第22話

 夕方。彼女と会う約束をした時間が近付いてきた。緊張する。鼓動が速くなる。頭が回らなくなってくる。どうしようと思う。何度も時計を見る。わけもなく新聞を隅から隅まで読む。でも内容は全然頭に入ってこない。

 姉は買い物に出かけていた。気分転換も兼ねているらしい。俺は姉に彼女の件について話した。彼女から何か話があるらしく、俺はその話がどういう話なのか、とても怖い。そんなことを話し、相談した。姉は俺の話を黙って聞き、まず彼女の話を聞いてみるしかないと言った。その後で何か傷付いたり、問題が出てきたら、あたしに相談しなさい、とも言ってくれた。頼もしいな、と思った。俺は少し心を緩ませる事ができた。

 コーヒーを淹れて、飲んだ。勿論インスタントコーヒーだ。安っぽい味がしたが、牛乳と混ぜるとそこそこ美味しく感じた。少しだけ落ち着いた。

 俺は彼女と出会い、色んな場所へ行った。色んなことを話した。たくさん笑った。時には傷付くこともあった。でも彼女と過ごした日々は楽しく、色彩豊かで、美しかった。俺は彼女と出会い、人と関わる楽しさを学んだ。人の数だけ世界がある。人と交わるということは、世界を広げることだ。俺の世界は少しずつ広がっていった。これからも広がり続けることだろう。そう思えるのは、彼女のおかげだ。俺は元々厭世的な人間だが、彼女と触れ合うことで、悲観的になることは少なくなった。

 触れ合う。心と心で。体と体で。

 俺は彼女とキスをする度、俺は何て幸せなのだろうと思った。きっと俺は世界で一番幸せなのだと思った。それは錯覚だ、それは誤解だ、それはただお前の感覚がそう捉えているだけだ、という自分が頭の片隅にいつもいたが、俺はそんな俯瞰的にものを見ている自分を、彼女といる時だけは頭の中に出さないようにした。時には主観的に物事を捉える事も重要なのだ。

 彼女とキスをする時、俺は自分が鳥になったような気がする。鳥になって、どこまでも飛んで行く。大空を羽ばたく。空はどこまでも果てしない。でも俺はどこまでも行けるという気がする。彼女がいれば、彼女といれば、俺はどこまでだって行ける。そんな気がする。錯覚だろうか。でも俺はその感覚をとても大事にしたいと思う。

 時間が来た。そろそろ出かけなければ。俺は上着を着た。今夜は冷えそうだ。手がひどく冷たかった。鏡を見ると、ひどい顔をしていた。俺は少し笑った。いかにも不幸です、と言った顔だ。

 不幸?

 本当にそうだろうか。まだそうと決まったわけではない。未来は確定していない。姉は人生はきっとハッピーエンドになると言った。俺は今だけでも、姉の言葉を信じたい。いや、信じることにする。人は不幸になるために生きているわけではない。人は幸せになるために生きているのだ。

 きっとそうだ。だから、多分、大丈夫だ。

 そう自分を励まし、アパートを出た。


 冬が近い。風はどこまでも冷たく、俺に対する試練のようだ。俺をこの世界に見合う人間なのかどうか、試しているのだろうか。そうだとすれば、俺はこの寒さに耐えなければならない。俺はこの世界でやる事がある。やりたい事がいっぱいある。やらなければならないことも多くある。まだ死ねない。まだ生きたい。・・・考えすぎである。

 彼女との待ち合わせは、彼女の寮(彼女は大学の寮に住んでいた)と俺の家の中間地点にあるコンビニだった。俺のアパートと彼女の寮は結構な距離がある。俺と彼女の通う大学が違うためだ。歩いて行けない距離でもないが、できれば歩いて行くのを避けたいほどの距離だ。でも今夜は歩いて向かうことにした。歩くと何だか心持ちが軽くなるような気がするからだ。イヤホンで曲を聴き、ひたすら歩くことに集中した。余計なことは考えないようにした。今日は街明かりがやけに眩しく、煩わしい。俺に何を言いたいんだ。街明かりは俺を責めているようで、俺は狼狽した。

 考えすぎた。

 考えるな。

 でも何も考えないというのは意外と難しい。でもまあ、考えないということを考えるのも何だかおかしな話だ。考えないを考える。頭が痛くなってきた。

 ロックやジャズやクラシックが俺の鼓膜を震わせた。俺は音楽をそこまで熱心には聴かない。今日聴いているのは姉に借りたウォークマンから流している音楽だ。姉らしく、様々な国の、様々なジャンルの音楽が気の向くままに収録されていた。全く聴いたことのないジャズが流れたと思えば、次には流行りのポップスが流れた。昔懐かしいアニソンを楽しんでいると、突然激しいロックンロールが鳴り出して驚いたりもした。まるで子供の玩具箱である。その箱にはその時好きなものを適当に入れてあった。何が飛び出すか、開けてみるまで分からない。玩具箱というよりびっくり箱と言った方が正確かもしれない。

 歩くスピードが、知らず知らずに上がっていた。気が急いている。焦るな。頭が混乱してきている。落ち着け。

 コンビニの光がいつもより強く感じられた。何だかよそよそしい。世界が俺を拒んでいるかのようだ。・・・いや、錯覚だ。


 コンビニに近付いて行くと、彼女の姿が見えた。

 彼女はコンビニの外で待っていた。

 他人行儀な雰囲気があった。

 少し、寂しく感じた。

「やあ」

 乾いた声で俺がそう言うと、

「うん」

 と彼女が言った。そして、

「今日は、大事な話があって呼んだの」と言った。

 彼女は俺の目を見た。俺にはいつもと違う彼女の瞳が、怖くて、切なくて、思わず目を逸らしてしまいそうになった。でも逸らさなかった。あるいは逸らせなかったのかもしれない。

「私、君に隠していた、というか、あえて言っていなかった事があるの」

 2人の間を、風が通り抜けた。強い風だった。

「今日は、これまで君に話していなかったことを全部伝えようと思う」

 彼女は今にも泣き出しそうに見えた。

 

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