第2話 バッドエンドの誘惑(遥ルート①)

 目が覚めると、そこは騒がしい教室の中だった。


「ここは……」


 ピンクとベージュを混ぜたようなセンスの悪い色の壁。

 窓の外のグランドの隅に見える大きなイチョウの木。

 この光景には見覚えがある。

 それは、かつて俺が通った高校の教室だった。

 ただ周りの生徒達は全く記憶にない顔が多く入り交じっていて、俺の居たクラスであるとの実感はない。

 それに生徒達が普通にスマホを持っている亊にも違和感を覚えた。

 携帯が普及してきたのは俺が大学に入る頃だったはずだ。


 その時、突然俺の頭の中に直接書き込まれるように人名や地名、その他のおびただしい文字データが流れ込んでくる。


「うぐっ、何だ、これ」


 データの流入が治まった時、俺の違和感は全て消え去った。

 おそらくこの世界における俺の記憶――あるいは設定とでも言うべきものが同期されたのだろう。

 ここは俺の記憶を元に造られた、別の世界なのだと俺は理解することにした。


 俺の名前は沢木貴巳さわきたかみ、私立北条高校の二年生だ。

 今日は9月20日、学園祭を一週間後に控えて同級生達は放課後の教室で各自に割り当てられた学園祭の準備に追われていた。……もっとも、半分位はふざけて遊んでいるように見えるが。

 ふと黒板の方に目を向けると、最前列の席に座る一人の女子生徒の姿が目に入る。

 その子は隣の席の女子生徒に話しかけられて横を向いた。


「あっ」


 俺は思わず小さな声を上げた。

 長く真っ直ぐな黒髪に、雪のように白いかおと長い睫毛。

 その横顔は、紛れもなく俺の記憶のままの彼女だった。

 彼女の名前は園崎そのざき彩矢あや

 俺が好きだった同級生だ。

 しかし他のクラスや先輩にまでファンがいるという彼女に対して、取り立てて目立つ事もなく今で言う陰キャのような存在だった俺は、ただ思い焦がれただけで結局何も行動を起こさずに卒業を迎えた。

 何年後かには老舗デパートの御曹子と結婚したと聞いたが、その後の事は知らない。

 他の同級生が「元の俺」から見てほぼ知らない人間なのに対して、彼女だけが記憶のままということは、彼女がこの世界における重要人物であるとみて間違いないだろう。


 それにしても、ここがあの人形の言っていた「ゲーム」の世界だとしたら、俺はこれから何をしたらいいのだろうか。

 今のところルールやシステムに関する情報は一切ない。


 ――考えても仕方ないか。


 園崎彩矢がゲームの核心なのだとしたら接触してみるまでの亊だ。

 実際の高校生の頃の俺なら考えられない行動力だが、ゲームの世界だと思えば気も楽だし曲がりなりにも長い社会人生活でその位の対人スキルは身に付いている。

 俺が席を立って園崎彩矢の方に向かおうとした時だった。


「ねー沢木っ、追加の飾り付けの材料を生徒会室に貰いにいくから手伝ってよ!」


 行く手を塞ぐように、明るく染まった髪を揺らしながら、猫を思わせるクリッとした目の女子生徒が俺の前に立った。


 ……この子は、クラスメートの卯月うづきはるかか。


 明るく開放的な性格で、クラスの女子のムードメーカー的な存在だ。


「え? いや、これからやる事があるから……」


 しかし遥は頬を膨らませ詰め寄るように顔を突き出す。


「なによ、ついさっきまで居眠りしてたでしょ? それに他の男子は遊んでばっかりでアテにならないんだもん」

「え、えーと、でもなぁ」


 不意に近い距離まで遥に顔を寄せられ、思わず鼓動が高まった。


「手伝ってくれたら、私の試作したクッキーご馳走してあげる」


 ――これ、どうしたらいいんだ?


 その時、逡巡する俺の眼前に突然半透明のポップアップウインドウが開いた。


「うわ、なんだこれ!?」


 ウインドウには、次の言葉が並んでいた。


『遥を手伝う』

『断る』


 ――何だよ、これってまるで……。


「ねー、何ブツブツ言ってんの?」


 遥が不審そうな眼差しで俺を覗き込む。


「いや、これ見えてないのかよ?」


 俺はウインドウを指差すが、遥は首を傾げた。


「ちょっと何言ってるか分かんない」


 なるほど……これは俺にしか見えないものなのか。

 俺はなんとなくこの「ゲーム」のことを理解した。

 今は何と呼ばれてるのか知らないが、これは俺が昔プレイしたことのある恋愛シミュレーションか恋愛アドベンチャーのようなものなのだろう。

 だとしたら、目の前にあるものはシナリオが分岐するための選択肢か。


「ねー、どうするの?」


 その間にも遥が急かしてくる。

 どうする……ここは無視して彩矢の方に行くか。

 俺が迷っていると、目の前のウインドウの色が黄色に変わり点滅し始めた。

 まずい。選択には時間制限があるらしい。

 ウインドウの色がオレンジに変わり、さらに点滅が早くなる。


「ねーってばぁ」


 カチッ。


 遥に押し切られるように、俺は思わず『遥を手伝う』を押していた。


「わかったよ、手伝うから」

「ホント? ありがとう! それじゃ早くいこっ」


 弾けるような笑顔を見せる遥と連れ立って、俺は生徒会室へ向かった。

 模造紙やらリボンテープが大量に入ったダンボールを受け取り、再び教室への廊下を遥と歩く。


「少しアタシも持とうか?」

「いいよ、結構重いし。そのために頼まれたんだろ?」

「うん。フフ、沢木って意外と優しくて頼りになるんだね」

「そうか? まあ、役にたったならいいんだけど」


 教室に戻り自分の席に着いて教室を見回すと、彩矢の姿は既になかった。

 買い出し班として既に帰ってしまったらしい。


 ――あの場面で遥を選んだからか。


 次にどうしようかを考えていると、遥が再び現れた。


「沢木、さっきはありがとっ」


 空いていた俺の前の席に座り、机の上に可愛くラッピングされた小さな包みを並べる。


「これは?」

「手伝ってくれたら試作品のクッキーご馳走するって言ってたでしょ。どれがいい? チョコとナッツとレーズンがあるよ」

「えーと、じゃあチョコで……」

「チョコね?」


 遥は一つのクッキーを手に取るとラッピングを解いた。

 そして指先につまんだクッキーを俺の口元に差し出す。


「え? 何、どうした?」

「ダンボールとか触って手が汚れてるでしょ。だから食べさせてあげる。はい、アーン」


 待て待て待て、ちょっと手伝ったくらいでこんな事ってあるか?

 現実なら絶対――って、そうだ、ここは現実じゃなかったな。

 そう思うと気恥ずかしさもなくなった。


「……じゃあ、いただきます」


 開いた口の中にクッキーがそっと押し込まれた。

 少し緊張した面持ちで遥が俺の様子を窺う。


「ん……うまいっ」

「ホント!? 良かったー」

「ああ、これなら自信を持って売れると思うよ。遥は才能あるんだな」


 俺の言葉に、遥は急に顔を赤らめた。


「初めて名前で呼ばれた……」

「あ、悪い。イヤだったか?」

「ううん。ねー、アタシもこれからは貴巳って呼んでいい?」

「もちろんいいよ」


 遥は再び弾けるような笑顔を見せると席を立ち上がった。


「それじゃアタシまだやることがあるから行ってくる。またね! 貴巳」

「ああ、またな、遥」


 教室を出て行く遥を見送り、俺はイスの背もたれに身を預ける。


 なんだろう。

 もう二十年以上も感じたことのない淡い情動が胸の奥で灯った気がした。

 たとえ現実でないとしても、たぶんこれはゲームのパラメータの類じゃない。


 ――遥、か。


 俺は心の中でもう一度その名を繰り返していた。

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