白紙と夕暮れ
春雷
第1話
人生は白紙だが、夕暮れは美しい。ー白浜夕暮
俺はトイレの個室に座りながら前方の壁を睨んでいた。
俺が通う大学はなぜか全てのトイレの個室に落書きがされている。名言やバンクシーの作品なんかが書かれていたら別に文句はないのだが、大抵は、くだらない戯言や見るに耐えない卑猥な絵が描かれているのだった。
勿論そうしたものに心を動かされることなどない。
と、昨日までは思っていたのだが。
今日俺は俺の取っている講義の教授がいつもと違う教室で講義をするというので一度も来たことのない講義棟へ足を踏み入れた。
そして用を足したくなったのでこうしてトイレに入った。
個室の扉を開け、閉め、鍵を掛け、便器に腰をかけた。一息ついて別に他にすることもないので(大便する以外に)前方の壁を見るとはなしに見た。それは最初ちらと視界の隅っこに入った程度だった。何かの文字が書かれている。誰かの引用かと思ったが、こんな名言は聞いたことがない。
人生は白紙だが、夕暮れは美しい。
名言と言われれば名言な気もするし、くだらない戯言だと言われればそうとも取れた。含蓄がある言葉のような気もするし、特に意味のない言葉にも思えた。
その言葉の周りにはキルロイ参上であるとか、相合い傘だとか、卑猥な絵や文言が並んでいた。馬鹿馬鹿しいうざったらしい言葉やどうでもいい個人的体験からの言葉が無造作に散らばっていた。秩序も何もない、無法地帯。ー落書きとは元来そんなものだ。
そんな薄汚れた品のないキャンバスであるから、その文言は非常に異彩を放っていて目を惹いた。
勿論それだけが理由ではないと思う。
俺は今ある問題に直面している。
きっかけは些細だし、世界から見れば瑣末であったが、俺に取っては重要だった。
何のことはない。恋愛の問題だ。
恋愛とはなかなか難しいものであるとつくづく思う。
法則も方程式も理論も理屈もなく、ただ感情が先行し冷静さを欠く。合理性も何もない。
俺はどちらかといえば理系的な人間であるので、恋愛の機微とかいうのがいまいち理解できなかった(それだけが理由ではないし、また問題の本質ではないと思うが)。
彼女とは高校生の時に出会った。
同じ高校に通っていた、とかではない。
オープンキャンパスで出会ったのだ。
俺も彼女も当時高校3年生。オープンキャンパスは夏だったから、受験勉強が本格的になる時期だ。
俺は何もかもがうまくいっておらず、擦れていた。
友達に誘われてオープンキャンパスに行ったものの、別に興味はなかった。
というより、全てがどうでもよかった。
目の前の景色は灰色、それは心の反射でもあった。
そんな俺の視界に色が飛び込んできた。
「あの」
可愛らしい声で彼女はそう切り出した。
「道に迷ってしまって、あの、教えてくれませんか?」
何でも教えてやるという気分になったが、俺も大学の構内は全然把握してなかった。興味がなくて。
それにしても、大学内で道を聞くってのもなかなか変な話である。
俺の友達はなぜか2人で行ってこいなどと言い、俺は彼女と大学内を回った。
彼女はどこか変わっている人で、俺の知らない世界のことを色々知っていて、とても面白かった。
知らない世界に触れることがどれだけ素晴らしいことか。
そのことを俺は、いつの間にか忘れていたようだ。
「君はこの大学受けるの?」
「いや・・・正直、わからない。俺はそんなに頭も良くないし。ここ受けるならかなり勉強しないといけないから」
「大丈夫だよ。君なら」
初対面の人にこんな何の根拠もないセリフを吐くなんて、やっぱり変わった人だ。
俺は自然と彼女に好意を寄せていた。
あんまりそれが自然だったので俺自身気付けないでいた。
これは恋だ、と。
「君の方こそここ受けるの?」
「うーん。わかんない。うちはそんな金持ちじゃないからできればここみたいな国公立がいいと思ってるんだけど」
「まあ俺も金持ちではないけど」
「別に君は金持ちだよねって言ってないよ」
「それもそうだな」
彼女は笑った。素敵な笑顔だった。彼女を笑顔を見れるなら死んでしまってもいいと思った。
今日初めて会ったのに初めて会った気がしなかった。
不思議だ。
それから夕方まで彼女と色んな話をしながら構内を巡った。
昔の話、将来のこと、仲良い人の話、ちょっぴり苦手な人の話・・・
まるで恋愛映画のワンシーンのように、その時間は俺の脳裏に張り付いて離れなかった。
時が停まればいい、なんて陳腐なセリフだけれど、本当にそう思った。
本当にそう思った。
「じゃあ、もう陽が暮れるから、私、帰るね」
彼女はそう言った。
「うん」
「最後に」
「何?」
「最後に、君の名前、聞いてもいいかな?」
「・・・そういえば名前まだ言ってなかったね」
「話に夢中で忘れちゃってたよね」
「俺は」
俺は自分の名前を告げた。
「いい名前だね」
彼女に褒められるととても気分がよかった。
「君は?」
「私の名前は」
次の機会に、と彼女は言った。
そうして俺たちは受験勉強の合間を縫って時々会った。
この後俺に何か不幸なことが起こるんじゃないかと思ってしまうくらいに、穏やかで、幸せな時間だった。
正直、受験勉強を忘れてしまっていた。
俺と彼女は別の大学に通うことになった。
俺は自分の頭の悪さを呪ったが、彼女は大丈夫と笑った。
「いつでも会えるよ」
こんなことはなんてことない、というふうに笑った。
そして、今。
俺と彼女は2ヶ月ほど会っていない。予定が合わなかったりして、すれ違いもあり、結局会えなかったのだ。
うう、と、俺は苦虫を潰したような顔になる。
きつい。彼女に会いたい。
そもそも、俺たちは付き合っているのだろうか。
わからない。
何となく、でここまできてしまった。
ああ。
トイレでため息をつく男ほど、哀れなものはない。
俺は昔からどちらかといえば人間関係が苦手な方だった。
人間関係は正解がないし、曖昧模糊としたものになりやすい。俺はその曖昧な状態がひどく苦手で、だったら最初から人とつながらなければ良いと人を遠ざけていたりした。
中学に入り、さらに人を避ける傾向が顕著になった俺は、とうとう友達と呼べる人間が1人もいないまま、卒業を迎えた。寄せ書きを見ると担任のメッセージだけが書かれていた。寄せ書きは燃えるゴミになった。
高校生にもなると流石に友達が欲しくなった。人間関係の曖昧さもそれはそれで楽しいものなのかもしれないと思うようになっていた。俺は積極的、とまではいかないが、人に話しかけるようにした。そうして友達が、そんなに多くはないができた。でも、どこか満たされない気持ちでいた。彼女がいないせいだとか、部活で全力出しきれてないだとか、勉強がつまらないだとか、そんなことではなかった。
本当に通じ合えている人間がいない。
俺はそう感じた。
周りに合わせてヘラヘラ笑ったりしていたが、本当は何も面白くなどなかった。
高校3年にもなると、そうしたストレスがだんだんと溜まってきて、憂鬱な気分が続いた。擦れていった。
だけど、高校3年の夏。
彼女と会った。
世界が広がった。
やっと人と通じ合えた。
彼女と歩く帰り道はいつも夕暮れ時だった。
彼女はいつも言っていた。
夕陽が綺麗だね、と。
俺は君の方が綺麗だよとかそんな気障なセリフは言えなかった。
俺には夕陽が綺麗だという感性がそれまでなかった。夕陽はただの夕陽でしかないし、ただの地球の運行の結果でしかないと思っていたからだ。
でも、彼女と出会って、俺は、夕陽が綺麗だと思うようになっていった。
そうか、世界はこんなにも美しく、素敵なものだったのか。
俺は彼女に会って初めて人間になれた気がした。
人生は白紙だが、夕暮れは美しい。
全くその通りだと思う。
将来何をするかとか何が起こるかとかはわからない。でも夕暮れの美しさはわかる。ーそれで十分だという気がした。
今日、彼女に電話をかけてみようと思う。
俺の将来の予定のなさだとか、単位がやばいことだとか、教授の変な癖だとか、そんなことで彼女を笑わせることができたら、と思う。
そして彼女に夕暮れが美しいと思えるようになったことを告げるのだ。
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