第5話


 彼と三度目に会った時、人の感情に鋭敏でない俺でも、彼が何か俺に告白するつもりだということが分かった。何かしらの覚悟を決めたようだった。

「時間、あるかい?」

 本当はこの後バイトがあったが、彼の話を優先することにした。


 彼は寮で暮らしているため、大学からそう歩くことはなかった。彼の部屋はそれなりに整頓されていて、時々人を招いているのだろうなと思った。本棚には見た事のない洋書がずらりと並んでいた。

「君、英語できるの?」

「得意ではない。まあ、そこにあるのは飾りみたいなんものさ」

 本を飾りと捉える感性が俺にはなかったので、成る程と思った。でも同時に俺は今見当違いなことを考えているのかもしれないと思った。

 彼はどこから話そうか決めかねている感じだった。少しの間沈黙があり、やがて口を開いた。

「実は僕は斎藤緑雨を読んだことがないんだ」

 別に驚きはしなかった。そうなのか、とだけ思った。

「斎藤緑雨が好きなのは僕の友人でね。彼女から斎藤緑雨についての話を色々聞いてたんだ。そして僕もやがて文学が好きになっていった」

 人が人に与える影響というものは、不思議なものだ。人の人生をいとも簡単に変えてしまう。

「彼女は僕や君と同じ大学に通っているんだけど、休学中なんだ」

 休学。それには様々な理由があるのだろう。俺は出来るだけ推測するのを避け、彼の話を素直に聞こうと思った。

「彼女はアメリカ文学が好きで、大学一年の時に留学に行ったんだ。僕は彼女のことが好きで、告白しようと思ってたんだけど、なかなか決心がつかなくて、結局僕が告白する前に、彼女はアメリカに渡ってしまった。1年間の留学だ。でも彼女は半年で帰ってきた。向こうで色々とあったみたいだ。精神病になって、今も入退院を繰り返してる。僕は後悔した。いや、後悔という言葉は正確じゃないだろう。でもあれこれ考えてしまうんだ。僕が彼女に留学を勧めたから。僕が留学を迷っている彼女の背中を押したから。それは罪の意識に近い。いや、もはやそれは罪なんだろう。僕は誰かに裁いて欲しいのかもしれない。僕には彼女を好きになる資格はない。でも未だに僕は彼女への想いを捨て切れてはいないんだ。もがき苦しんだ。分からない。ああ、もう何もかもが僕には分からないんだ。

 あの落書きは僕が書いたものじゃない。僕の友達で、彼女の友達でもある男が書いたものだ。あれは彼女が書いた高校の卒業文集のタイトルなんだ。白浜夕暮というのは彼女の名をもじったペンネームみたいなものだ。

 だから君があの落書きについて話した時はとても驚いた。心臓が本当に飛び出すかと思ったくらいだ。君にもきっと動揺が伝わったろう?あれは今まで生きてきて一番驚いた瞬間かもしれない」

 彼の目には涙が浮かんでいた。彼の声は震えていた。俺は黙って彼の独白を聞いた。

「すまない。これじゃあまるでドストエフスキーの小説の登場人物みたいだ」

 冗談の意味はわからなかったが、とりあえず微笑んだ。きっと笑って欲しいのだろうと思ったから。

「ねえ、僕はどうすれば良かったのだと思う?」

 これは難しい問題だった。でも俺に言えることは一つだった。

「あの時、じゃなくて、これから、を考えるべきなんじゃないか」

 彼は質の良いジョークを聞いた時のように微笑んだ。でもそれはきっと良い種類の微笑みではなかった。諦めにも似た微笑みだったろう。

「僕はあの落書きの意味をこう解釈した。僕の今までの人生は白紙で、つまり全く無意味で、でも夕暮れはとても美しい。そう、本当は何もすべきではなかったんだ。世界はそのままで完全で、完璧で。僕の方から何もするべきでなかった。僕はいない方が良かったんだ」

 咄嗟に彼の胸ぐらを掴んでいた。

 本当は殴ってやろうかと思った。でもその自信がなかった。

「お前はどこまで馬鹿なんだ。いつまで後ろを向いているんだ。お前は罪だとか後悔だとか色々理屈をこねくり回しているけどなあ、多分問題はそこじゃないんだよ」

 胸ぐらから手を離し、彼を突き飛ばした。彼は本棚に倒れ込んだ。洋書は棚から落ち、散乱した。

「お前は現実から目を背けたいだけだ。本当は分かっているんだろう?俺は人の感情がどうだとかあんまり得意じゃない。でもそんな俺でも分かるんだ。お前は現実逃避をしているだけだ。もう過去は変えられない。大事なのは今、そしてこれから、何をするか、だろう?」

 俺は怒っていた。人生でこれほど怒ったことはなかった。どうしてここまで怒りが湧いてくるのか分からなかった。口下手な自分を恨めしく思うほどだった。

 もう言葉が出なかった。何を言いたかったのか、何を言えば良いのか、分からなくなっていた。伝えたい感情があっても、それを伝える手段を思い付けなかった。きっと俺より彼女の方が適任だったろう。彼女なら優しく諭してあげられたかもしれない。でもここに彼女はいなかった。俺しか彼を諭せる人間はいなかった。そもそも俺は人に説教できる人間ではない。何が正しいかなんてことは全く分からない。だが彼の現在の態度は間違っていると思った。俺はその感情に素直に従った。

「痛いなあ。僕は今まで喧嘩とかしたことなかったのに、まさか大学に入ってからすることになるなんて」

「これは喧嘩じゃないだろう?喧嘩未満の話だ、多分」

「そうだね」

 彼は泣いた。これ以上ないくらいに泣いた。彼の中で何かが振り切れたみたいに。俺は彼は悲しいのか悔しいのか、どういう感情の状態なのか、判断がつきかねた。きっと名状し難い感情、みたいなものなんだろう。

 彼が一通り泣き止むのを待って、俺は疑問に思っていたことを口にした。

「君はその留学した彼女の卒業文集、見たことあるの?」

「ない。僕と彼女は同じ高校だから、文集自体は持っているんだけど、文集には最優秀、優秀、準優秀作品しか載らなかったんだ。彼女の作品は佳作だったからタイトルだけ載っていて。僕は彼女に見せて欲しいと頼んだんだけど、恥ずかしいからって、見せてくれなくて」

「じゃあ、見にいこう。いや、見に行け、か」

 彼は驚いた様子だった。多分驚いたのだと思う。一瞬沈黙し、そして

「そうだね」

 とだけ言った。

 

 寮から出るとちょうど夕暮れ時だった。

 やっぱり美しいな、と思った。

 そしてきっと「白紙と夕暮れ」は優しい作品なのだろうなと思った。


 家に帰る途中で、本当にこれで良かったのだろうかと思った。でも、正解は思い浮かばなかった。

 空を仰ぐと、夜空に満月が浮かんでいた。星がいつもより煌めいて見えた。嫌になるくらい、美しい夜だった。

 

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