第2話

 午後の授業は退屈だった。いや、退屈というよりも意味不明だった。好きだったはずの数学を嫌いになってしまうくらいに授業についていけなかった。大学に入ってから自信がどんどんなくなっていくような気がする。

 授業が終わると俺は流石に勉強でもしようかと思い、図書館へ向かった。

 図書館は最近改築され、以前は歴史を感じさせるほどの古さだったのが、非常に瀟洒な建物になった。設備も最新で、無人貸出機なんかも置いてある。冷房も丁度良い温度設定になるようプログラムされており、これほどまで過ごしやすい施設は他にないと言って良いくらいに、過ごしやすい空間だ。

 図書館の自動ドアを抜け、階段をのぼり二階へ上がった。俺は人が近くにいると集中できないタイプなので、机ごとに仕切りのあるスタディールームに入った。

 ひんやりとした空気が部屋に満ちていて、とても気持ちいい。勉強が捗りそうだ。

 スタディールームには既に5人いたが、この部屋はそれなりの広さであるため、そこまで気にならなかった。もちろん、貸切に越したことはないけれど。

 部屋の奥の方へと進み、壁際の席についた。机は長机ではなく、1人用の机で、仕切りもされている。俺はリュックサックから教科書とノートと筆箱を取り出し、机の上に並べた。そして今日ついていけなかった授業の項目について復習した。俺は復習するのが苦手な人間で、高校の時は予習はしたが、復習はあまりしなかった。何故だろう?振り返ることが苦手なのかもしれない。

 1時間半くらい勉強すると、外の空気が吸いたくなった。時刻は午後6時32分。昼飯をあまり食べていなかったので腹が減ってきた。俺は学食に向かうことにした。

 図書館を出ると少し陽が傾いてきているのがわかった。季節は変わりつつあるのだ。夕暮れ。ー俺の一番好きな時間だ。

 学食は混んでいた。列に並び何を食べようかと考えながら所持金はいくらあったかなあ、などと考えていた。俺は考え事に集中しすぎて周りが見えなくなることがたまにある。今回もそうで、後ろの人から、

「前、進んでますよ」

 と言われた。結構恥ずかしかったが、表情に出さないようにして、すみません、と謝ってすぐさま前に進んだ。


 学食でどこに座るか、ということはとても重要な問題だと言える。席次第で大変な思いをすることもある。例えば、窓際の席は外の景色が見れて良い感じがするが、背後に人がいるという感覚がちょっと気にかかる。通路側の席だと人がひっきりなしに通って人が苦手な俺にとってはちょっと厳しい。通路側と窓側の間を取るのがベストだとも言えるが、四方を人に囲まれることになり、これもなかなか難しい部分がある。結局、俺にとってはどこに座っても一緒なのかもしれない。

 窓際のカウンター席が空いたので、そこに座ることにした。背後の気配は無視することにしよう。チキン南蛮定食を載せたトレイをテーブルに置き、早速食べようとした。すると、

「隣、座ってもいいかな?」

 と声がした。

 俺が座っている席はテーブル席ではなくカウンター席なので、その断りは必要なのかと思ったが、俺の人を寄せ付けないオーラが自然と言葉を発せさせてしまったのかもしれない。

 どうぞ、と言おうとして顔を上げると、声をかけてきたのは、列で俺の後ろに並んでいた人だった。

「君、友達いないの?」

 第一声にしては手厳しいな、と思った。


 彼は文学部の学生で、俺と同じ2年生だった。よく喋る男で、俺がチキン南蛮をむしゃむしゃ食べている間に、これでもかというくらいに喋ってきた。何をそんな喋ることがあるのだろう?俺はお喋りな人間ではないので、素直に感心した。

「僕は、斎藤緑雨が好きなんだ。彼の小説はあまり読んだことがないけれど、彼の才能は多分小説を書くというものではないのだろう。僕は彼の警句が好きなんだ。アフォリズム。彼ほど凄い才能は現代を以ってしてもまだいないと言えるだろうね」

 俺は文学についてはあまり詳しくないので、とりあえず頷いていた。

「君は、好きな小説はあるのかい?」

「うーん。強いて言えば芥川龍之介とかかな」

「彼も良いよね。短編の名手だ」

 芥川が短編の名手なのかどうかは知らなかったが、まあそうなのだろうと思い、頷いておいた。ちなみに俺は芥川は「蜘蛛の糸」しか読んだことがない。

「『ノルウェイの森』は読んだことあるかい?」

「いや、ないな」

「まあ、読まなくてもいいが、なかなか興味深いよ。この作品の中で自分は死んだ作家の本しか読まないっていう変わり者がいてね、僕も彼に倣っている節があるんだ」

「はあ。君は小説家とかになるの?」

「いや、僕にものを書く才能はないよ。色んな作品を知って、自分でも書いてみて分かるんだ。きっと目が肥えてきたってことでもあるんだろうけど、でも、まあ、学ぶってことは時に残酷なんだ」

 そういうものかと思った。俺は小説を書いたりしたことはないので、彼の気持ちが理解できるとは言い難かった。なんせ俺は最近やっと夕暮れを美しいと思うようになった人間なのだ。

 俺は人見知りなので、あまり自分から話しかけることをしないのだが、文学を解しているであろう彼に、少し訊いてみたいことがあって、それを口に出した。

「あの、落書きを見たことある?」

「落書き?そんなものはそこいらにいくらでも転がっていると思うよ」

「いや、トイレに書いている落書きなんだ。きっと誰かの名言かなんかなんだろうと思って、色々探しているんだけど、見つからなくて」

「なるほど。僕に訊けば分かるんじゃないかってことだね。一体どんな文言なんだい?」

「人生は白紙だが、夕暮れは美しい」

 彼は一瞬沈黙した。その沈黙が何を意味するのか、俺には分からなかった。

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