第3話 急
行かなくちゃ。
また声が聞こえた。いったい誰の声なのだろう。どこに行けと言うのだろう。外は雨だ。雨脚はさらに強まり、土砂降りになっている。雨の音が部屋に満ちる。
行かなくちゃ。
声は繰り返される。頭の中に直接声が響く。誰だ。今日の私はどこかおかしい。どこからか声が聞こえたり、忘れていた過去を思い出したり。雨によって精神のバランスが崩れてしまったのだろうか。
行かなくちゃ。
その言葉は私を急かすように、執拗に繰り返される。声がする間隔がだんだん短くなってきている。
どこかへ行かなければ、この声は消えないのだろうか。こんな雨の中、私にどこへ行けと言うのか。
仕方がない。私は出かけることにした。いったいどこへ行けばいいのか、見当もつかないが、この声を消すために、とにかくどこかへ行ってみるしかない。
私はエプロンを脱ぎ、部屋着からスーツへと着替えた。私は出かける際には必ずスーツを着るようにしている。職業上、スーツを着る必要はまったくないのだが、スーツを着ることによって自分を律しているのだ。スーツに身を包むと、私は気を引き締めた。私の仕事は特殊だから、外出にも気を使わなければならないのだ。油断してはいけない。家の中でさえも私は一定の緊張感をもって過ごすようにしている。
玄関で革靴を履き、身だしなみを整えた。恰好は大事だ。大多数の人は恰好で性格を判断する。私の恰好から私の内面や、職業を推し量ることなど、決してできやしないのに。
外出しようという段になって、傘がないことに気が付いた。私は玄関にあったはずの傘を探した。こんなところにあるはずはないと知りながら、靴箱を開けて探してみたりした。靴を脱いで、部屋の中に入り、傘を探し回った。でも傘はどこにもなかった。どういうことだ。
傘がない?
それはありえないことだった。私は準備を何よりも重んじる。雨に備えて傘を用意しておくことは、私にとっては当然のことなのだ。傘を持っていないはずがない。しかし、現実に傘はどこにもなかった。私は混乱した。今日はどうなっているのだ?おかしなことばかりだ。
行かなくちゃ。
またあの声だ。傘がないのに行けと言うのか、この土砂降りの中を。
行かなくちゃ。
だんだん腹が立ってきた。しかしこの声に怒ったところで、問題は解決しないのだろう。
私は再び玄関に行き、しっかりと靴を履いて、ドアを開けた。
外はやはり土砂降りである。雨脚はさらに強まり、打ち付けるような雨になっている。
私はマンションのエレベーターに乗り、一階を押した。エレベーターは下降し、一階についた。ドアが開くと、大学生らしき青年がいた。私はエレベーターから出た。傘も持たずに外出しようとしている私を、彼は訝しげな眼で見ていたが、結局何も言わずにエレベーターに乗り込んだ。
私はすこし躊躇したが、声が急かすように響くので、雨の中を走っていった。
雨が私の体を打ちつける。痛いほどの豪雨である。風も強く、雨は斜めに降り注いでいた。視界も悪く、真っ白にしか見えない。
君に会いに行かなくちゃ。
君?
新しい言葉だ。誰かに会いに行けと言うのか?しかし、いったい誰に?
私は走った。どこか雨宿りできる場所はないだろうか。しばらく走った後、廃ビルが見えたので、私は雨宿りをしようと廃ビルの地下駐車場に駆け込んだ。この街にこんな廃ビルがあるとは、今の今まで知らなかった。
息を整える。毎日走り込みをしているとは言え、こんな雨の中を走ることはまずないし、何だか今日は体調も優れていないようだ。息が切れてしまう。あるいは、私ももう年だということかもしれない。スーツがびしょ濡れだ。シャツが水を吸い、少し重たくなっている。私は服を脱ぎ、手で絞った。かなりの量の水が出た。絞った後にちょっとした水たまりができた。
廃ビルの駐車場は明かりもなく、薄暗い。まるで私の心象風景のようだ。誰からも忘れ去られ、朽ちるのを待つ、薄暗い廃ビル。孤独で、ひび割れた、過去の建築物。
私は座り込んだ。何だか疲れた。眠りたい気分だ。今日は災難な日だ。家で映画でも観ようかと思っていたのに、幻聴を追い払うためにこんな雨の中を走るなんて、私はどうかしている。頭がおかしくなってしまったのかもしれない。
ため息をついていると、奥の方でうめき声がしているのに気が付いた。雨の音が激しいせいで、気が付かなかったのだ。
駐車場の奥へと進んでいく。そのうめき声は鮮明になっていく。男が痛みで苦しんでいるようだ。視界にその男が苦しんでいる姿と、パトカーが飛び込んでくる。さらに近づくと、男が制服を着ていることに気付く。
警官だ。
私は逡巡した。警官とはできるだけ関わり合いにはなりたくない。このまま去るか?しかし、私の頭にあの声がこだまする。
行かなくちゃ、と。
私は思い切ってその警官に近づいた。警官もこちらに気付いたようだった。よく見ると、警官は二人いて、一人は血まみれで倒れており、一人は足を撃たれて血を流していた。
「おい、今すぐ警察に連絡してくれないか。一応駐車場に入る前に連絡はしておいたから、応援がそろそろ駆けつけると思うのだが、その後の報告をしたい。柄里からの連絡だと言ってくれ。あと救急車も二台呼んでくれ」
彼は痛みに悶えながら私に要求した。
柄里。その苗字に心当たりがあった。
「君は柄里加々良くんか?」
「なぜ、名前を」
彼は驚いたようだった。もちろん私も驚いているのだが、顔には出さない。
私は自分の名を告げた。
「君か。久しぶりだな。すまない。積もる話もあるかもしれないが、今は緊急事態だ。警察と救急に連絡してくれ」
そう、彼は私を貶めたあの児童だ。警官になっていたのか。
「皮肉だな」
「え?」
「いや、何とも滑稽だなと思ってな」
「おい、ふざけている場合じゃないんだ。連続殺人犯が逃走中なんだぞ」
「関係ない。私には前々からお前に復讐したいと思っていたのだ。ついさっき思い出してな」
「何を言っている?」
「私は殺し屋になった」
「殺し、屋」
彼は痛みを忘れたみたいに見えた。
「皮肉だよな。私を貶めた君が警官を、不正に抗おうとした私が殺し屋をしているなんて。人生何があるかわからないものだな」
「今はふざけている場合じゃ」
私は小型ナイフを取り出した。護身用にスーツに忍ばせていたのだ。
「私は君を生かすことも、殺すこともできるんだ。この状況を理解していないのは、君の方なのではないか?一見ふざけているように見えるかもしれない。私も君も道化師みたいなものだ。非常に滑稽な劇を演じている」
「ふざけるな!」
「あの時の教師にも同じことを言われたな。私が真剣になればなるほど、他人にはふざけているように見えるらしい」
「俺が、何をしたというんだ」
「君が覚えていようがいまいが、私にはもう昨日会った出来事のように思い出せる。鮮明な記憶となって、よみがえってきたのだ」
雨脚はさらに強まる。溢れた水が、この駐車場にまで押し寄せてくる。
「雨とともに流れ出さなくてよかったよ。私はあの日、自分を守る傘を持っていなかった。いや、今日まで傘を持つことができなかった。誰も傘を貸してはくれなかった。私は強く打ちつける雨にじっと耐えながら、今日まで走り抜けてきたのだ」
「何の話をしているんだ」
「君にわからなくても結構。私にはすべてがうまく飲み込めた。あの声は、君と出会うために響いていたのだ。あるいはあの声は、自分自身の声だったのかもしれない」
「何を」
彼が何かを言う前に、私は彼の拳銃で撃たれた箇所をナイフで突き刺した。彼は絶叫した。その叫びはジェットコースターで上げるそれとは比べ物にならないほどだった。
濁流が駐車場に流れ込み、私の足元を濡らしていった。彼の周りには、血の混じった不思議な濁流が揺蕩っていた。
「お前は、最悪だ」
さらなる痛みに耐えながら、彼は私に文句を垂れた。
「勝手にさせてくれ。私が最悪なら君は最低だ」
私はナイフを投げた。彼の心臓部に刺さった。彼は血を吐き、倒れた。そして濁流に呑まれた。
冷たい雨は、私の目の奥で降り続け、やがて心の奥へと流れていった。
傘がない 春雷 @syunrai3333
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