重すぎた言葉/人は二度死ぬ

亜梨

重すぎた言葉

 夏休みの帰省ラッシュと被ったせいもあって、空港の広いロビーには人がごった返していた。エスカレーターで降りてくるときから美季の姿を探していたけれど、見つからない。

 重いバッグを背負って人ごみの中を歩き回るのに疲れて、足を止めた。ちょうどよく近くのソファーが空いたので座る。ここに座っていたおばさんは、携帯で誰かと話しながら去っていく。荷物の少ないところを見ると、旅人を迎えに来たほうなんだろうな。

 俺は携帯を持っていない。もう高3だし、美季はたぶん持っているだろうけど、そんな話は聞いたことなかった。

 東京に引っ越してから、美季とは手紙でやりとりをしていた。最初はお互い携帯を買うまで、ってはずだったけれど、慣れてしまえば手紙はとても楽だった。俺だけに向けられた美季の文字はとても新鮮な感じがして、それでいてあったかい感じもした。数日寝かせて読み返して、それから返事を書いても遅くはないってところも俺に合っていた。時差をつけても、そこに書きたかったことが褪せていくわけではなく、むしろちゃんと伝わるように強い言葉になってく気がした。

 いつだったか、棚に詰め込んでた手紙の束を見られて、「ラブレター?」って聞かれたことがある。

 俺は笑って答えた。彼女じゃないっすよ。

 幼馴染なのだ。俺と美季は。今までも、これからも。ずっと。


「翔ちゃん?」


 呼ばれて顔を上げると、ちょっと離れたところに美季がいた。

 俺と目が合うと、緊張してた顔をほころばせた。こっちへやってくる。たぶん俺の顔もほころんでいる。

「久しぶり、だね」

「……おお。久しぶり」

 立ち上がったら、美季の顔が思ったよりも下のほうにいった。美季が俺の顔を見上げている。

「美季、背ちっちゃくなった?」

「ひどいなー、翔ちゃんが背伸びたんだよ」

「ああそっか。まあ、まだまだ成長期かな」

「それに、ちょっと痩せたんじゃないの? 大人っぽくなったねっ」

 バッグを肩にかけて歩き出す。隣の、ちょっと下の美季の横顔を眺めた。

 美季も大人っぽくなったようだ。うっすらと化粧をしているし、少し茶色がかった髪も肩下まで伸びた。ほんの少しかかとの高い、可愛らしい靴を履いてる。俺が知ってるのは中学の時の美季だから、当たり前といえば当たり前なんだけど、似ているようであの頃とは違う。

「なに? なんで見てるの」

「ん、美季もちょっと変わったなーって思って」

「大人に見える?」

「そうだなあ。やっぱり18って感じ」

「それ、若いってこと? 子どもっぽいってこと?」

 無言でお土産の紙袋を渡して、ごまかした。出発前に空港で買ったお菓子に、美季は声を上げて喜んでいる。やっぱり、子どもだなあ。

 でも、喜んで貰えたからほっとした。美季がお菓子にはしゃぐような年齢じゃなくなるのもそのうちだろうけれど。


 タクシーで美季の家に向かう道は、窓の外を見ながら行った。美季は何も言わなかったけど、何でもない田舎の景色が、俺にとっては懐かしかった。

 しばらくは空港から少し離れた市街地まで、山を拓いて無理やり道を作ったようなところを行く。そこを抜けるとだだっ広い水田の中を国道が走っている。東京の俺が生活している辺りには田んぼなんてない。子供のころ、家の裏の田んぼで虫を捕まえて遊んだっけな。

 少しずつ道路沿いに民家が増えてきて、やがて大きな通りに出る。ここをずっといけば通っていた小学校や中学校がある。遠足のバスもこの道路を通ったし、自転車でスピード出して駆け抜けて車とぶつかりそうになったこともあった。美季の家が近づいてくる。あの歩道橋の下で、美季と雨宿りをしたことがあるような気がするな。

 不思議だ。たぶん小学生のときのこと、いやもっと昔の記憶かもしれない。どうして思い出すんだろう、今の今まで、忘れてたのに。


「いらっしゃい、翔くん、久し振りねえ」

 玄関に入ると、美季のお母さんが迎えてくれた。

「お母さんから電話もらってるわよ。ゆっくりしていってね」

 ありがとうございます、と頭を下げながら、母さんの顔を思い出す。

 うちの母さんと美季のお母さんも仲良しだ。引っ越す前はよく二人で旅行に行ったりしていた。たぶん今でも頻繁に連絡を取り合っている。前もっての親からの電話なんていらないよ、って母さんには言ったけど、でもそのおかげで、俺はこの家に泊まることができる。

 少し遅れて美季のお父さんが出てくる。

「翔くんの部屋は、2階だからね。荷物持とうか」

「大丈夫です。自分で運びます」

 幼い頃から通った美季の家の部屋の配置はわかっている。だけど俺の荷物はたった2泊3日の割にでかい。そうだ、ここの階段けっこう急なんだったな、と思い出しながら、苦労しながら上る。

 美季に後ろからバッグを押してもらって、どうにか階段を上り終えた。部屋に荷物を置いて、腰をおろして、溜息をついた。

「今日、暑いねぇ」

「おー、暑いな。8月!ってかんじ」

 たらりと首筋を汗が伝った。俺は暑そうに見えるかもしれないけど、美季はあんまり汗、かいてないな。

 美季が部屋の窓を開けた。網戸の向こうから涼しい風とセミの鳴き声が入ってくる。夏だ。懐かしい、3年ぶりの田舎の夏と、美季の家、昔二人で昼寝したりもしたこの空き部屋。

「夕方になったら、どこか行こうか」

 美季が窓の外を見ながら言う。

「どこかって?」

「翔ちゃん、久しぶりじゃん。どこか行きたいところないの?」

「うーん、そうだな。散歩程度なら。でもゆっくり過ごすのでもいいかも」

 ごろんと床に寝転がった。朝からの移動で、少し疲れた。遠出をする元気はない。小学校や中学校にも行ってみたいけれど、この真夏に歩いて30分以上の道のりはイヤだ。

「……家に行きたい、かな」

「前に住んでた家?」

「そう、俺の家……だった家」

 中学卒業と同時に家族で引っ越して、今ではもう、誰が住んでいるのかわからない家。でも、15年間暮らした家を、遠くからでも見ておきたかった。

「そっか。じゃあ翔ちゃんちに行こう」

「うん。じゃあ俺、ちょっと休むわ。つかれた」

 目を閉じる。美季はくすりと笑って、扇風機を回してタオルケットをかけてくれた。なんだかんだで、優しい。

「おやすみ。少ししたら起こしにくるね」

 返事を返せなかった。いつの頃からか、目を閉じればすぐにとろとろとした眠りにつけるようになってしまった。

 そのかわり、目を覚ますときもとろとろとしたものだ。起きてるときと眠ってるときの境界が、俺にははっきりしない。




 夏の一日は長い。夕方近くなって目を覚ました時には、確かにだいぶ涼しくなっていて、扇風機は止まっていたけれど、窓の外はまだ明るかった。外に出てみても、夜に近づいた風は吹くけど、空はまだまだ青い。

 美季は起こしに来てくれたとき化粧を落としていて、外に出るときにはぺったんこのサンダルを履いた。俺はそれには突っ込まなかったけれど、そういうのも美季らしくていいなと思った。俺が知っている美季だった。

 たいして言葉も交わさずに、美季の家から少し行ったところ、細い小道を曲がった。5分も歩かずに俺の家が見える。

 庭の前で、足を止めた。最後にこの家を出た日と変わらず――だけど少し、違うのは。

「……誰も住んでないんだな」

 昔遊んだ庭は荒れ放題で、母さんや、ばあちゃんが生きてた頃に植えた木や花も、生い茂った雑草に埋もれて姿が見えない。おそるおそる蜜を吸ったあの小さな花なんか、もう枯れちゃってるのかもしれない。俺が生まれた時に植えたという木には、錆びついた"空家・売物件"の看板がかかっていた。

「中、見てみようよ」

 美季が言い、先に歩き出す。俺は頷いてついていく。

 住む人がいないのなら、誰に遠慮することもない。ためらうこともない。じいちゃんが建ててから、俺の家族しか住んでいないのだから、ここは俺の家と言っていいだろう。何年が経とうと。住む人がいなくなったって。

 緑が茂る庭を抜け、玄関先に立った。近づいてみると家自体の外壁も少し色あせてしまっているのがわかる。

 見上げれば、二階の俺の部屋の窓が見える。もちろん中の様子はよく見えないけれど、俺の部屋だ。あの部屋を片付けたときのこと、この家を出ていくときもこうしてここからあの窓を見上げたこと、よく覚えている。

 玄関の引き戸に手をかけた。当然のことながら、開かない。もともと建てつけの悪い戸だったけれど、どんなに力を入れても、ガタガタと揺らしても、開かない。そういえば、と思いだして、鍵を入れていた郵便受けの中を覗いたけれど、入っているわけがなかった。

「……残念だね」

「ちょっとへこむよな。自分の家なのに」

「あたしも翔ちゃんちに、久しぶりに入りたかったなあ……」

 そう言って、美季も寂しそうに俺の部屋の窓を見上げる。中に入っても何もないんだよ。一緒に64やった小さいテレビとか、中途半端に俺が集めてたマンガとか、何もないのに。

 玄関を後にして、ぐるりと庭を抜け、家の裏のほうに向かった。

 昔、バッタを撮ったり、ザリガニ釣りをしたり、じいちゃんが稲刈りしてるのをゲームボーイしながら見てたりした、その田んぼも、もうなかった。つぶされて、その場所には老人ホームができていた。アスファルトの駐車場には、利用者を送り迎えする小さなバスが数台止まっている。この町も高齢化が進んでてさ、と美季は言う。

 田んぼをはさんで駐車場の後ろに、線路が見えた。線路の向こうにも俺の知らない建物がある。あれも福祉施設の類かもしれない。広い田んぼの真ん中を突っ切って走る電車はかっこよかったのに、今は狭苦しい道を、文字通り敷かれたレールの上を走るだけみたい。たぶん数年後、数十年後には、もっと増えたコンクリートの建物の間を縫うように。電車が気持ちのいい風を浴びることなんてないだろう。

 ここはもう、俺の知っている場所じゃない。俺の場所じゃないと思った。

 黙って老人ホームの横を通り、少し狭い、どこの家のものとも知らない田んぼに出た。稲刈りまであと少しのこの季節に、さわやかな緑が揺れていた。ほんの少しほっとする。

 あぜ道に腰を下ろすと、美季も隣に座った。多少服が汚れるのなんて気にしない。小さな側溝には、タニシが数匹くっついていた。子供のころの思い出がよみがえる。そういえば、夏休みなのに田んぼで遊んでる子供がいないな。


「翔ちゃんは……」

「ん?」

「翔ちゃんは、なんで、今、戻ってきてくれたの?」

「さあな」

 もっと早く? もっと遅く?

 3年という時間は、中途半端すぎただろうか。

 この町は変わっていないようで少し変わった。美季も変わっていないようで少し変わった。俺はあまり変わっていない。美季には大人っぽくなったと言われたけど、プラスの面での変化なんて身長しかないだろう。

 俺は、どうして今戻ってきたのだろう。

 それは、もっと早くとか、もっと遅くが、叶わなかったからだ。

 戻ってこないって選択肢はなかった。この町のことを考えたら、美季のことを考えたら、どんなに俺だけが置いて行かれようと、それを実感することになろうと。いつかは戻ってこなきゃいけないと思っていた。

「俺さ……引っ越しするときに。絶対戻ってくるって言ったよなあ」

「うん。言った」

「『美季に言いたいことがある』って、言ったっけ?」

「『戻ってきたら、そのときに言うよ』って」

 かっこつけて言ってたよ、って美季は笑った。そのときが今だと知っていてか、嬉しそうに。俺はうっすらとしか笑えない。

 あのときは、そのつもりだった。

 美季にずっと言いたかったこと――美季もわかっていてくれたであろうこと。言えるようになったら、戻ってくるつもりだった。

「あれ、なしな」

 そう言ったら、側溝の細く流れる水を見てた美季は、顔をあげてこっちを見た。

「言ってくれないの?」

「ああ」

「なんで?」

 俺は答えることができなかった。しばらく無言で、足の下の草をむしっていた。

「次に会った時に、言ってくれるの?」

「いや」

「……もう言ってくれないの?」

 むしった草を、捨てた。ぱらぱらと落ちて、水の流れにさらわれていく。

「言わない。一生」

 それは、言わない、だけじゃなくて、聞かない、という意味だった。

 俺は言わない。美季も言うな。

 言わなくてもわかってる、だけど、言葉にしてこそ意味のある言葉を、言うな。

「なんで……?」

 俺が答えずにいると、美季は立ち上がった。

「なんで? じゃあなんであんなこと言ったの? なんで戻ってきたの」

 待ってたのに、と美季は言う。

 ずっと待ってたのに。美季は俺を待っていた。わかっていた――


「美季っ」


 早足で去っていく美季を呼びとめたら、今度はあいつ、走り出した。

 待てよ! 俺も焦って立ち上がるけれど、追いかける一歩が踏み出せない。

「美季!」

 呼んだ。何度も呼んだ。美季は振り返らない。

 迷った。泣きそうだ。覚悟を決めて、息を大きく吸い込んだ。

 美季の姿が老人ホームの影に消えたところから、全力で走った。


 俺の家を通り過ぎ、美季の家との中間あたりで、ようやく追いついた。

 自分の呼吸の音が妙にうるさい。必死に腕を伸ばして、美季の手を掴む。

「みき、」

「やだっ、離してよ、もう知らないっ」

 美季が俺の手を振り払う。振り返って、俺の顔を見て、はっとした顔をした。

「……翔ちゃん」

「え?」

「顔、まっ青……」

 それを聞き終わらないうちに、胸に鋭い痛みが走った。立っていられずに、崩れるように倒れこんだ。

 苦しくて顔を歪める、歯を食いしばる。呼吸がうまくできずに喘ぐ。美季は俺の様子を見て言葉を失っていた。

 全身から汗が異常なほど噴き出してくるのが自分でわかる。体中の感覚が遠くなってく。目が、かすむ……

「翔ちゃん!」

 美季が俺の名前を呼ぶ。何度も何度も。どうしたの、しっかりしてよ、って。

 落ちつけよ。言いたいけどうめくような声しか出ない。美季の手をもがくように掴む。俺が落ち着かなきゃ。

「……くすり、ポケ……ト」

 やっと、それだけ。美季が俺のズボンの後ろポケットから錠剤を取り出す。

 美季もパニクっているようで、何度か錠剤を落とした。その中の数粒が俺の口に入る。苦痛の中で、美季にしがみついた。美季が俺の体をさすってくれる。少しずつ、少しずつ、楽になってくる。

 俺は美季の腕の中で泣いた。痛みと恐怖に、それから解放された安堵に、いつも発作のあとは涙が出るけれど、それだけじゃなくて、美季がそばにいてくれることに。心の底から安心した。

 美季に、すべてを話そう。

 やっぱり、隠し通せるような存在じゃないんだ。それがわかっただけ、良かったのかもしれない。


 美季の家に戻ると、部屋には布団が敷かれていた。その上にぐったりと横になる。

 美季のお父さんとお母さんには何も言わずに二階に上ってきた。俺のことは母さんから伝わってるはずだし、これ以上心配かけられない。もうすぐ夕飯の時間だろうから、それまでに少し休まないと。

「美季、タオルとって。カバンに入ってる」

「カバン? 開けていいの?」

 うん、とうなずいたけど、ちょっと後悔した。別に何を見られてもいいけれど、大量の飲み薬を持ってきたのは知られたくなかった。

 美季からタオルを受け取って、顔の汗を拭いた。たぶん見ただろうけど、美季は何も言わなかった。

「……心臓の病気なんだ」

 息を整え、しゃべるのも楽になってきた頃に言った。美季は黙って俺の隣、壁にもたれて座っている。

「中3の後半には、病気だってわかってた。東京に引っ越したのは治療のためで、俺は高校にもろくに行ってない。

 手紙に、クラスのこととか、バイトのこととか書いたことあったよな。あれは全部、東京にいるいとこの話でさ。俺はずっと入院してた。手術もしたんだよ、ほら」

 Tシャツをめくって、胸の真ん中に残る大きな傷跡を見せた、その瞬間の美季の顔はさすがに見ることができなかった。

「けど……3年近くも、がんばったけどさ。やっぱり、どうにもならないことってあるもんでさ」

 変だなあ、と、しゃべりながら思う。

 こういうことを伝える瞬間は、辛くて仕方ないだろうと思っていたのに。俺、笑えてる。涙も出ない。声もしっかりした、普通の口調で。

「俺、たぶんもうすぐ死ぬんだ」

「翔ちゃん」

 美季の声も、震えてはいなかった。美季は笑ってもいなかったけれど。

「冗談だよね?」

「……冗談だったらよかったよなあ」

 顔だけじゃなくて、ははっ、って、声に出してまで笑ったけれど、美季は笑ってくれなかった。泣いてもくれなかった。

 間もなく、階下から、美季のお母さんの俺たちを呼ぶ声がした。カーテンの隙間から見える窓の外はもうすっかり闇に落ちている。ご飯の時間だな、って言って、俺と美季は部屋を出た。




 翌日は朝から雨が降っていた。ただでさえ暑い季節に、じめじめした雨というのは、嫌いだ。窓から入ってくる風も気持ち悪いし、扇風機の風も気持ち悪い。かといって風が止まると暑くて参ってしまう。

 美季は一日中俺の部屋にいた。午前中は漫画を大量に持ってきて一緒に読み漁った。ほとんどが少女マンガだったけれど、意外と面白い。お昼には一緒に冷やし中華を作って美季のお父さんとお母さんに食べさせた。午後はみんなで美季の家の墓参りに行き、それから二人で並んで昼寝をした。夕方には美季がお小遣いを溜めて買ったというDSを借りて遊んだ。俺にとっては初体験のゲームだ。

 夜になったら、美季は俺のところに宿題を持ってきた。「翔ちゃん、数学得意だったよね」なんて言って。得意だったのは過去の話で、俺にはほぼ3年ぶりに見る数字の羅列、しかも難しい内容で全く訳がわからなかったけれど、美季の隣で一緒に考えようとしてみた。美季は今年大学受験なのか。どこの大学に行くんだろう? たぶん会えないでいた今までよりももっと、どんどん遠くなるな、なんて思いながら。

 そうやって、ごろごろしながら一日を過ごした。小学生のころの夏休みのようだった。病院にいたときも一日中ごろごろしてたのに、今日のごろごろはなんだか充実していた、と寝る前に振り返って思う。

 俺の3年間は全くもって無駄な時間だった。そうはいっても他にどうすることもできなかったのだけど。そしてたぶん、これからも無駄な時間を生きていくんだ。病院でひとりで、ごろごろしながら、弱っていく体と共に。


「ねえ、翔ちゃん、まだ起きてる?」

 日付の変わる少し前、荷物をまとめていると、ドアが開いてそんな声がした。

「どうしよっかな。まだ寝たくないな」

 眠ってしまったら、自分でもよくわからないまま一瞬で明日の朝になって、そうしたらもう東京に帰るしかない。この町に来ることはもうないだろう。美季に会うことも、たぶんもうない。いやだ。何かをいやだと思うことも久しくなかった気がする。

 顔を上げて、どきっとする。美季は風呂上がりらしく、やわらかそうなショートパンツにキャミソールを一枚着ていた。濡れてウェーブのかかった髪、白い二の腕やもも、いつもより強調された腰のくびれと胸のふくらみ……

「お前、髪乾かしてこいよ」

「えっ?」

「髪乾かしてこいよ。あと、あんまり薄着だと風邪ひくぞ」

 美季は何度か瞬きをしたけれど、素直に部屋を出て行った。

 びっくりした。水もしたたるなんとやらだ、美季のくせに。狙ってるんじゃないだろうな。ドキドキしている。顔も少し火照っている。けど、俺のは少し前から勃たなくなった。

 落ち着かなくて、カバンに詰めようとしていた洋服を放り出した。そのまま布団の上に身を投げる。隣の部屋からかすかにドライヤーの音がするけど、あいつ、たぶん着替えないで来るだろうな。どうしよう。寝たふりしてやろうか。

 ……気がついたら、目の前に美季が立ってた。また俺はうとうとしてしまっていたらしい。自分でわからないうちに眠ってしまうのは、怖い。

「一緒に寝ていい?」

 美季がそんなことを言うのでびっくりした。一瞬で目が覚めた。

「お前なぁ、俺だって男だぞ」

「わかってるよ。翔ちゃんはヘンなことしないでしょっ」

 そういうことなんて、俺にはそんな気力も体力も残ってないのを、知ってか知らずか。一瞬奥歯を噛んだけれど、笑顔を作った。

「……勝手にすれば?」

 ごろんと寝返りをうち、背中を向ける。美季は電気を消し、俺の隣に横になった。夏用の薄い掛け布団が半分ひっぱられて、片足がはみ出る。

 背中のすぐ後ろに美季の気配がある。美季の息遣いが伝わってくる。めずらしくこんなに目が冴えてる。俺の弱い胸が鳴っている。暗闇のなかで少しずつ辺りの輪郭がはっきりしてくる、この世界も、いつぶりだろうか。

「……翔ちゃん、明日帰っちゃうんだよね」

 美季の湿った声が、小さく響く。

「そうだよ」

「寂しいなあ」

「ガキじゃないんだからさ」

「翔ちゃんは寂しくないの?」

「寂しいさ」

 いやだよ。美季が俺と別れるのを嫌だと思う以上に、俺は美季と別れるのが嫌だよ。

 後ろに手を伸ばした。美季の手首を掴むと、美季は軽く俺の手を握り返してくる。

「翔ちゃんの手、冷たいね」

「……俺のは、生きてる人間の手じゃないからなあ」

 美季の手は、あたたかかった。ちゃんと生きている。俺とは違う、病院で俺の体をさすってくれた母さんや看護師さんの手に思ったのと同じような。

 あっためてあげるね、と美季が言った。しっかりと繋がった手のひらは、真夏の蒸し暑い夜にも邪魔に思わず、どこか心地よかった。


 時計はすでに2時を回っていた。窓の外で鳴いていた夏の虫たちも静かになった。

 俺たちはいろいろな話をした。子供の頃の思い出から、美季が今悩んでいるという進路のことまで。

 夜の空気が、お互い反対の方に顔を向けながら離れることのない二人の手が、いつもと違う世界に俺達を連れていく。会話の中身は普通なのに、美季と繋がってたこの時間は魔法のようだった、と、あとになってから思うのだ。


「そういえばね、中3のとき、ホワイトデーに翔ちゃんがくれたお菓子、なんだったか覚えてる?」

 東京の、なんとかって店の、ちっちゃいカップケーキみたいなやつだろ。美季の顔を見ないまま答える。少しどきりとしたけれど、反応はしなかった。美季もたぶんずっと表情を変えずに、そうだよ、と答える。引っ越しと入院の準備をしに一度東京に行ったとき、買ってきた。3月の頭の、ホワイトデーにはだいぶ早い日に渡したのだった。

「そのケーキがね、昨日翔ちゃんからもらったお土産に入ってたの。お菓子の詰め合わせのなかに、同じのが」

「まじで?」

 店の名前も、どんなカップケーキだったかも、俺は覚えていないのに。

「おいしかったよ。懐かしくもなったし。いろいろ思い出したよ」

 いろいろ、というのは、バレンタインとか誕生日とか交換したプレゼントとか、その類の話だろうか。

 俺も思い出す。美季、毎年なにかあるたびに手作りのお菓子をくれたっけ。クッキーとか、りんごやかぼちゃのパイとか、チーズケーキや苺と生クリームのケーキ、バレンタインにはチョコレートを使ったお菓子を。俺はケーキが好きだった。料理のことはまったくわからないけど、美季の作るケーキはどれも本当においしかった。

「美季、だんだんお菓子作るの上手になってったっけなあ」

「へへっ、ありがとう」

「でも、中3の、最後のバレンタインのときはさ。バナナとチョコのケーキ、あれ焦げてたよな」

「今は上手に作れるもん! お菓子で失敗なんてあれ以来してないし」

 練習してるのか。誰のためにって聞いたら、「自分で食べるため」なんて言うかな。もらった手紙からチョコレートの香りがしたことがあったかも。

「そっか。もっかい食いたかったなあ、美季のケーキ」

 思い出す。小学生のとき、誕生日かクリスマスかは忘れてしまったけれど、あれはたぶんお母さんと一緒に作ったものだったろうな、初めて作ったっていうケーキをうちに持ってきて、渡してくれて、なんか言おうとしてもじもじしてた美季。中1か中2のときかな、クリスマスで、あのときは美季んちだったな。ふたりでケーキを食べた後、俺も言おうとして、結局言えなくて。

 そして中3になって、俺は……

 本当は、チャンスなんて、いくらでもあったのにな。

 修学旅行のときとか、花火大会のときとか。日常の一コマだって、毎日一緒にいたんだから本当にいくらでも。

 あの頃に俺たちのどちらかが気づけていれば、それでよかったのにな。

 今じゃもう、俺の体には、言うのも、聞くのも、その言葉はあまりにも――


「ごめんな……」


 言った瞬間、涙が滲んだ。

 ずっと美季に会いたかったのは、こんな言葉を言うためにじゃないのに。

 美季が俺の手を離して、服の肩を掴んだ。引っ張るなよ、お気に入りのTシャツなのに、伸びちゃうじゃないか。

「翔ちゃん」

 美季は体を起こしていた。そっち、見れない。頭を動かしたら涙がこぼれてしまう。

「翔ちゃん。翔ちゃん」

「なんだよっ……」

 首を回したら、やっぱり涙が眼の横を流れて行った。

 美季が覆いかぶさってくる。俺の涙に触って、それからキスをした。

「……美季?」

 返事はなかった。美季が俺の胸に顔をくっつけた。さわやかなシャンプーの、美季に良く似合った香りがした。少し迷ったけれど、美季の体に腕をのせた。それ以上抱きしめてやることはできなかったけれど。

 美季が安心したように目を閉じる。とろりとろり。会話が途切れて、俺たちは深いところに落ちていく。

 この体いっぱいに美季を感じながら、俺は、たぶん夢の中でも美季に会っているだろうと思った。




 朝、目を覚ましたら美季はもう部屋にいなかった。

 ぼんやりしたまま布団を出て、カーテンを開ける。今日はよく晴れていて、日差しがまぶしすぎるほどだ。近所の家の屋根や電柱のあいだに、青く澄んだ空が見えた。その青を見つめているうちに、俺の意識はちょっとずつこっち側へと戻ってくる。

 1階へ降りていくと、廊下から甘い香りが漂っていた。台所を覗いたら、お母さんが朝食の準備をしてる横で、美季が洗い物をしていた。

「何してんの」

「わっ! びっくりした。おはよう」

「おはよ」

 流しにはチョコレートのべっとりついたボウルがら泡立て器やらがある。美季の口の横にも茶色いものがついていた。横で美季のお母さんが笑っている。

「美季ね、私が起きてきた頃にはもう台所にいてね。翔くんにケーキ食べさせるんだって言って」

「ちょっとお母さん、やめてよもうっ」

 美季はそんなことを言いながら、ボウルを洗う手を動かすばっかりで俺の方を見ない。俺はオーブンのほうに目をやる。丸い型の中で、茶色いケーキが膨らんでる。ああ、匂いだけでものすごい甘いや。もうすぐ焼きあがりだろうか。

「あっ、このチョコクリーム塗るんですか」

「そうよ。バナナはもう中に入ってるのよねー」

「美季、ちゃんときれいにクリーム塗れる? 手伝おうか、」

 振り向いた美季に「いい! あっち行っててっ」と怒られた。お母さんと顔を見合わせて、邪魔にならないように退散することにした。

 台所の入口のところに、お父さんが立っていた。おはよーございます、って頭を下げたら、おう、って、ちょっとぎこちなく返される。廊下に出てから振り返って様子を伺うと、お父さんも中に入ったらしく、3人の楽しそうな声が聞こえてくる。

 外、出てみようか。

 なんとなく居場所を探して、俺はスニーカーをはいた。


 美季の家の庭は広い。道路にも面しているので、玄関を開けたその前は大きく開けている。

 玄関のところの石段に腰を降ろした。まだ朝早くで道路は人も車もほとんど通らず、静かだ。庭のどこかからスズメの鳴き声が聞こえる。俺の家の庭とはちょっと違った、たぶん横文字な名前の花の間を抜けて、爽やかな風が吹いてくる。

 上を向いた。さっきちょっとだけ見えた青空をもう一度確かめたくて。信じられないくらい高くて、澄んでいる。空ってこんなに広いものだったっけ。

 俺が入院していた病室から見えた空は、向かい合う病棟や、隣のビルに挟まれて、狭っ苦しそうだった。雲とか太陽は、建物の隙間から、申し訳なさそうに時々顔を出して、すぐに見えなくなっていった。

 これが本物だよなあ。のびのびしてるよ。空って感じだ。たぶん、こんなに広い空を感じることは、もうないだろう。いつか俺があの向こうに行く日まで……。

 何分が経ったんだろう、翔ちゃんって呼ばれて横を向いたら、美季が俺の隣に座ってた。手にはケーキの皿を持っている。

「焼けたよ、チョコバナナケーキ! 前に焦がしちゃったのと同じやつだよ」

「おお」

 ケーキの一切れに手を伸ばしかけて、美季の顔をじっと見つめる。

「なに?」

「いや、なんでもないよ」

 口のところについてたチョコレート、もうなかった。気付かれてないと思ってるだろう。少しにやけてしまった。

「いただきます」

 チョコバナナケーキを、大きく一口かじる。手と口の周りにふわふわのクリームがべっとりついた。美季は俺の反応が気になるようだ。飲み込んでから、言ってやった。

「やっぱり、苦いよ」

「え……」

「うっそー」

 怒られる前に、ありがとうな、おいしいよって言った。美季は満面の笑みで、自分もケーキを手に取った。ケーキの半分くらいを、大きな口を開けて頬張る。さっきと同じあたりにまたクリームがついた。面白いなあ、こいつ。

「あたしね、考えたことがあるんだけど」

 ケーキを手に持ったまま、言う。俺はもう一口自分のをかじった。

「東京に行こうかな」

 驚いて、喉に詰まらせそうになった。むせ込んだ。手に持ったちっちゃくなったケーキを落としそう。ゆっくり飲み込んで、息を整えて、聞き返す。

「なに、なんつったの、今」

「東京に行く」

 今度は、はっきりと断言したのだった。強い意志を込めて。

「東京の大学受ける。絶対合格して、東京に住むんだ。それで、毎日翔ちゃんのところに会いに行くね」

 美季は俺の目を見て微笑んだ。俺は返事の言葉を探す。

 俺なんかのために、美季の人生、左右させるわけにはいかないよ。ずっとそう思ってきた。病気がわかってから、美季のこと思い出すたびに。

 でも、やめろよっていっても、美季は聞かないだろうな。別に翔ちゃんのためじゃないもん、あたしがそうしたいんだもん、とか言って。

「……俺、それまで、生きてるかな?」

「生きててよ。あたしだって翔ちゃんが会いに来るの待ってたんだから、翔ちゃんもちゃんと待っててよ」

 困った顔を作るつもりが、俺は笑っていた。

 わかったよ。待っててやるよ。

 美季にもう一度会う日のためだけに、全力で生きてやるよ。




 最後の食事をし、荷造りの続きをして、昼前には美季の家を出た。

 タクシーで一昨日来た道を空港へ向かう。美季はやっぱり何も言わなかったし、俺もまたずっと窓の外を眺めていた。

 空港はUターンラッシュと被ってしまってやっぱり混んでいた。いよいよゲートを通ると言うときになって、美季が何かを言おうとしたけれど、俺は静かに首を振った。

「じゃあな」

「またね」

 それだけ言って、手を上げた。美季に背を向けて歩き出す、その足を引きずることはない。

 美季が言おうとした、俺もかつて言おうとした言葉は、俺には、たぶん美季にも重すぎる。そしてその割に大した意味も為さない。

 なぜなら、俺たちはわかっているからだ。口になど出さなくとも。だからこそ少し舗装の違う道を、崩れないように並んで歩いていられるのだ。

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