第26話

 その日上手く眠ることができなかった。眠ろうとしても、頭の中で不安や苦しみが渦を巻き、眠りを邪魔した。

 俺は彼女と心の奥底で深く触れ合うことができなかったのだろう。それは俺の臆病のせいでもある。傷つき合うことを、傷つけ合うことを最後まで避けようとしてしまったのだ。彼女に全てを曝け出すことができなかった。彼女の全てを知ることが怖かった。

 彼女が泥水の中にいるなら、俺もそこに飛び込むべきだったのだ。手を差し伸べるだけでは足りなかったのだ。彼女と分かり合うためには、自分も痛みを知るべきだった。人の痛みは結局人のもので、自分が誰かの痛みを思うためには、自分も痛みを経験している必要があるのだろう。

 俺は彼女と痛みを共有しなければならなかったのだ。

 俺は痛みを知ることを避けてきたし、他者の痛みを知ろうという努力を怠った。それは俺の責任である。痛みを知らなければ、人に優しくすることはできない。俺は人に優しくなかったのかもしれない。今までの優しさは、人間関係を円滑にするための道具に過ぎず、本当に他者を思いやっていなかったのかもしれない。

 そんなことを、今更ながら、思った。

 いつの間にか眠っていた。


 次の日は月曜で、大学がある。休もうかと思ったが、行ってみることにした。姉に心配をかけたくないということもあった。でも、

「何かあった?」

 と姉に訊かれた。姉は鋭いところがある。いや、単に俺が隠し事をするのが上手くないだけかもしれない。

「何もないよ」と俺は言った。姉は、そう。と言ってそれきり黙り込んだ。

 そういう部分が、俺の弱さである。人に弱さを見せられない。


 大学で講義を受け、昼休みになると、そのまま教室で眠った。次の講義ではこの教室を使わないようだった。

 起きた時、少し涙が出ていた。夢を見ていた記憶はないが、何か見ていたのだろう。そしてそれはきっとあまり心地の良い夢ではなかったはずだ。

 時計を見ると、14時だった。そろそろここを出なければ。そう思い、鞄を取って、外に出た。

 次の講義の教室に向かっていると、学生が数人集まり、政治に関するスピーチを行なっていた。何だか自分がひどくちっぽけな人間に思えた。彼らは高尚で、俺はとても卑俗な人間だという気がした。本当はそんなことはないのかもしれないけれど。でも、そう思ってしまった。

 教室に入ると、柊さんがいた。今期は同じ講義を取っていないはずだが。訊くと、

「取っている講義が突然休講になっちゃったから、もぐりで同じ講義を受けてみようと思って」ということだった。

 牛丸に悪いという気がした。何だか気まずい感じがした。

 講義は100人規模で行われるものだったし、出席を取ることもないため、もぐりで受けている学生も多いようだった。教授は学生に無関心なようで、どんどん講義を進めていった。学生たちは講義についていくので精一杯だった。でも非常に面白い講義だった。

 柊さんも、

「難しかったけど、面白かったね」

 と言っていた。それは良かった、と思った。


 俺が教室を出ると、柊さんもついて来た。

 少し話そうよ、と、躊躇いがちに言われた。

 無碍にはできなかった。

 柊さんと色んな話をした。ほとんど彼女が一方的に話していたが、俺もいくつか自分について話した。幼少期のことや、好きなものについて。彼女は人懐っこい性格のようで、俺の心の壁を易々とすり抜けた。

 何だか心地の良い感じがした。同時に罪悪感のような感覚も、ないではなかった。

 俺はまだ彼女のことが好きなはずなのに、どうしようもなく柊さんに惹かれてしまっている。柊さんから好意を向けられているからだろうか。

 俺は柊さんのことが好きなのかもしれない。

 そのことは、俺をひどく狼狽させた。

 どうすれば良いのだろう。

 俺は自分を殴りたいと思った。でもそれは根本的な解決にはならないだろう。

 自分がどうしようもない人間であるという気がした。



 

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