私の顔を見上げる。

「中庭でいいの?」

「うん、あじさいが綺麗だって先生が言ってた」

 翔ちゃんの車いすを押し、病室を出る。思ったよりも軽くて驚いたけれど、私の顔は翔ちゃんに見えていなかっただろう。よかった。

 いつもの長い廊下を抜けて、エレベーターを降りて、中庭への入口に向かうとき、食堂の前を通りかかった。病院の空気に似合わず少しおしゃれなソフトクリームの看板を見て、翔ちゃんが「食べたい」と言った。

「食欲ないんじゃなかったの」

「甘いものは食える」

「ふふ、買ってくるね」

 お昼過ぎで、食堂の混雑はピークを過ぎていた。外来の患者さんと思われる人たちがゆっくり昼食をとりながら雑談している。家族のお見舞いにでも来たのか、パフェを食べている親子連れの姿もあった。おいしそうだ、今度翔ちゃんと食べに来ようかな。

 チョコとバニラのソフトクリームをひとつずつ買った。外に出ると、待ってた翔ちゃんに「なんで俺がチョコ食いたいってわかったんだよ?」と驚かれる。翔ちゃんのことならなんだってわかるよ。そんなに嬉しそうにソフトクリームを見つめないでよ。

 ソフトクリームを翔ちゃんに持ってもらって、溶ける前にと急いで中庭に向かった。


 中庭は四方を建物に囲まれたような造りになっている。病院の裏には川が流れていて、中庭から細い道を抜けていけば堤防に出ることができる。翔ちゃんはそっちにも行ってみたいようだったけれど、今回は遠出はしないことにした。

 日差しが思ったより強くて、木陰に車いすを止めた。近くにあったベンチに並んで腰かける。

 目の前には薄紫のあじさいの花が咲き始めている。真っ青な空の下で、桜の木々が風にざわめいて揺れている。少し前までピンクに染まっていたところにある濃い緑。あんなに綺麗に咲いて、はかなく散って、そして今は力強く葉を出していた。

「寒くない?」

「うん。気持ちいい」

 少しやわらかくなったソフトクリームをなめながら、翔ちゃんは笑う。太陽の下で翔ちゃんの笑顔を見たの、とても久しぶりな気がした。

「翔ちゃん、一口ちょうだい」

「交換な」

「うん。……おいしいね」

 私の顔を見て、翔ちゃんが噴き出した。

「口の、よこ。チョコついてる」

「え? どこ」

「そっちじゃない、逆。……あー、お前、ほんと面白いよなあ」

 何が面白いのか、私にはよくわからなかった。でも翔ちゃんが楽しそうにしているので、私も笑っておくことにする。翔ちゃんは綺麗にソフトクリームを食べる。私が溶けたクリームで指を少し汚しているのを見て、また笑った。

 しばらく黙って食べ続ける。時折頭の上に広がる爽やかな緑の葉に目をやりながら、こんなことが前にもあったような気がした。

 懐かしさを辿っていく。小さい時、こんなふうに翔ちゃんと公園のベンチに座って、近くの駄菓子屋さんで買ったアイスクリームを食べたっけ。あのときも今くらいの季節だった。空の青と木の緑、涼しい風と時折差す太陽、見上げてだけいればあの頃と同じ場所にいるみたい。今はもうない小さな夏祭りや運動会もあった公園、桜の木の横のブランコで二人乗りしたり秘密基地を作ったりしたの、翔ちゃんは覚えているかな……。

 ソフトクリームをだいぶ食べ進んで、コーンについてた紙を丸めて受け取ったとき、翔ちゃんと指が触れた。最初は何でもない振りをした。ごみを逆の手にまとめ、全部を食べ終えてから、翔ちゃんの指をそっと掴んだ。すぐにとても驚いた。翔ちゃんが握り返してきたのだ。私の手を、強く、強く。

「……翔ちゃん?」

 返事どころか、翔ちゃんはこちらを見ようともしない。少し下を向いた顔に日差しがあたり、……さっきは太陽のおかげで健康なようにさえ思えた顔が、今はその光に透けてしまいそうなほどに白く見えて、怖くなった。急に翔ちゃんを遠くに感じて、私も手に力を入れる。少し指が痛いほど。

「美季……」

 私の名前を呼んだ、その声が震えていた。泣いている、と思った。

 目に涙は見えない、だけど、翔ちゃんはいま、泣いている。

「人は二度死ぬ、って話、聞いたことある?」

 私は首を振った。翔ちゃんの唇が、静かに動く。

「一度目は、身体が死んだとき。二度目は、自分を覚えてくれてる人がいなくなったとき。……ちゃんと、覚えててもらえば、人はその人の中で生き続けることができるんだって……」

 翔ちゃんがゆっくりこちらを向いた。目が合った瞬間、私の目に涙が浮かんだ。翔ちゃんは、辛そうな顔で、だけど精一杯の笑顔を私に向けた。

 どうして笑えるんだろう。私には、こんなふうに笑うことは、できない。

「だからさ。俺はやっぱり、死にたくないから。……美季、俺のことを覚えててよ」

 まさかそんなストレートな言葉が翔ちゃんの口から出るとは思わず、目を見ていられず、うつむいた。

 翔ちゃんの口から「死」という言葉を聞くのは、病気のことを教えてもらったとき以来、二回目だった。いや、もしかしたら、もっと昔にあったのだろうか。私も翔ちゃんも、覚えていないような会話が。あったのかもしれないね。だけど、そのどれとも違う、もっともっと、それが現実のもので、すぐ隣にあるものだということを強く感じさせる響きだった。

 しばらくして、「ばかだなあ」と、小さな声で答える。

「忘れるわけ、ないじゃん」

「そう。よかった」

 翔ちゃんの逆の手が伸びてきた。親指の腹で私の涙を拭う。

 顔を見たら、翔ちゃんはもう、泣いていなかった。いつも通りに微笑んでいた。それを見て安心した。

「今日は化粧、してないんだな」

「……うん。急いで来たから」

「そのほうがいいよ、美季らしくて」

 このほうが、翔ちゃんが知っている私に近いのか。お化粧なんてしなくても、楽な格好にスニーカーのかかとをつぶして履いているようなほうが。涙なんて見せないほうが。翔ちゃんの隣にいるときはいつだって笑っているような私のほうが。

 たぶん、私が知ってる翔ちゃんは、翔ちゃんが知ってる私の中でなければ生きられないんじゃないかと思った。今までも、これからも。私が翔ちゃんのことを覚えているとはそういうことだろうか。

 手を繋いだまま、肩を寄せた。いつの間にかここには二人しかいないという気になった。

 ねえ、翔ちゃん。このまま二人で、ずっとこうやっていられたらいいのにね。言葉なんていらないから。ちゃんと存在を感じていられるだけでいいから。

 どれだけの間私たちはそうしてそこにいたんだろう、病室に戻る頃には、ずっとその冷たさが怖かった翔ちゃんの手のひら、とてもあたたかかった。生きている、と思った。




 夏が始まって、私の誕生日から数日が過ぎたある日の早朝、翔ちゃんは静かに息を引き取った。家族に見守られて、苦しむこともなく、安らかな最期だったという。

 葬儀の時に見た遺影の中の翔ちゃんは、笑っていた。辛い治療が始まってからの写真だろうに、私もあまり見たことがないくらいの曇りのない笑顔だった。


 不思議と涙はそれほど出なかった。翔ちゃんは死んでしまった、だけど死んでいない。確かに私の中に生きている。私が翔ちゃんのことを覚えている限り、私が死ぬ日まで翔ちゃんは私の中に生きている。

 それは何ら特別なことではなかった。だって、今になって気づいたことなのだけど、毎日を飽きるほど一緒に過ごした小さい頃の日々も、翔ちゃんが引っ越して文通を続けていたときも、日常の生活の中で翔ちゃんのことを忘れていた時、病院に通ってわずかな時間を惜しむように笑い合うようになってからも、そしてこれからの翔ちゃんが"いない"人生も、

 私にとっての翔ちゃんは、そしてたぶん翔ちゃんにとっての私も、ずっとそういう存在だったのだから。

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重すぎた言葉/人は二度死ぬ 亜梨 @riririr_s

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