第14話

 食事を長引かせて時間稼ぎをしたほんの数分は、結果として最適解とまでは言えなくても、その場凌ぎの問題先送りには成功した形になった。

 俺の茶碗が再び空になったところで、久志は室内の壁掛けの時計を見遣り、「ごめん、僕もう学校行かなくちゃ。食器、直ぐ片付けるから」、そう言って席を立ち、皆の食器を集めてキッチンへ向かう。

「手伝おっか?」

 雅美の申し出に久志は、「ううん、狭いから、大丈夫。部長は帰る準備しててよ。こっちもすぐ終わるから、そっちの部屋、ちょっと片付けたりさ」、そう答えて食器をカチャカチャとやり始めていた。

「あ、うん、分かった」

 俺は雅美が何か俺に言ってくれるんじゃないかと期待して、雅美に視線を投げ掛けたが、雅美はそれに全く答えずに、敢て無視しているんじゃないかというくらい不自然に俺から目を逸らすように、布巾でちゃぶ台を拭き、それから身の周りを整え始める。

 俺は俺で自分から話し掛ける勇気も無く、ただ黙ってその様子を見ているしかない。

 久志がキッチンから戻り、立ったまま、雅美を促す。

「部長、準備OK?家まで車で送っていくよ。ヒロ、また電話するよ。もし何だったら、今夜もご飯作りに来ようか?」

「あ、いや、大丈夫だ。バイト明日からだけど、挨拶だけ行こうかなって思ってるから、その時外で食べるわ」

「・・・そう・・・。うん、分かった。それじゃ」

 少しガッカリした風の久志に焦った俺は、直ぐさま話題を変える。

「で、でも大変だな、専門学校って、春休み無いのか?」

「あ、うん、あるに在るけど、大学みたいに長くはないよ。三月二十五日から十日間。小中学校と同じだね」

「そ、そっか・・・。じゃ、ありがとな、昨日、今日と、助かったよ。車の運転、気を付けてな。それじゃ、また今度」

 俺はそう言って見送りに立ち上がろうとして、久志に制止された。

「良いって、ヒロは座ったままで。じゃ、部長、行きましょう」

 雅美も俺に向かって『座っているように』というジェスチャーをしてから、「じゃ、無理すんじゃないわよ。またね」、そう言って久志に従って玄関に向かおうとして、ふと振り返り久志が背中を向けているのを確認すると、素早く電話をするポーズをして見せてから、口パクで『あとで』と告げて来た。

 俺も目だけで合図を返したが、やっぱり何だか変な気分だ。

 部屋を出て行く二人に、座ったまま「ありがとな、気を付けて」と、再度声を掛け、俺は独り、部屋に取り残された。

 二人が出て行った後、暫くの間、ぼんやりとちゃぶ台の上の携帯電話を見詰めていたが(ハッキリ言って、携帯を触りたくなかった。加奈子にもフラれた訳だし連絡を取る相手もいなければ、ニュースを見る気にもなれなかったからだ)、ふと、部屋のベランダの窓を開けようと思い立ち、起ち上がり、窓に手を掛け、一気に開け放つ。

 朝八時の、まだ少し冷たい春の風が、俺の鼻をくすぐるように舞い込んでくる。

 この二週間、色々なことが在った。そして、今現在、よく分からない状況のモヤモヤ案件は継続中だ。

 久志は俺のことを好きなのだろうか?

 それはどういった意味で?

 まさか、恋愛感情・・・?

 いやいや、それは無いか・・・

 でも、何か、引っ掛かる・・・

 それより、俺は、雅美のことを・・・

 ・・・無いな・・・

 加奈子のことが、まだ、どうにかなるんじゃないか、そう思っている、いや違う、そう思いたい自分が居る。

 ところで、雅美は・・・?あいつは誰かのことを?

 抑々、何であいつは俺たちに絡んできた?久志との関係は分かる・・・、でも、俺はあまり関係ない・・・。

 ・・・考えたところで、何も確かなことはない。止めよう、くだらない妄想は・・・。

 アパートの三階のベランダから見下ろす児童公園の桜の木は、まだその蕾が芽吹く気配さえないが、風は確実に春の柔らかな空気を孕んでいるように感じられた。



 夕方、退院の報告と、翌日からのシフトの確認の為、俺はアルバイト先のドラッグストアに顔を出した。

 店長に挨拶をし、一ヶ月分のシフト表を貰った帰り道、日中降り注いだ陽射しのせいもあり、随分と暖かさの残る夕暮れ時に、俺は少しだけ気分が良くなっていた。

 気候の暖かさだけではない。アルバイト先の店長始め店のスタッフが、思いの外俺を心配してくれていて、何だか普段では有り得ないくらいの優しい言葉を掛けてくれたことが嬉しかったのかもしれない。

 加奈子にフラれ、バイクで転倒して弱っているところで掛けられた、思いもよらない励ましの言葉は正直、単純に有難かったのだ。(勿論、俺の失恋話は誰も知らないのだが)

 皆一様に『大丈夫?』と声を掛けてくれ、『明日からの仕事、無理しないでね』、『高柳君、思ったより元気で安心したよ』、『手伝うこと有ったら、何でも言ってね』とも言ってくれ、挙句には、たまたま出くわした常連客の主婦のおばさんにまで、『あら、あなた、交通事故に遇ったんだって?大丈夫なの?心配してたわよ、暫く見なかったから』とまで声を掛けられていた。

 俺は『有難うございます。大丈夫です』と、在り来たりの返答と愛想笑いしか出来ない自分がもどかしくもあり、それでいて照れ臭さと胸の暖かさが混在するという、何ともフワフワとした幸福感を、生まれて初めて味わっていた。

 そして、物事は方向性が決まると、同じ方向に向かい、流れていくらしい。

 上着の右ポケットの中で握り締めていた携帯電話が振動し、着信を告げる。

 誰からの着信か既に分かっている俺は、敢て余裕を持って着信画面を確かめながら、六回目のコールまで待ってから、受信ボタンをタップして携帯を耳に宛てた。

「はい、もしもし」

「あ、高柳、お疲れさま」

 何がお疲れ様なのかよく分からないが、そういう挨拶の仕方もあるのだろう。俺もそれに合わせて「お疲れ」と返す。

「昨夜、悪かったわね。飲ませ過ぎちゃったり、あんたんちに押しかけて泊まっちゃったりさ。それでさ、今朝借りて帰ったバスタオルなんだけど、土屋に渡しといたから、そのうち土屋が持って行くと思うわ」

 ・・・はぁ?なんですと?

 一瞬返答に困り、黙り込んでしまいそうになったが、そこを何とか声を振り絞って平静を装う。

「あ、お、おう。分かった。久志が持って来るのな。あ、うん・・・。あ、あのさ、それって・・・」

 俺は言いかけて言葉を止めた。

 何故なら、それは俺が変態みたいに思われる恐れがあったから。そのバスタオルは、お前が洗って久志に渡したのか、それとも渡して久志が洗って持って来るのか・・・。

 そんなことを訊く訳にはいかない。

 しかし正直、俺の頭の中は、おかしな妄想で一杯なのだ。雅美の身体を拭いたバスタオル・・・。それを洗濯したのは、誰なのか・・・。

 きっと俺は変態に違いない。いや、思春期の男にとって、ある意味健全な妄想か?

 額の辺りに血液が充満してくる感覚と、眉間がやけに重ったるい感じは、これがよく漫画なんかで出てくる『鼻血ブッ』ってやつかも知れない・・・。

「どしたの?」

 携帯の向こうから雅美の声がして我に返る。

「あ、いや、何でもない・・・」

 俺の変な妄想がバレてなきゃいいけれど・・・。バレるわきゃないか・・・。いや、この女、案外に勘は良さそうな気がする・・・。

 ダメだ、今朝、雅美が俺の部屋で、俺が寝ている間にシャワーを浴びたことを知ってから、見たことも無い雅美の裸のフォルムが、今日は一日中、度々、脳裏を過るのだ。

 加奈子にフラれてまだ日も浅いというのに、俺は何を考えているんだ?

 ん?逆か?フラれたからこんな気持ちになっているのかも知れない。だとしたら、それはそれで雅美に失礼か・・・。

 俺はバカみたいに携帯を耳に押し当てたまま頭を振って、妄想をかき消そうとする。

「ねぇ、高柳、聞こえてる?あんた、大丈夫?まだ調子悪いの?」

 再び我に返ったが、言葉が出てこない。本当は「今日、これから暇じゃない?」と誘いたいのだが、その勇気も無ければ、おかしな妄想のことで、勝手に雅美に申し訳ないとの思いが心を支配していて、それを阻んでいるのだ。

「・・・、じゃ、私の用件はそれだけだから。明日から、仕事でしょ?ちゃんと今日は寝るんだよ」

「あ、ああ、分かった。ありがとう・・・」

「ええ。じゃあ」

 向こうから電話が切れるのは分かっていた。そして、切れる瞬間、それに合わせるように、俺は「あっ」と、声を発する。

 勿論、携帯画面には通話終了のサインが表示されている。

 自分でもハッキリそうだとは言い切れないが、恐らく俺は、通話が切れるのが分かっていて、その瞬間に『あっ』と言った。

 その声が、雅美に聴こえれた方が良いのか、それともそうではないのか、決して何かその先の言葉を考えていた訳ではない。

 先ほど思った『物事の方向性』は、俺の勘違いだったようだ。

 再びモヤモヤとしたものが胸を覆う・・・。

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