亡くなった妻が駅のホームで線路の方に引きずり込もうとしてくる件。

黒猫虎

短編


       1



 俺の名前は鱒留ますどめ一空いっくう。32歳。独身。


 ちなみに、元々は結婚していた。

 離婚したわけではない。

 ただ、妻に先立たれてしまったのだ。半年前。


 不治の病とか、事故とかではない。

 ある日、急に倒れて、そのまま逝ってしまったのだ。彼女の職場で。

 30歳という若さで。


 妻とは結婚生活3年目だった。

 子どもは無し。

 こんなことになるなら、子どもを作っておけばよかった――――。





       2



 亡くなった妻の口癖は「浮気したら殺す」だった。


一空いっくんが浮気したら、一空いっくん一空いっくん一空いっくんからバイバイしちゃうんだよ」

「その上で、一空いっくん本体もこの世からサヨナラしちゃうんだよ」

「ワタシのテーマソングはC○cc○ちゃんの『カウント○ウン』だからね」



 ――ちなみに、C○cc○の歌『カウント○ウン』を知らない人の為に説明すると、『浮気した男を女が拳銃で撃ち殺す』という事を歌っている歌だ……。



 そんな妻は良く俺に言っていたものだ。


一空いっくん、ワタシが先に死んでも、新しい女作ったり、再婚したりしたら許さないんだからね――――」





       3



 俺の仕事はIT系のいわゆるプログラマーという職業だ。

 完全な社畜だ。

 特に妻を亡くしてからは、仕事に打ち込むしかなかったから、とにかく残業した。

 使うアテも無い残業代を稼ぎまくった。

 その内、会社は俺の残業代をケチる為に、俺を管理ポストに就けてきた。

 それでもひたすら残業をして、毎日の帰宅時間は日に日に遅くなるばかりだった。



 そんなある日。


 仕事が終わった俺は、家に帰ろうと駅のホームで電車を待っていたのだが……。

 ふと左側にとても恐ろしい雰囲気を感じたのだ。


 恐々とそちらを見ると――――

 そこには亡くなった妻が立っていた。



 というのは少しおかしな言い方か。

 左側には誰も立ってなどいない。

 誰も見えてやしない。

 しかし、俺には分かるのだ。

 その見えない空間に、俺の亡くなった妻がいることを。



 その空間は、何も見えないが、ほんの僅か周りよりも明るさが1ルクスから数ルクスは低い。


 ――いや、ルクスと言われても――だって? 確かに。

 俺だってルクスとか言われても、明るさの単位と知っているだけで、1ルクスがどれくらいの明るさかは分からない。


 とにかく、その空間は周りよりも明るさが少し暗いんだ。

 そして、とても寒気がする。

 嫌な予感と悪寒がする。

 背中から頬にかけて鳥肌が立つ。


 そんな恐ろしい雰囲気だが、俺は分かる。

 俺の妻だと。

 今も家にいる俺の亡くなった妻と同じ雰囲気を感じるのだ――――。





       4



 妻が亡くなって、慌ただしく葬儀を済ませ(俺も妻も天涯孤独の身だったので、個人葬で済ませた)、生命保険の手続きを終え、そろそろ仕事に復帰しなくてはと考えていたあの日――妻が亡くなって1ヶ月位だったろうか。


 ――部屋の中を人が歩く気配を感じたのは。



 正直、最初は泥棒かと思ったものだが、その内、これは見えない何かだと思うようになり、そしてこれは『霊』だと思うようになるのには、そう時間は掛からなかった。


 ――俺はそれまで霊感なんて無かったのに……。



 それから、恐怖の日々が始まった。


 何やら頻繁に黒い影が部屋を歩き回る。

 仕事から家に帰ると勝手に食卓に出来立ての料理が並んでいる。

 テレビを見ていたら勝手にお笑い番組にチャンネルを変えられる。

 寝ていたら右半身だけ腕枕をする体勢で金縛りに遇う。

 その体勢で固まっていると右腕に何やら得体の知れない重さを感じる。



 ――うん? これ妻じゃん?



 話したりの意志疎通そつうは出来ないが、これは妻だと思う。

 お笑い好きなところとか、得意料理とか間違いない。

 妻だと気づいてからは、多少怖さはうすれた。


 でも、部屋の中に暗いシミが湧き出る様な登場の仕方は、心臓に悪いので出来るだけひかえて欲しい……。





       5



 そんなある日、俺は気づいた。

 妻の狙いは、俺が油断したところを電車にかせようとしているのだという事に。



 仕事に疲れた俺は地下鉄のホームの壁側近くの柱にもたれて電車を待っていたはずだった。


 ――気づいたら、線路側に少し近づいていたのだ。



 最初はほんの少し。

 それが一日一日、ジワリジワリと線路側に近づいている気がする。


 そして気を取り戻した時、妻の気配がすぐ近くにある気がする……。



 あの黒いシミは…………。




 やはり妻だ。





 自分の妻を見間違おうはずが無い。






 昨日はあと3メートル。







 今日はあと2メートル。








 明日は……?









       6



 翌日、俺は昼休みの時間を利用し、会社の近くにある神社に立ち寄った。

 ビル街の中にひっそりとたたずむこの神社の事は前から存在を知っていた。

 無人であり、確か御守りも販売していたはず……。


 果たして、俺は目的だった厄除やくよけの御守りを六百円と引き換えに手に入れる事が出来た。



 そして、妻にバレない様、密かに霊に効くモノがないかとインターネットを調べたところ、ミネラルの多く含まれた天然塩がいいと書いてあったので、少しお値段のする沖縄の海の塩を手に入れ、小分けの袋に入れて胸ポケットに常備する事にした。




 今日、帰りの駅のホームに妻が現れたら、俺は――。






       7



 仕事を早めに終え、俺は駅のホームの線路から離れた壁にほとんど張り付く様に立っていた。




 ポポン♪


「――間もなく次の電車がホームに参ります。危ないですから白線の内側に下がってお待ち下さい」



 ファ――ン



 警笛を軽く鳴らし、電車がホームに入ってくる。

 その時、俺の視界の隅では黒いシミが湧き出し始めていた――。


 俺は胸ポケットから塩を取り出して右手の中に握った。

 左手には厄除けの御守りを握りしめる。



 黒いシミはやはり、自宅でも感じる妻の雰囲気をまとっている。



 ――いや、本当にこれは妻なのだろうか。

 ――もしかして、妻と思い込まされていた?

 ――本当は只の悪霊あくりょうなのでは?



 黒いシミの様なモヤが俺の左腕に近づきまとわりついてきたところで、俺は秘密兵器を妻と誤解していたモノ丶丶に振り掛ける。

 ソレ丶丶が塩に少しひるむようにした。

 厄除けの御守りを握りしめながら、口の中で小さく何度もとなえる。


「悪霊退散悪霊退散悪霊退散……」


 恐ろしげな雰囲気を漂わせ始めた黒いシミ、モヤから逃れるように周りを見渡すと、優しげな白く明るい光が見えた。

 こちらに逃げてこい、と手招きをしているようだ。

 俺はとっさにそちらに向かって逃げようと、震える足を踏み出した。























 チリチリチリチリ


 前髪が何かにこすられている。












 ビョオオォォォオオオオオ


 激しい風が頬に強く叩きつけられる。












 ファ――――――――――――――――ン!!!!


 激しい警笛が鳴っている。













 俺の前髪をこすっていたのは、目の前数センチを高速で通り過ぎる電車の車体だった。


 俺の頬を激しく打つ風は、電車の巻き起こす風だった。

 その風は、背中から俺の体を車体の方に強く押してくる。













 しかし、俺の左腕を何かが引っ張っていて、電車に飛び込むのを防いでいた。

 左腕を見ると、黒いモヤが俺の腕にしがみついている様だった。



 そして、俺が逃げようと目指していた白い光は、俺の目の前を走り抜ける電車とホームの隙間から、俺を手招きをしている無数の白い腕だった。






「ヒェッ――――――――」






 俺の喉から情けない声が漏れた。






 電車とホームの隙間から覗く、白い腕の持ち主達の表情は、どれも不満顔だ。

 その内の一人、若い女性の霊が「次はちゃんと飛び込む様に」と言わんばかりに、ニヤッとわらった。





 俺はそこで気を失った――――。








       8



 気がつくと、俺は駅の救護センターで横にさせられていた。








 あれから駅のホームで、気がついたら線路側に近づいているという事は起こらなくなった。

 黒いシミやモヤも駅では出てこなくなった。


 念のため、あれからも沖縄の天然塩を小分けの袋に入れ、常に胸ポケットに忍ばせている。





「ただいま――」






 今日も無事に家に帰ってこれた。








 食卓の上には温かい夕食が並べられている。


 テレビのスイッチを入れる。


 しばらくすると、勝手にチャンネルが切り替わる


 ――もちろん、お笑い番組だ。


 ソファに座る俺の左側に黒いシミが湧いてくる。






 俺が別の女と関係を持とうとした時、きっとその時こそ俺は妻に殺されるのだろう。

 俺はその時を思い、おびえる日々を過ごしている。




 ――――夕飯は美味いが……。


 ――――あと、右腕の筋肉痛が困る……。





 ~fin~






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亡くなった妻が駅のホームで線路の方に引きずり込もうとしてくる件。 黒猫虎 @kuronfkoha

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