第3話 花のマリアの大聖堂
翌朝、俺はホテルのロビーで論田と待ち合わせをしていたが、20分過ぎても一向に現れない。エジプトでの経験から何かのトラブルに巻き込まれているのかと、つい疑心暗鬼になってしまう。フロントに頼んで部屋に電話をしてもらうと、電話には誰も出ないとの返答があり、俺はやむを得ず部屋に行き確認をすることにした。
論田の部屋のドアをノックするが反応はない。何度かノックを繰り返すと室内から物音が聞こえ、ドアが開いた。
「よかった、いましたね。」
「そろそろ出かけま・・。」
と言いかけたところで、
「ちょっと、どこ見てるのよ、変態なの?このド変態。」
開口一番、パジャマに寝ぐせ、そして歯ブラシを片手に持った論田が現れ、そしてドアが勢いよく閉まった。ド変態は心外だよなと思いつつ複雑な心境で待っていると、ドアが開き論田がでてきた。そして足元には昨日の猫がいた。
「ほら、いくよ。はやく準備しろ。」
「ペルも早くいきたいって。」
と、いつの間にか立場が逆転していた。
今日は論田の知り合いが案内をしてくれるとのことで、だいぶ気楽である。俺たちは待ち合わせ場所である「サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂」に向かった。幸いホテルから歩いて5分程度であるので、待ち合わせ時間にはギリギリ間に合いそうだ。
この大聖堂は巨大なドームが特徴的で、そのドームの上にあるクーポラに行くとフィレンツェの街を一望できる。
余談であるが、フィオーレとは「花」を意味し、フィレンツェの語源にもなっている。フィレンツェが「花の都」と呼ばれている由縁である。そしてこの大聖堂は「花の聖母マリア」の教会なのである。
待ち合わせ場所に近づくと、遠くから手を振る青年の姿が見えた。
「マコさん~~」
竜崎はにこやかな笑顔で俺たちを出迎えてくれた。
「ご無沙汰してます、長旅おつかれさまでした。」
「それにしても暑い~、蒼汰、ちょっと。」
「はい、焼きそばパンですか?」
「はあ?この暑いのに焼きそばパン喰わねーわ。」
「すいません、つい昔の条件反射で。今ジェラート買ってきます。」
俺は二人の間にいったい何があったんだろうかと、そんな思いを巡らせるくらいの上下関係を感じていた。すると、ようやく俺に気づいた竜崎さん。
「あ、はじめまして。竜崎蒼汰といいます。」
「ジェラート、何味がいいですか?」
「おい、蒼汰、アオイより先に私のからでしょ。」
「私はビスタチオ。」
「はい、じゃあ僕もビスタチオにしようかな。」
「ちょっと、同じ味だとつまらないから他の味にしな~。」
「はい・・・」
「俺はチョコ味でお願いします。」
「はぁ~、相変わらずアオイはチョコかぁ、そんなんだからチョコイズミなんて呼ばれるのよ。ホントおこちゃま。」
「あ、竜崎さん自己紹介遅れました。小泉葵です。今回はお付き合いありがとうございます。」
「こちらこそ、さっそく買ってきますね。」
俺たちは竜崎の勧めで大聖堂の上にあるクーポラに行くこととなり、ジェラートを食べながら順番待ちの行列に並んでいた。フィレンツェに来たら一度はクーポラからの眺望を楽しむべきとのことであった。
論田は行列に並んでまで見ることにやや懐疑的であったが、せっかく来たんだしと竜崎に説得されていた。
並んでいる間に、論田は全員のジェラートを少しずつ食べて、その味を堪能していた。
「さすが本場のジェラート、悪くない。」
「ジェラート気に入ったなら、ここから車で2時間くらいのところにある、サンジャミアーノって町に行ってみるといいですよ。なんでも世界一に輝いたジェラート屋があるとか。」
「沢山の塔が並ぶ街で、どこか中世的な趣のある街なので、きっとマコさん気に入りますよ。」
「そうか、アオイ予定に入れておいて。」
「論田さん、服のここに。」
と、俺は論田の上着を指さした。
「ぎゃー」
「マコさん、どうしました?」
「ジェラートこぼした、シミになっちゃう~。」
そんなやりとりを遠くから見つめる人影があり、俺はその視線に気が付いた。エジプトでの出来事から、常に周囲を警戒するようになってしまっていたのだ。
俺たちはようやく大聖堂の中に入ることができた。論田の猫も入り口で止められる風でもなく、しっかりついてきている。一歩足を踏み入れた瞬間に空気が変わり、その光景に息をのんだ。屋根に描かれたフレスコ画やステンドグラス、そして十字架が、まるで中世時代にいざなうかの如く俺たちを出迎えた。
クーポラへと向かうための階段は狭く、ほぼ一人分の幅しかない。階段をみた論田は不満そうにしていた。
「もしかして徒歩?」
「エレベータないの?」
どうやら階段を登るのが嫌らしい。高さ116mにあるクーポラまでには463段の階段を登らねばならず、実は結構大変なのである。俺たちは人とすれ違うのも困難な狭くて暗い階段を延々と上がると、クーポラのドーム下部通路に出た。ここからは大聖堂内部を上から見下ろすことができ、そして上を見ると天上ドームに描かれたフレスコ画がまじかに迫ってくる。
すぐ前を歩く論田がそわそわして落ち着かない様子であった。急に体調が悪くなったのか、あるいはトイレに行きたくなったのか。さすがに直接聞くのもはばかられたが、あまりにも挙動不審であったため、俺は様子を伺うことにした。
「論田さん、どうかしましか?」
「目の前にはフラスコ画が、下には祭壇が見えますよ。」
「ちょっと、下なんて見るわけないでしょ、落ちたらどうするの。」
「もしかして高所苦手ですか?」
「こんな頼りない手すりで安心して下を見れるわけないでしょ。」
「手すりの問題よ。」
論田が手すりにつかまろうとした時、手すりの上にはついてきた猫のペルがいて、それはあたかも論田が手すりに触るのを阻むかのようにも見えた。
手すりには転落防止用にアクリル板も取り付けられており、かなり安全性に配慮しているように思えたが、急な体調不良でなければいいかと、俺は深く考えずに先に進むこととした。何故かペルは手すりのそばから動こうとせず、しばらくしたころに論田を追いかけてきた。
再び狭くて暗い階段を登り始めると、ところどころある窓から街並みと、ジョットの鐘楼が見えてきた。ずいぶん高くまで登ってきたようだ。
最後の狭く急な階段を登りきると、視界が一気に開けた。俺たちはようやく展望台に到着した。
「は~、やっと着いた~。」
「なにこの人混みは。」
「疲れた、もう帰りたい。」
論田がそう思うのも無理はなく、狭い通路にたくさんの人がいるため、人を押しのけないと景色をみることもままならない。さすがに映画のようにはいかないのである。
そして柱のあちこちに観光客のものと思われる落書きが無数にあり、これも雰囲気を台無しにしていた。これは以前に日本の学生が落書きをして、日本国内でもニュースになっていた。そんなことが気にならなくなるくらい一面落書きだらけである。
なんとか他の観光客を押しのけて景色を堪能していたその時、急にざわめき声が聞こえ、下の方から叫び声も聞こえてきた。多くの観光客が何事かと階段を降り始めたために一層事態は混乱した。
最後の階段こそ行きと帰りは同じであるが、そこ以外はルートが違っている。俺たちは帰りのルートを進んで、ドームの下部通路に出たところで異変に気が付いた。行きの時に通った通路の転落防止用の手すりとアクリル板の一部が外れていた。下を見ると転落したと思われる人と、それに群がる沢山の人が見えた。
「えっ、これって、何?事故?」
「あの手すりって、さっき私がつかまろうとしたとこだよね。」
「ペルが邪魔でつかまらなかったけど。もしかしてペルはわかってたのかな。」
偶然だろうが、あの時手すりにつかまっていたらと考えるとゾッとした。俺たちはどうにか階段を下りて大聖堂に帰ってきた。その頃には事故現場には規制がひかれ、野次馬は近づけないようにされていた。それでも沢山の人だかりができており、観光どころの話ではないため、俺たちは大聖堂を後にした。エジプトに続いてイタリアでも人の死に出くわすとは。
大聖堂を出たところで、俺たちは警察官らしき人物に呼び止められた。どうやら目撃証言を集めているようであった。周りを見ると観光客の多くが足止めをされていた。ここイタリアではこの数日で複数の殺人事件があり、警察は神経を尖らせているためである。
すると、その中で日本人らしき人物が、この場を仕切っている警察官と話をして観光客を解放するよう要求していた。ほどなくすると、俺たちを含めた観光客の多くは解放された。どうやら事件との関係性はないと判断されたようであった。
すると竜崎がその人物をみて、顔見知りであることに驚いた。
「あの日本人、『ナン』の人だ。」
すると、その日本人も竜崎に気づいたようで、近づいてきた。
「なんなん?」
「ここ数日うちの店を利用していただいているかたですよね?」
「そうなん。」
「警察の関係者の方だったんですね。」
その人物は面倒くさそうに竜崎をみると一言。
「私立探偵なん。」
その頃、大聖堂付近
その騒ぎをみていた人物は、
「転落事故に見せかけて殺すとかくだらない。」
と舌打ちをして、想定外の警察の動きから次の計画の修正を余儀なくされていた。そして日本人の探偵が捜査に加わっているのをみて少し安堵していた。
こんなつまらない殺人と自分の事件を同じにされては困る、あの探偵が見込み通りなら犯人を見抜くであろう、そう考えていた。
同、大聖堂付近
群衆に紛れた人物は、
「上手くいった。」
そうつぶやくと、その場を後にした。
薬物の混入量に問題はなく想定通りの効き目であり、検死しても証拠は出てこないはずだ。何より奴は一人で勝手に手すり側に倒れ込んで転落死しただけ。他殺の線がでたとしても、連続殺人事件と関連して捜査されるはず。そして、最終的には大聖堂の管理の問題に行きつくはずだ。その人物は楽観的に考えていた。
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