第3話

「だからさ、彼がその落書きを書いた人なんじゃないの?」

「まさか。ミステリーじゃあるまいし」

 多弁な文学部の彼との邂逅があった日の夜、俺は彼女をデートに誘うため、電話をかけていた。そこで世間話として今日あった出来事について彼女に話した。

 彼は落書きの件について自分も見たことはあるが、意味は解しかねると言っていた。俺はそういうものかと思い、何かこの落書きについて分かったことがあったら教えて欲しいと頼んだ。彼は快諾してくれた。大船に乗ったつもりでいてくれ、と。

「少なくとも何か隠している感じだね。その落書きについて何かしら知っているのかも。でも話したくない事情があるとか」

「その事情って?」

「うーん。例えば引用元が自分の出した本だとか」

「学生で本出す人いるの?」

「いるはいると思うよ。自分の著書からの引用だから恥ずかしくて君に隠したい、とか。可能性としてはあるんじゃないかな」

「どうだろう。恥ずかしそうにしてる感じではなかったと思うけどなあ」

「君に人の感情が読める?」

「読めない」

「きっぱり言うねえ」

 感情は確かに読めないが彼が虚を突かれ驚いたことはわかる。驚いて一瞬間が空いたし。そうだよな?うーん。自信はない。

「とりあえず彼にもう一度会って訊いてみるしかないんじゃない?連絡先は交換したんでしょ?」

「してない」

「え?」

 忘れてた。彼、そそくさと立ち去ったし。


 次の日学食に行くと彼がいた。案外簡単に会えるものだ。

「やあやあ、奇遇だねえ」

 とか言っていた。変な奴だ。

「君と僕とは友達ってことでも構わないかい?」

「構わないよ」

「おお。君にとっての友達第一号だね」

「いや、友達はいるよ。多くはないけど」

「ほう、新発見だ」

 そんなに友達がいなさそうに見えているのだろうか?別に人からどう見られようが構わないとか思っていたが、流石にショックだった。

 そんなことより。

「何か分かった?」

「何かって何だい?」

「落書きの件について」

「落書きね。僕の友達に色々訊いて回ったけど何にも収穫は得られなかった。何人かその落書きを見たことあるって人はいたけどね。そんなの調べてどうするとか言われたよ。次は教授にあたってみようかなとか思っている」

「そ、そこまでしなくても良かったのに」

「いや、親友の頼みだからね。このくらいするさ」

 親友だったのか、俺たち。

「ねえ、君は僕のことどう思う?」

 こいつが変な性格をしていることは知っていたが、この質問はとりわけ変だと思った。脈絡のない唐突な質問だ。何故そんなことを訊くのだろう。

「何故そんなことを訊くの?」

 気付いたら口に出していた。

「いや、別に大したことじゃないんだ。不快に思ったならごめんよ。いやいや、別に答えてくれなくても構わないんだ。ちょっと気になっただけで」

「構わないけれど、どう答えたら良いのか」

「それなら答えなくても良いよ。すまない」

 謝るほどのことなのか?よく分からなかったが、それきりにしておくことにした。今気になるのは落書きの件だ。

 その後落書きについて少し議論した後、彼から文学の話を聞いた。俺の全く知らない世界の話なので、非常に興味深く感じた。ヘミングウェイとかフォークナーとかいう俺の知らない名前が飛び交った。俺はほうほう頷いていた。正直半分も理解していなかった。

 彼の話が一段落すると、彼は黙り込んで、テーブルを見つめていた。どうしたのだろうか。何か考え事をしているのだろうと思い、俺は自販機で買ったペットボトルのお茶を飲んでいた。お茶を飲んでいると彼が話しかけてきた。

「君は後悔をしたことがあるかい?」

「後悔?」

「うん。なぜあの時ああしなかったのか、とか、あの時別の道があったんじゃないか、とか、そんな後悔」

「なくはないけど。でも、今はそういうものだと割り切ってる感じだな」

「君は強い人間なんだね」

「強い?そうかな」

 考えたこともないことだった。強い?自分に対するそんな認識はなかった。むしろ人間関係に悩んでばかりで弱いような気もする。

「君も別に弱くないと思うんだけど」

「いや、そうでもないさ。弱い犬ほどよく吠える、弱い人間ほどよく喋るってね。僕は自信がないから多弁なのさ」

 そういうものなのだろうか。俺は話をすること自体に自信がないのであまり共感は出来なかった。自信、後悔。何か繋がりそうで繋がらなかった。そもそも人の過去を探るのは邪推というものだろうか?立ち入って良いものかどうか。友情は時間ではないと思うが、昨日会ったばかりの人間だし。どうなのだろう。

「じゃあ食べ終わったから僕は行くよ」

 少し疲れた様子で彼は立ち去った。結局連絡先はまた訊けなかった。でも、何故か彼とはまた会える気がした。

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