第4話

 朝が好きだ。誰もがまだ眠りについていて、真新しい空気が街を包む早朝。俺は朝早くに起きた時には図鑑を開いて宝石を眺めたりする。遠いどこかで深く深く潜り込んで誰かに発見されるのを待つ宝石・・・そんな空想をする。この空想をするようになったのも彼女からの影響で、以前だったら想像力を膨らませあれこれ考えることはなかった。

 今日は文学部の彼から勧められ借りた本を読むことにする。本棚から本を引き抜く。『老人と海』。小説にあまり触れてこなかったため、よく理解できない部分も多かったが、比較的分かりやすい構造の小説で、この作者が伝えたいことは分かるような気がした。遠いサバンナのライオンを思い浮かべるキューバの老人が、想像を膨らませているという点で今の自分と重なった。彼は何故この作品を俺に勧めたのだろうか。

 1時間ほど読書をすると俺は朝食を取ろうとリビングに向かった。俺は今1人暮らしをしている。半年前は姉と暮らしていたが、姉は彼氏と海外を回ってくるとか何とか言って出ていってしまった。よくわからない。姉は昔からよくわからない人だったので、特に驚きはしなかった。

 俺は海外に行く予定はないので相変わらずこの部屋で暮らしていた。2LDK。一人暮らしには少し広い。彼女と同棲しようかなどと思ったが、なかなか切り出せずにいた。同棲・・・想像すると顔が赤くなりそうだ。恥ずかしい。でも、悪くない話だと思う。もっと互いをよく知れるだろうし。そろそろ提案してみようかな。

 妄想が暴走してしまわぬうちに俺は朝食を作ることにした。

 キッチンは手狭だ。たぶん料理好きな人には耐えられない狭さだ。でも俺はそこまで料理に凝っていないため、別にこれでいいと思っている。そもそも料理といっても大したものは作れない。簡単な料理をレシピを見ながら適量ってどのくらいの量なんだ?と戸惑いながら作るようなレベルだ。そんな男には狭いキッチンで十分である。

 狭いキッチンで俺はスクランブルエッグとハムを焼き、パンと食べた。簡単だ。本当に簡単だ。俺は朝はそこまで食べるタイプではないので、いつも朝食は軽い。姉は俺が朝食を作る担当だった時にもっと量を作れとよく怒っていた。そういえば姉は俺と暮らしていた時よく怒っていたな。俺のことが嫌いなのかもしれない。そんなことはないか。やっぱり人の感情はよくわからない。今度彼女に訊いてみるか。

 朝食を済ますと9時を回っていた。今日は土曜日で、朝からバイトである。バイトは夕方には終わるので、彼女と夕食に行く約束をした。それを楽しみに今日のバイトは乗り切るとするか。

 

 今日のバイトは散々だった。店長からの指示を勘違いして店長に怒られ、つい考え事をしてお客さんが待っているのに気付かずお客さんから怒られたりした。今朝姉が俺に怒っている姿を思い出したから、今日一日ずっと怒られていたような気分になった。憂鬱である。

 でもこれから彼女に会えるのだと思うと胸が弾んだ。どんなに嫌なことがあっても彼女に会えば全て吹き飛んでしまう。恋とはつくづく不思議なものだと思う。

 今日は少し高めのレストランで食事をとることにした。それは俺が彼女に秘密でコンビニとは別に短期のアルバイトをしていて、その給料が入ったからだ。短期のアルバイトをしていたせいで講義についていけなくなってしまったが、彼女のためだと思い、働いた。彼女は俺の変化に敏感なところがあって、内緒でアルバイトをしていることはすぐに発覚してしまい、結構怒られた。私のことよりまずは自分のことを大切にしろというような話だった。恋愛のために学業を疎かにするな、と。そういった意味のことを彼女は俺に言った。やっぱり素敵な人だなと、俺は思った。

 待ち合わせは近くの公園で、俺は5分前に着いた。するとそこにはすでに彼女の姿があった。彼女は俺を見つけると、

「今日も私の勝ちだね」

 と言った。いつの間に勝負は始まっていたのか。


「後悔ってしたことある?」

 レストランでの食事を終え、彼女を家まで送る帰り道で、俺は彼女にそう尋ねた。

「それって文学部の彼の話?」

「な、何で分かるの?」

「君のことだもん。大体分かるよ」

 そうなのか。凄いなあ。

「まあ、1番の後悔は何で君にもっと早く出会えなかったのかってことだね」

「それは後悔なのかな?」

 そしてどうしてこうも恥じらいなくそんなことが言えるのか。とても嬉しいけれど。

「本当のことを言えば、ピアノを途中で辞めちゃったことかな。今でも時々ピアノを続けてたら良かったなあって思う」

「ピアノやってたんだ」

「うん。小学校の時に3年間。先生が厳しくて。辛くて辞めちゃった。当時の私はきっと自分に甘かったんだろうね。すごく後悔してる。

 君はあるの?後悔していること」

「あんまり思いつかないんだよ。強いて言えば勉強もっとやっておけば、とか」

「アルバイトせずにね」

「その話はもういいでしょ」

 彼女は笑った。俺も笑った。

 俺たちは住宅街に入る。街灯には羽虫が集まり、月は雲に隠れていた。公園では若者が騒いでいた。

「彼と落書きの関係は分かったの?」

「何にも。俺には推理能力がないんだ」

「そんなことないと思うけど。もっと想像を膨らまして考えてみたら?」

 成る程。想像が足りなかったのか。だったらもっと想像してみよう。そうだ。

「彼は実は人造人間で」

「そういうことじゃない」

 ・・・そうだよなあ。


 彼女も人の過去にあまり立ち入るのはどうかなと思う、と言っていた。でも彼がもし苦しんでいるのなら君が相談に乗ってあげて、とも言った。俺はできる限り彼の話を聞いてあげようと思った。


 その夜、月は雲に隠れたままだった。

 






 

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