第6話
「ミノル、まだこんなとこで暮らしてるの?早く別のとこで暮らしなさい」
「ここが好きなんだよ。良いじゃないか別に」
今日姉が帰国した。彼氏とは別れたらしい。そのせいか、いつもより苛立っているようだった。
「こんなとこで暮らしてるからあんた彼女の1人もできないのよ」
「彼女ならいるよ」
「大体ねえ・・・今何て?」
「彼女はいるよ。2年位前から」
姉はこれでもかというくらいに目を見開いた。流石の俺でも分かる。これは驚いている。
「な、あんた、2年もあたしに彼女がいること黙ってたってこと?」
「別に言う必要ないじゃん」
「な」
おそらく怒っている。いや、確実に怒っている。何故だ。言う必要がないのだから仕方がないと思うのだが。
「そういうとこ、父さんに似てるのね」
確かに父は秘密主義的なところがあった。寡黙で、必要最低限のことしか口にしなかった。父が冗談を言っているところを見たことがない。でも別に笑わない人ではなく、人から聞くジョークには微笑んでいた。
姉は今日の朝突然俺のアパートに訪ねてきた。姉は事前に連絡を寄越したりしないし、約束なんかも平気で破る、というより忘れてしまうタイプなので、突然部屋に来ても、特に驚きはなかった。おそらく主観でしか生きられない人なのだろう。個人的には姉は芸術家タイプなところがあると思っている。実際、学生時代はバンドを組んでいて、そこそこ人気があった。何曲か楽曲を制作して、CDを作り、友人や知人にあげたりもしていた。俺もそのCDを貰い、というか強引に渡され、強制的に聞かされて感想を求められた。良かった点を何点か述べたのだが、お気に召さなかったらしく、感想を言っている間は無言でただただ睨まれていた。
俺の4つ上なので、大学は卒業しており、今はライターをしながら放浪のような生活をしている。友人は多く、すぐに人と打ち解ける。俺とは全く正反対のタイプだ。音楽が好きで、よく音楽の話をしている。好みはイギリスのロックらしく、姉が高校生の時に家族の誰にも内緒でバイトをし、1人でイギリスに行きコンサートに行った時は捜索願いを出す寸前にまで事が大きくなりかけた。とにかく自分がやりたいと思えばすぐに行動する人なのだ。しかし全く向こう見ずなわけでもなく、いつもそれなりに現実的な計画を立てて行動している。俺はいつも珍奇な生き物を見るような目でこの姉を見ている。何故同じ家で暮らしていたのにこんなにも性格が異なっているのか・・・誰かに明らかにしてもらいたい。
「1ヶ月くらいここに住むから。次の放浪の資金が貯まるまで、ね。その間にあんたの彼女の話、たっぷり聞かせてよね」
そんなに気になるのか?姉がここまで関心を持つとは思わなかった。
・・・言わなければ良かった。
「じゃあ俺、バイトがあるから」
バイトに行くには少し早かったが、姉に色々と訊かれる前に、外に出ようと思った。
日曜は誰にとっても素晴らしい日であると疑っていなかったのは小学生までだ。日曜も働いている人は当然いて、日曜でも苦しんだり悲しんだりしている人はいる。中学生になりその事実に行き当たり、俺の主観はこの世界の一側面を映しているに過ぎないということを悟った。それから誰の目にも明らかなことを好きになっていった。客観的にものを見れるようにしたいと思った。でも、やはり自分でものを考えてもそれは結局自分だけのものだという意識は拭えない。俺は数学や科学に救いを求めたが、本当は文学に向かうべきだったのかもしれない。最近小説を読むようになってそう思うようになった。
バイトに行くには少し時間があるので、俺は近所の公園のベンチに腰掛け、文庫本でも読みながら時間を潰す事にした。
その公園はかなり広さのある公園だが、住宅街を横断するように横に広がりを持っている公園で、上から見れば少し蛇行した一本の大きな川のように見えるだろう。遊具が充実していて、それなりに遊ぶことができるが、サッカーをするには適さないため、あまり人気はないようだ。ベンチは5脚ほどあり、小さい東屋も2つある。ピクニックするにはつまらない場所だが、ちょっと休憩するためにはなかなか最適な場所である。何より人気がなくて静かだ。
『月と六ペンス』を読みながら芸術とは何だろうと思った。俺は絵を観るといつも困惑してしまう。一体何が言いたいのか、どこをどう読み取ればいいのかわからず、いつも混乱し、何が何だかよくわからないまま妙な感覚だけが残って気持ちがふわついたまま終わる。要するに感受性がないのだろうか。風景画を見れば綺麗だなあ、とか、上手いなあ、とか、そういった感想は出てくるのだが、抽象画や印象派の絵画はいつもよくわからない。芸術方面に対する感性が身につくのはもうちょっと先のことかもしれない。最近興味は湧いてきたので、いつか絵を見て圧倒されることもあるのだろうと思う。彼女は芸術にもある程度詳しいので、美術館を巡りながら色々と教わりたい。
そうこうしている内にバイトの時間が迫ってきた。腰を上げ、伸びをし、空を仰ぐ。空はどこまでも青く、果てがないようで、俺の遠近感を狂わせる。俺は今どこにいるのだろう?勿論、俺は地球にいて、日本にいて、家の近所の公園にいる。でもそれはとんでもない奇跡のような気がする。本来ありえないはずの現実に俺は存在しているのだという感じがする。空が俺に語りかけるようだ。お前はどこに行こうとしているのだ、と。
微視的に見れば、俺はバイトに行く。巨視的に見れば、その答えは未だ分からない。一生かかっても分からないかもしれない。人生は俺にとってどこまでも謎で、世界は不思議で満ち満ちているように感じた。
バイトが終わる頃には夕暮れになっていた。俺はこの夕暮れをあと何回眺められるのだろう?もしかしたら俺は明日死んでしまうかもしれないし、太陽は明日消滅してしまうかもしれない。何とも馬鹿らしい想像だが、そう考えると夕焼けがより一層切なく見えた。俺が詩人だったら名作を生み出せるほどの心の動きを感じたが、あいにく俺は詩的な表現を思い付けなかった。
オレンジ色は暖かくて、俺の心をどこまでも癒してくれるようなのに、何故ここまで胸を締め付けるのだろう?何故郷愁を誘われるのだろう?もう一度胎児からやり直して永遠に生き続けたいと、ふと思った。でもきっと、不老不死など悲劇以外の何物でもないのだろう。この人生に終わりがあるからこそ、自然の一瞬の煌めきに動揺するし、人を愛したいと強く思うこともある。この世の現象一つ一つに、心の一挙手一投足に、大切な人の言葉に、目を耳を凝らし、ずっと胸に刻みつけよう、覚えていようと思う。今この瞬間にも素晴らしい時間は流れていて、そして一刻一刻時間は死んでいく。誰もが死へと歩みを進め、誰もが幸せを追い求めている。信念を、惰性を、それぞれに抱えながら、時に苦しみながら、それでも生きている。俺は生きたいと思った。これから辛いことも悲しいこともあると思う。でも、生きたい。この先どうなるのか不安だし、自分を好きになれない部分も多いけれど、愛しい人々とともに、苦難を乗り越え、その先にあるはずの景色を共に見たい。ーきっと人生の意味はそこにある。
ここまで考えて、俺は案外文学的な人間なのかもしれないと思った。これまで理系の道しか考えていなかったが、進路を見直しても良いかもしれない。
家に帰って彼女に電話をかけようと思ったが、家に姉がいることを思い出し、どうしようと思った。姉に電話内容を聞かれるのはとてつもなく恥ずかしい。絶対姉は電話内容を盗み聞くだろうし。どうしようか。彼女との電話は長電話になることが多いし、ううむ。
今日は彼女はゼミの研修があるらしく、会っていない。彼女は法律学部に属していて、公務員になるため色々と頑張っているようだ。そういった彼女が頑張っているという話を聞くたびに、俺は何をしているんだ、と、自己嫌悪にも似た気持ちが生じるが、落ち込んでいる場合ではないと思い、俺も努力しようとその度思う。俺は怠け癖があるので、彼女に叱咤激励されながら、何とか頑張っている。でも最近は努力の方向性が分からなくなってきて、迷っているのだが。
帰る道すがら電話をするのが最善だろうと思い、彼女に電話をかけた。しかし彼女は出なかった。忙しいのだろうか。もう7時だ。ゼミの研修が長引いているのか、それとも打ち上げでもしているのか。少し、いや、かなり寂しい思いをしたが、とりあえずとぼとぼ歩いてアパートを目指した。
アパートに戻ると姉はいなかった。どこかに出かけているのだろう。彼女のことだ。一つ所にとどまる事ができない。常に動き回らないと気が済まないのだ。マグロみたいだな、と思った。動かないと死んでしまう。
ちょっと疲れていたので、夕食はインスタントラーメンで済ませた。あまり腹に溜まらなかったが、まあいいか、と諦めた。とにかく疲れているのだ。きっと姉が来たせいだろう。料理を作る気力は失われていた。
ラジオをつけると聴いた事のない音楽が流れていた。俺の知らない世界は無数に存在しているのだと思った。俺の知らないところで世界は動き、あるいは静止している。荒唐無稽で秩序だった世界。不可思議は膨れ上がるばかりだ。永遠に生きても謎は尽きないだろう。
内省的な夜は更け、その夜、姉は帰って来なかった。
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