第20話

 日曜の朝、二日酔いの頭で子供向けのアニメを見ていると、これを見てた頃は気楽で楽しかったなあなんて思った。朝から憂鬱だ。大人になると憂鬱を覚えるということなのかもしれない。

 そのアニメは勧善懲悪の物語で、構造も登場人物も単純だった。世界がこのように分かりやすかったら、こんな風に人間関係が簡単なものだったら、と思った。朝から疲れすぎている。

 姉は、ベランダで煙草を吸っていた。俺もベランダに出た。

「煙草、やめたんじゃなかったの」俺は言った。

「昨日までね。急に吸いたくなったのよ」少しぶっきらぼうな口調で姉は答えた。

 煙草の煙をふうっと空に吐き出すと、姉はこう言った。

「人生って色んな人が色んなものに例えているけど、あたしイマイチどれもピンとこないのよ」

「はあ」姉が人生を語るとは珍しい。

「人生って結局誰も分からないものなんじゃないかしら。死ぬ瞬間でさえ不可解なまま終わるんだと思う。俺は何のために生きている?俺の人生は何なのか?きっと誰にも分からない」

 あるいはそうかもしれないと思った。人生なんて複雑すぎて、壮大すぎて、理解できない。理解する暇もない。だって人生はこの瞬間でさえも流れていくものなのだから。情報量が多すぎるのだ。

「あたしこれからどうすればいいんだろうね」

 俺は驚いて姉の顔を見た。姉から弱音を聞いたのは初めてだった。姉も人間なのだと改めて分かった。姉も悩むことがあるのだ。先日そのことに気付いたはずなのに、俺は驚いてしまった。姉も悩みを抱えているのだ。

 よく考えてみれば、当たり前のことだ。

 でも、俺たちはその当たり前を、いつも簡単に忘れてしまう。

「俺にも分からないよ。俺も迷っているし」

「迷いながら生きるのが人間なんでしょうね」

「さあ。猫や犬も迷うことがあるんじゃないか」

「動物と話せるの?」

「全然。ただの推測だよ」

「あたしある国で動物と話せる人に会ったのよ」

「本当?どういう感じだった?」

「ガタイの良い髭がもじゃもじゃのおじさんで、歯が全部黄色なのよ。いつも汚れたウィンドブレーカーを着ていた。それでいつも散歩している猫や犬に話しかけるのよ」

「飼い犬とかでも?」

「勿論。飼い主も近所の人だから慣れっこで、またか、って感じなのよ」

「またあのおじさん話しかけてるよ、みたいな」

「そう。別に誰もそのおじさんを責めたりしないし、もう皆迷惑とも思っていない。またあのおじさん動物に話しかけてるよ、って近所の人は笑っているくらいなのよ」

 姉は煙草を吸い、煙を吐いた。

「誰もそのおじさんを爪弾きにしないの。まあその国の人が全部そうなのかは分からないけれど。あたしがそのおじさんに会ったのは田舎の方だしね。でもまあ、その町の人は皆おじさんを仲間だと思ってた。こういう人だから仕方がないよって」

「そうか」

「この街はどうだろう。少し窮屈だと思わない?あたしだけがそう感じているのかな。誰もが常識に囚われて、寛容さを失っているように感じる。広い心はどこへやら」

「一丁前なこと言うじゃないか」

 姉は笑った。

「あんた、やっぱり変わったわよ。きっと良い方向に」

 そうだろうか。

「きっとこれから色んな事があると思う。でも、最後には必ずハッピーエンドになる。人生ってそう言う風にできているから」

「本当に?」

「さあ。人生って誰にも分からないわよ」

「適当だなあ」

 俺たちは笑った。笑い合ったのは久しぶりな気がした。

「もう俺に嘘を吐くのはやめてくれよ」

「・・・うん」

 いつになく真剣に空を見上げる姉を、もう一度信用しても良いという気がした。

 あるいは俺は人に甘すぎるのかもしれない。

 でも人生は短い。人に甘く自分に甘く。時に厳しく。そうやって生きていくのが正しいのだ。

 僕らは弱い。誰ひとりとして強い人間なんていないのかもしれない。誰もが何かに怯え、誰もが悩み苦しんで、今を必死に生きている。皆余裕がない。だから他人に優しくなれない。自分が弱いから、人に酷いことをしてしまう。弱さが、やがて他者を傷付ける行為に発展する。きっと彼らは弱いだけなのだ。精神的に病んでいるだけなのだ。俺たちは彼らに対しても寛容であるべきか?おそらくそうだろうと思う。人を殴るなんて最低な奴だ、と一蹴するのではなく、彼らの背景にあるものに目を向けるべきなのだろう。勿論寛容さにも限界があって、人を殴るとか、蹴るとか、そんなことはとても許せないけれど、でも、それでも、俺たちは彼らから目を背けるべきではないし、ある程度の寛容さを持って彼らを癒してあげるべきなのだろう。話を聞くべきなのだろう。

 多分。

 

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