第10話

 心臓は強く脈を打ち、冷や汗が頬を伝った。口は渇き、目も霞むようだった。不安が俺を襲い、頭がおかしくなりそうだった。一体俺の周りで何が持ち上がっているのだ?足が震え、恐怖すら感じた。

「何、話って?」

 できる限り冷静な口調でそう言った。まさか、と思った。最悪な事態が俺の頭をよぎり、どうしようという困惑があった。様々な感情が俺を掻き乱していた。

「うん。少し話しにくいことなの」

 話しにくい。そうか。そういうことか。いや、まだ決まったわけではない。いや、しかし。

 俺はひどく狼狽しているのだと自分で認識することができる瀬戸際の状態にあった。

「実は・・・いや、ごめん。今は話せないや」

「ど、どういうこと」

「ごめんね。また連絡するから」

 彼女は夜の住宅街を駆けていった。俺は1人残された。頭はまだ混乱していて、彼女を追いかけることができなかった。俺は、俺は。


 結局1人とぼとぼと住宅街を歩いて帰った。何が何だかわからなかった。何をどうすれば良いのか、とにかく頭が混乱していた。もう眠ってしまおう。

 アパートに戻り、適当に飯を作って食べ、呆然とラジオを聞いていた。彼女からは謝罪のメールが来た。後日話をしようということだった。俺は承諾のメールを送った。何も考えられなかった。例えば彼女がいなくなってしまうとしたら。そう考えるだけで涙が出そうだった。胸が締め付けられるようだった。

 眠ろうとベッドに入ったが、眠れなかった。むしろ目が冴えてきた。俺はベッドから起き上がり、本棚から本を取り、読むことにした。しかし内容は全く頭に入ってこなかった。映画でも観ようかと思い、テレビをつけようとしたところでテレビが壊れていたことを思い出した。結局ラジオをつけ、ベッドに入ったまま、知らない音楽を聴き、その解説を聞いた。何でも解説してくれる時代だ。いつか俺の心模様も誰か解説してくれるだろうか。

 目を瞑り、音楽に耳を澄ませた。心に一陣の風が吹き、俺を遠くの知らない場所へと飛ばした。知らないはずなのに懐かしい感じのする風景が眼前に浮かび、そして、俺の心を洗い流した。俺はいつの間にか眠っていた。

 

 その夜、こんな夢を見た。

 俺は暗闇の中に立っていた。前後も上下も感覚がなく、自分がどこにいるのか、自分はどこに向かえば良いのか全く分からなかった。何かを言おうとしても、声が出せなかった。体も動かなかった。その空間では音も、光も、何もかもが失われているようだった。時間の流れさえ、失われているようだった。完全なる暗闇。俺は叫び出したい気持ちでいっぱいだった。泣き出したい気持ちでいっぱいだった。でも涙を出すことも叫ぶこともできなかった。誰か、誰かいないのか。目を開けているのか閉じているのかさえ分からなくなってきた。

 もうだめだ、と思い出した時に、空間の壁が少し剥がされた。そこから光が、微かな光が漏れ出した。手が、その穴から出てきた。一体誰だ。わざわざこんな暗闇にまで、来てくれるなんて。

 誰だ。

 そこで目が覚めた。

 

 朝起きると汗をかいていた。何か悪夢でも見ていたのだろうか。さっきまで夢を見ていたような気がするのだが、思い出せない。なぜ人は夢を忘れてしまうのだろう。夢は時に本人も忘れてしまった重要なことを語ってくれているというのに。

 忘れた夢を思い出そうと必死になっても仕方がないので、朝食を作ることにした。飯を作っている時には嫌なことを思い出さなくて済む。趣味とは人生の辛さから目を背けるためにあるのかもしれない。俺は料理は趣味というほど熱心にやっていないが。


 大学に行き、講義を受けたが、あまり内容は入ってこなかった。一応のノートは取っていたが、読めたものではなかった。

 昼に学食に行くと、やはり混んでいた。並んでまで食べる気分にはなれなかったので、今日は別のところで昼食を済まそうかと思っていたら、後ろから肩をとんと叩かれた。振り返ると、文学部の彼がいた。奇遇だねえ、と彼はいつもの口調でそう言った。


「やあやあ、すまないねえ。今月、僕あまり金がなくてさ。県外に出てたりしたから。宿泊費やら交通費やらが嵩んでねえ。まあ、彼女に会うためだから僕は痛くも痒くもないが、やはり懐は寂しいし、薄くなった財布を見るのは見るに堪えないね」

「まあ、そうだな」

「おや。どうしたんだい?浮かない顔をしているじゃないか」

「色々とあってね」

 俺たちは大学の近くにあるファーストフード店に来ていた。店はそれなりに混んでいて、学生が多かった。新入社員らしき人や、お年寄りが複数で来ていたりもした。

 俺はチーズバーガーのセットを頼み、彼は照り焼きバーガーを単品で頼んだ。

「それで足りる?良かったら俺のポテト食べても良いよ」

「遠慮します、と言いたいところだけれど、もらうことにするよ。流石に足りなさそうだ」

「残り全部あげるよ」

「すまないねえ」

 彼はポテトをむしゃむしゃ食べた。美味そうに食べるなあと思った。

 俺はコーラを飲み、呼吸を整えると、彼に相談をすることにした。

「何でも言ってよ」

 頼もしいなあ、と思った。


 俺は姉がアパートに来たこと、失踪したこと、姉の彼氏と会ったこと、彼女から何か話があるらしいことなどを、できるだけ正確に伝わるように話した。その間、彼は相槌を打っていた。

「成る程。それは混沌としているね」

「でも君に話すことである程度整理はついた気がするよ」

「それは良かった」

「状況を整理できてもどうすれば良いのかは全くわからないがな」

「君のお姉さんはその彼氏さんから逃げてきたのかな?」

「そうかもしれない。両方俺とは全く異なった思考形態を持っているようだから、どこまで推測が成り立つのか、正直微妙なところだが、まあ、普通に考えるとそう捉えられると思う」

「だとしたら君のアパートにはもう戻ってこないだろうね」

「そうだな。洲鳥さんはもう俺のアパートを知ってるし。しかし姉はどうやって洲鳥さんが俺の家に来るかもしれないと察知することができたんだろう」

「その洲鳥って人は君の姉さんが忘れていった手紙を見て住所を知ったんだろう?だとすれば、君の姉さんは君からの手紙を忘れていったことに気がついたんじゃないかな。そして考えた。もしかすると彼氏が来るかもしれない、と」

「成る程。それはあり得るな」

「でもこの先どうするんだろうねえ。逃げ切ると言っても、あの彼氏さん、執念深そうなんでしょ?」

「かなりね。自信家でもあるし」

「そうだとすれば、事態はかなり厄介なんじゃないかな。ゴールがない。ただただ逃げ回るしか術がないのだとしたら、最終的な落とし所はどこになる?あまり得策とは言えなさそうだよ」

「でも話し合いで解決できそうにもないけどな」

「それでも話し合うべきなんだよ、きっと」

「そうかな?」

「そうだよ」

 しかし姉に連絡が取れない以上、俺ができることはあまりなさそうな気がした。ここでこれ以上議論しても、推測の域を出ないし、現実的には洲鳥さんに接触することしかできない。

「洲鳥さんにもう一度会うか」

「それが一番じゃないかな。話し合って、どうにか解決をつける」

「どうなんだろう。気が進まないし、難しいなあ」

「苦手なんだね、洲鳥さん」

「そうだな。あまり会いたくない」

 どうして俺は洲鳥さんにそこまで苦手意識を持っているのだろう。俺と真逆の人間だからかもしれない。積極的で、自分に自信がある。多弁で、人が隠していることを見抜いたりもする。案外、彼は観察眼に優れているのかもしれない。何から何まで俺とは反対の性格をしている。姉ともどこか異なるタイプだ。

「何だか面倒臭い事態になってきたな」

「そうみたいだねえ。問題が一つでも重いというのに、今の君はもう一つ問題を抱えているんだろう?」

「まだ問題と言えるほどのことかは分からないけどな」

 昨日、彼女が意味深な台詞を吐いて、夜の住宅街に消えていった。メールで後日話すと謝罪が来ていたが、一体何の話なのだろうか。予想がつくような気もしなくもないが。

「これまで彼女さんが秘密にしていたこととかあった?」

「どうだろう。ないような気がするけど」

「君は鈍いところがあるからなあ」

「そうらしいね」

 俺が鈍いのだとすれば、俺の予想も外れているのだろうか。外れてるといいな。

「話、ねえ。やはり他に好きな、とか、いや、これは無粋かな」

 彼は歯切れ悪そうにし、残っていた照り焼きバーガーを全部食べた。


「嫌だな。何もかも」

 俺は心からそう呟いた。

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