始りの、あの日

第2話

 二月の後半、間もなく大学入試の二次試験の為、本学生は春休みに入る直前で、立春はとうに過ぎたとはいえ、まだまだ厳しい寒さの続く季節。

 その日、俺はアルバイトの帰り道、たまたま通りがかった夜の飲食店街はずれにあるホテル街通りを歩いていた。

 いつもはこの通りを歩いて帰ることは無い。何故なら、他人がホテルに入って行くところや出てくるところ、そういうカップルを見るのは趣味が悪いような気がしていて、(その通りを抜けた方が若干は早く帰ることは出来るのだが)、敢て避けるようにしていた。

 ところがその日はどういう訳か、虫の知らせなのか何なのか、俺はどうしてもそのホテル街通りに足を踏み入れなければならない気がした。

 別に慌てて家に帰る用も無く、遠回りをするのが億劫だった訳ではない。ただいつもの周り道をすると、何か重要なものを見落としてしまうような気がしたのは確かだった。

 暗がりに妖しく光るネオンが点々と並ぶその通りの入り口には、客待ちのタクシーが数台列を成ており、その脇を通って一人その通りに入って行くのは、やはり気が滅入る思いがした。

 俺は伏し目がちにだが、そのタクシーの運転手たちのことを睨み付けるような視線で一瞥しながら、通りに進む。

 通りに入って速足で数十メートル行ったところで、俺の脇を追い越してピンクと紫のネオンサインのホテルの前で停まったタクシーに何となく目が行った。

 決して見たい訳ではない。どんな人物たちが降りてくるのか、そんなことはには興味が無い、筈だった。

 今度は俺がそのタクシーを歩いて追い越しながら、後部座席に座る客の姿をチラリと見やる。支払いを済ませ、タクシーから降りようとする三十歳前後と思しきスーツ姿の男性、そして、まだ運転席後方のシートに座ったままで、これから降りようとしている女性の横顔・・・。

 嘘だろ・・・?

 俺は慌てて顔を逸らす。そして急いでその場を離れようと、更に足早になる。

 振り返ることも出来ない。妙な脂汗と嫌な心臓の鼓動。

 兎に角、一刻も早く、その息苦しさから逃れたい。通りを抜けるまでの数十メートルが、長いのか短いのか、それすら分からない。

 気付くと俺は、いつの間にかホテル通りを抜け出し、国道沿いの歩道を俯きながら歩いていた。

 通り過ぎる車のライトが眩しくて、その都度瞳を車道の反対側に逸らし、出来るだけ何も考えないように足を進めようとするのだけれど、頭の中が混乱していて、何かを考えているようで、考えていないようで・・・。

 今すぐ走って引き返そう、そう思っても、今更、もう遅い・・・。

 見間違いだろう・・・か?いや、加奈子を見間違えることはない・・・。

 駄目だ、考えちゃ・・・。

 たまたま、降りたのがあのホテルの前だっただけでは?

 男が降りるのは確認できたが、加奈子が降りるところ迄見た訳ではない・・・。降りなかったんじゃ?・・・そんなことはない・・・。

 何故、あの瞬間、俺は逃げ出した?

 声を掛けなったのは何故だろう?・・・声を掛けてどうなる?どうする?なんて言うのだ?

 だからと言って、明日以降、俺はどんな顔をして加奈子に会う?

 知らないフリが出来るか?無理だ。

 どうすれば良い?

 何が正解なんだ?

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。

 でも、なんで?

 どうして加奈子が、あの男とタクシーに乗っていたんだ?

 意味が分からない・・・。

 やはり、人違い・・・か?

 他人の空似なら、何も問題無いじゃないか・・・。

 そうだよ、彼女がそんなことをする筈がない・・・。疑っちゃダメだ。

 頭が混乱しすぎて、考えたくなくても考えてしまう。

 そうだ、電話をしてみよう。加奈子に直接、電話を掛けるのが手っ取り早い。

 でもそれで、あっさり彼女が男とホテルに居ることを認めたらどうしよう。いや・・・それは無いか。もしそれが本当だったとしても、こちらから『今どこにいるの?』とは訊けても『今、ホテルにいるでしょ?』とは訊けない。

 『どこにいるの?』と訊いたところで、本当のことを言う訳がない・・・。

 本当のこと?やっぱり俺は彼女を疑っている?

 俺は携帯電話を取り出して、震える指で電話帳を開き『加奈子』をタップする。

 5コール目で出ない。そして、7コール目で、俺は息が苦しくなり、耐えきれずに呼び出しを切ってしまう。

 なにやってんだ、俺・・・。

 気持ちを落ち着けて、もう一度掛け直そうとするが、指の震えは先ほどよりも増している気がする。

 胸の中のザワつきと、こめかみに血液が溜る感覚・・・。加奈子が電話に出ることも、出ないことも、どちらも望んでいない・・・。

 すると今度は、たったの3コールで、加奈子が電話に出てしまった。

「はい、もしもし」

 いつも通りの加奈子の声だ。何も変わった様子は無いように感じた。

「あ、俺、洋明(ひろあき)だけど・・・」

「うん、どうしたの?」

 やはり普段と変わり無いように思える。

「あ、いや、どうしてるかなって思って。えっと、今日はもう仕事終わって家?」

「うん。今、お風呂入ってた。あ、そう言えば、今さっき、電話した?」

「あ、うん」

「今ね、ちょうど掛け直そうと思ってたところなの」

 嘘だ。

 加奈子の話し方も、言葉の抑揚も、何も普段と変わることはない。なのに何故か、俺には彼女が嘘を吐いていると直感がはたらいていた。

 もうそれは疑う疑わないの問題ではなく、真実であろうが取り繕った虚偽であったにせよ、どちらでも構わず、ただ、これ以上、俺には加奈子と会話をする勇気も自信もないことだけは理解した。

「うん、いや、特に用事は無かったんだけど、さっきまでちょっと飲んでてさ(俺も嘘つきだ!)、何となく、気分良くなって、加奈ちゃんに電話したくなっただけ。特に何でもないんだ。明日も仕事、早いんだろ?」

「あ、うん、まぁね」

 あ、また嘘を吐いた。今度はもっとハッキリとそう感じた。

「そっか。じゃ、俺ももう帰って寝るから、またね。おやすみ。ごめんね、疲れてるところに、意味もない電話しちゃって・・・。酔っ払いの戯言たわごとだと思って許してね。・・・じゃ、おやすみなさい」

「・・・うん、おやすみなさい。ヒロくんも気を付けて」

 電話を切った時、指先の震えは既に止まっていた。

 心のどこかで予想していたのとは違い、俺は涙も流さなかったし、叫んだり、走り出したりしたいという衝動も起こらなかった。

 そして、勿論、アルコールなど一滴も飲んでいない俺は、そのまま真っ直ぐに自分の住むアパートの部屋に帰った。

 シャワーを浴び、煙草に火を点け、それからいつどこで買ったかも忘れた安いバーボンをグラスに半分ほど注ぎ、深呼吸をしてから、そのグラスを一気に空けた。

 喉が焼ける。そして、煙草の煙がやけにみる。

 これも予想に反して、俺はベッドに倒れ込んだ瞬間に、眠りに落ちた。夢さえ見ることは無かった。

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