第17話
「大丈夫っ?」
俺がちゃぶ台を前にしてベッドに腰掛けようとした時、思い出したように、思わず口を突いて出た「いててっ」と言う声に、キッチンで買い物袋から食材を取り出していた久志が、慌てて反応する。
「ああ、大丈夫だ。気にするな。本当はもうあんまり痛くもないんだ。ここ二週間の『口癖』みたいなもんだ」
「ホントに?なら良いんだけど、まだ無理しちゃダメだよ」
「ああ、本当に大丈夫だ」
強がりとか、軽い嘘で『大丈夫』と言った訳ではない。
アドレナリンか何か、おかしな脳内物質が出ているのかもしれない。さっきまで本当に痛かった胸も脇腹も、何故だか今は痛みが退いている。
キッチンから顔を出し、心配そうな(何だか涙ぐんでさえいるような)表情でこちらを見詰める久志の視線を
――次のニュースです。東京○○区議会での、ある区議会議員の発言に批判が殺到しています。
特に意識して聴こうとした訳ではない。
実際殆ど聞いてもいなかった。
しかし、何とはなしにそのニュースがあまり今は聞きたくない方向へ話が進んで行っているような気がして、嫌な予感はしていた。
――それでは、こういったLGBT問題に詳しい、東京大学の・・・
やっぱり、そっちのニュースだったかっ
俺は慌てて手に持ったままのリモコンで電源を落とそうとして、慌て過ぎてそのリモコンを床に落としてしまう。
更に慌ててそれを拾い上げるのだが、焦って音量ボタンの『+』に指が触れてしまい、テレビからのがなり声を盛大に部屋中に響き渡らせ、漸く電源を落とすことに成功した時、キッチン方向を振り返ると・・・まぁ、そんなものだ。
こちらを覗き込むような視線の久志と目が合うのだった。
「あっ、ああ、聞いてたか?いっ今のニュース。酷っでぇ話だよな。な、お前もそう思うだろ?」
気付いたときにはもう遅い。
そんなことはしょっちゅうだ。
俺の言葉に、久志は答えを躊躇っているのか、黙ったまま俺を見詰めている。
「いやな、俺もさ、この手のニュースは苦手でな・・・。誰が誰を好きになろうがさ、それが男だろうが女だろうが、異性だろうが同性だろうが、関係ぇ無ぇっての、な?」
ハッキリ言って、思ってもいないことだ。
いや、思ってもいないというより、つい最近まで、考えたことも無かったというのが正解だ。
そういう話は、どこか自分の全く関わりのない世界の話であって、自分が同性を好きになることはあり得ないし、同性から好かれることなんて、想像したことさえも無かった。
テレビや映画、漫画の中の世界。どちらかというと、SF(サイエンスフィクション)みたいなもので、現実世界、日々の生活の中で、思い及ぶことも無ければ、そんな可能性すら一ミリも感じたことは無かった俺は、今現実に起ころろうとしていることに、戸惑いと、更には恐怖さえ感じていたに違いない。
確かに高校生時代の演劇部助っ人参加した折、久志の女装を見て、そこら辺の女より何倍も綺麗だと思ったことは事実だが、相手が男である以上、俺が久志に恋愛感情を抱くことは無いし、彼もまた俺に対してそんな感情を持つことがあるなどとは、思いもよらないことだった。
だがしかし、今こうして、その恐ろしい現実が目の前に突き付けられている、ような気がするのだが・・・。
いや、まだ確定ではない。俺の杞憂かも知れない。
・・・。そんなことはないか・・・。
嫌いではないのだ、友人として、は。と、いうよりは、寧ろ好きなのだ、友人としては。
それは雅美にしたって同じことで、俺が中学、高校時代に所謂仲の良かった連中とは、明らかに何かが違った。
それが何なのか、ハッキリ分かっている訳ではない。ただ言えるのは、こいつらと居ると、何故だか居心地がいいのだ。俺が知らなかった、そして、本当は心の何処かで興味のあった世界観を、こいつらは持っているような気がして、始まったばかりのこの関係を、ここであっさりと壊したくはないと思っている。
どうすれば良い?
久志を傷付けることなく、勿論俺も引け目を感じず、今後雅美にも変な気遣いをさせずに、この修羅場を回避する方法は・・・
公園から部屋に戻ろうと決めた時、そう、久志に正面から向き合おうと思った時、俺は腹を括ったのではなかったか?
違うか・・・。
唯々勢いだった、気がするな・・・。
単純な『良い』、『悪い』、二者択一の二元論。
シカトは良くない、向き合うことが正しい、みたいなそれだけで、何をどうすべきか、この先どうなるのか、なんも考えていなかった・・・。
そうこうぐちゃぐちゃと頭の中で纏まらない思考を繰り返しているうちに、既に久志はちゃぶ台を挟んだ俺の向かいに正座している。
俺を真っ直ぐに見詰める久志は、涙をいっぱいに浮かべたその瞳で、今にも告白の言葉を告げてくるのだろう。
もうジタバタしても仕方が無さそうだ。
「・・・ヒロ・・・」
俺は息を飲む。
「僕は・・・、僕は・・・」
言葉を詰まらせる久志に、俺は掛けてやれる言葉など持ち合わせていない。前のめりになりながら、ジッと待つしかなかった。
怯んではダメなのだ。久志を傷付けてしまうから。
永遠に続くかと思われた、重苦しい沈黙の時間だったのだが・・・
――ピン ポーン
今日ほど玄関チャイムの音を、頼もしく、そして愛おしく感じたことは無い。
例えそれが新聞の勧誘だろうが、反社会勢力のようなNHKの集金人だったとしても、今日ばかりは大歓迎なのだ。
俺は慌てて立ち上がり、ワザとらしく、しかもちゃんと久志に聞こえるように、「ったくよぉ、何だってんだ、こんな時間に・・・」と、悪態を吐きながら玄関に向かった。
「はーい、どちら様?」
そう言いながら、俺はドアを押し開ける。
「よぉ、高柳。土屋、来てるよね?」
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