バッドエンドが楽園すぎて、ヒロインルートは攻略しない

椰子草 奈那史

第1話 運命ヲ回ス使者

 テーブルの上には雑に握り潰された酎ハイの缶が散乱していた。

 テーブルに止まらず、その周囲の床も似たような有り様だ。

 しかし、アルコールと疲労が蓄積した脳にはもはやどうでもいいことだった。


 ブラックぎりぎりの会社に会社に勤めてもう十数年経つ。

 移り気な顧客に翻弄され、上司からはパワハラ紛いの締め付けが入り、部下からは突き上げを喰らう。

 他で何かやれる程の才覚も若さもないから続けているが、早晩鬱病にでもなるような気がする。

 結局は結婚もしないまま四十三歳になってしまった。

 今では毎晩こんなふうに独りで意識が飛ぶまで飲み続け、朝目覚めたらまた仕事に行く生活が続いている。


 だいぶ意識が朦朧として来たときだった。


『見テイラレネェナ』


 どこかで声がした。

 隣の部屋のテレビだろうか。

 だが、今の俺には何であろうと関係ない。


『オイ、無視スンナヨ』


 再び甲高い声がする。

 声の方向に視線を向けると、雑然としたキッチンカウンターの上にまるで腰掛けるような姿勢で子供の人形が置かれていた。

 目がギョロッとした、腹話術に使われるような人形だ。


 ――いつの間に?


 俺には人形を買ったり貰ったりした記憶はない。

 薄気味悪く思いながらも人形に近づこうとした時、人形の口が突然ガチャガチャと激しく開閉する。


『手短カニ言ウゾ。オメデトウ、オ前。オ前ハ幸運ニモ、ソノミスボラシイ人生ヲ一発逆転スル機会ヲ手ニ入レタ!』

 人形の口が閉じ、沈黙が流れる。


「な、なんなんだお前は!? そもそもどこから入った?」


 呆気にとられていた俺がようやく言葉を発すると、人形の口が再びガチャガチャと動き始める。


『運命ヲ回ス使者』

「運命を回す使者? それは何なんだ」

『オ前、ゲーム好キカ』

「こっちの話は無視かよ。……若い頃は結構やったが、最近は全然――」

『オ前、ゲームヲヤル。クリアスレバ、ルート分岐発生、バラ色ノ人生ヲ獲得』

「はあ?」


 一体どういう事だ。

 酒の飲み過ぎで幻覚でも見ているのか。

 何かのゲームをクリアすれば今のこの状況を変えることが出来るだと?

 しかし、アルコールで澱んだ俺の脳でも理解出来てることはある。

 こいつが悪魔なのか妖精なのか知らないが、この手の持ちかけに乗ると大抵はロクな結末にはならないことを。

 いらない、帰れ―――そう言いかけて、言葉が止まった。

 まてよ。

 今のこの有り様に何か守るものなんてあるか?

 このまま生きていたって、未来なんて何も描けないじゃないか……。

 一瞬の逡巡の後、俺の中で答えは固まった。


「いいだろう、お前が何者でもそれに乗ろうじゃないか。もしこれがただの夢なら、明日目が覚めるだけのことだ」


 俺の答えに人形の口が再びガチャガチャと動き出す。


『デハ、オ前ガ一番行キタイ時代ヲ思イ浮カベロ』


 一番行きたい時代?

 俺は目を閉じて過去を思い返そうとする。

 勉強もせずに遊びにかまけた大学生の頃……いや、大した悩みもなく過ごせていた子供の頃か?

 その時、脳裏に一瞬だけ浮かんだ映像があった。

 教室の中に佇む、制服の黒い髪の少女の横顔――。


 あ、あの子は……。


 次の瞬間、視界が暗闇に包まれた。


『ゲームヲ始メル』


 どこか遠くから、甲高い声が響いた。

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