君の特技

背凭れ

短編の本編

 わが子が恐ろしいと感じた母親の顔を、今でもときどき思い出す。本当のところはどう思っていたのか、今さら聞こうとは思っていない。小さい頃に思いをはせるなんて、この怪しげな探偵事務所の名刺のせいだ。幼稚園児の私は悪気を感じない子で、褒められることが大好きだった。高校三年生の私は意識的に悪気を感じないようになり、褒められないのも仕方なしと脳みその形を変えながら成長した。

 他愛もない子供の特技は、上手い下手にかかわらず大人たちに喜んでもらえる。私のそれは、始めのうちは楽しんでもらえるのに、だんだんと笑えなくなるような分野だった。娘は普通の子と少し違うかもしれないと気づいた母親は、、何か特異な性質があるのではないかと不安がったに違いない。小学校に入学する頃には、「お行儀が悪いから、みんなの前ではしちゃだめよ」と幾度も注意された。どうして、ゴミ箱にポイっと投げ入れるのがそんなにいけないことなんだろう。ただ、絶対に外さないというだけで。母親の目前で打ち立てた二十四回の連続成功記録は途中で止められた。今となれば気持ち悪い子供だったと理解はできるけど、そんなでも子供の能力を活かすも殺すも親次第ではないだろうか。母親の当時の気持ちもだんだんとわかるようになってきて、人前でするのはよした。たまに、つい教室でポイっとゴミを投げてしまうこともあった。友達から「すごーい」と言われても、「まぐれまぐれ」とやり過ごす術をいち早く習得した。個性という言葉が嫌いになり、活かされることのなくなった特技を恨んだ。


「あー、的に目掛けて投げたい」。公には叶わぬ願いをふり払うために、仕方なくジュニア野球クラブに入ってみたりした。でも、私は遠くに投げたり、速く投げたりをしたいわけじゃない。小学五年生になると、自分の部屋をもらえた。お小遣いを貯めて買ったのが、壁掛けのダーツのおもちゃだ。本当はちゃんと先が尖っているのが良かったのに、危ないという理由でマジックテープ式にくっつくやつになった。あとは自分で蓋を外した空きペットボトルを段ボールに貼り付けて、ビー玉を投げ入れては気持ちをごまかした。入ったときの音が意外に響くから、綿を詰めたりした。

 親しくなった友達からは、なんかコツがあるの?としばしば聞かれた。投げるとき、まずは的をじっくりと見る。現実的に届く距離ね。教室の真ん中から窓際に置かれたゴミ箱を狙うとする。自分の間合いに照準が定まると、ゴミ箱の口から巻き戻し映像のように投げるものが空中に点・点・点と、自分の手元に近づいてくる。その軌跡が感じ取れたら、その線をなぞるように投げればよろしい。突発的なこと(くしゃみとか、耳元に蚊がくるとか)が起きない限りは九割方成功となる。って、言ってみると「何も見えないよう」という反応。「それは鍛錬が足りないからだ、ハハハ」と笑って一件落着。


 さて、名刺の話に戻る。遡ることひと月前、梅雨の中休み的な猛暑の日だった。通学で利用している電車内で痴漢事件があった。被害にあったのは名門女子高の生徒だ。私に似ずスラっと背が高く、長い髪はサラっとしていた。

「この人、痴漢です」という声が車内に響き渡ったとき、電車はまさにホームに到着した。私は彼女のいた所から一つ後方の扉の前にいた。快速急行で帰宅ラッシュと重なる時間帯。ちょうど下車する駅で扉が開いたとき、響き渡った彼女の声で誰もが次の行動に戸惑っていた。いち早く飛び出したのは犯人と思しき男性。「あっ!」という彼女の声で恐らくは掴まれていた腕でも振り払ったのだろう。一時停止ボタンでも押されたような現場で、私は乗降客の間をすり抜けてホームに出た。男は中央の階段を目掛けて、人の波をなんとか避けようとよろめきながら進んでいた。途中、ぶつかった人から怒鳴り声があり、お年寄りが転ばされた。


 何か、投げるものは?


 眼は男の姿を捉えたまま、右手で通学鞄の中を漁ると、虫刺され薬の液体ボトルに触れた。手の中にすっぽり収まる。視線を男の足元に合わせる。あれが的だ。薄い線がかすかに見えた、気がした。動く的、それを遮るいくつもの障害物が点と線を曖昧にさせた。チャンスは短く一回だけだ。できる限り目立たないように、大きく上体を開かずに手首と前腕部に力を込めた。踏み込みも最小限にサイドスロー気味に投げた。傍から見れば、つまずいて体勢を崩したように見えたかもしれない。その軌跡は思い描いたルートを辿って、数秒後に男の着地しようとしていた左足の靴の下にするりと入った。男は何も知らずに踏んだ。見事な転倒。左肩からベンチ横のゴミ箱に突っ込んだ。また、誰かが叫び声をあげる。心の中で両手ガッツポーズが出た。


 地球規模でのパンデミックが発生し、全国の高校三年生が静かな夏休みを過ごしていた。マスクの争奪戦が起こり、私は不謹慎ながらも目の前でひったくりでも起きないかなと期待した。旅行はもちろん、ちょっとした遠出もはばかられる中、私には探し物があった。安くて軽くて投げやすく、踏めば誰でも転ぶ。何気なく入店した毎度の書店で、何気になく目にとまったガチャガチャの機械。「ははぁ、これだね」。しかし、手に入れた物を試す、実践の好機はなかなか訪れない。誰かの犯罪行為を待ち望むなんて、冷静に考えればどうかしている。大学受験の勉強もなかなか身が入らず、投げることばかり考えていた。


 そして昨日、塾からの帰り、時間帯は違うがあの時と同じ経路の電車でそのサプライズに巡りあえた。私は車内で英文法の参考書を読んでいた。珍しく集中して読めていた。その意識を断ち切るような女性の大きな声。再現ドラマを見ているかのようだ。テレビのリモコンでチャンネルを変えるごとく、集中力のスイッチを切り替えた。はやる気持ちを抑えて、イメージ通りの動きに努める。まさに模範解答のような投げで、後世に語り継がれるに相応しい軌跡を描いた。


 しかし、当たらなかった。いや、よけられたのだ。


 名刺の裏面には、『家族や友人に頼みづらい。警察にも頼みづらい。弁護士にも頼みづらい。そんなときはR探偵事務所へお気軽にご相談ください』と書いてある。そんなの、どんなときだよ。

「惜しかったわね。あなたを見つけるのちょっと大変だったのよ。でも、こうして出会えたわ。興味があったら連絡してちょうだい」という声が耳元で聞こえ、ポロシャツの胸ポケットに何か紙切れが入れられた。けれども、金縛りにでもあったかのように振り向くことができなかった。

 一分前に投げ放った新しい飛び道具は的には当たらずに、そのまま向かい側の線路を飛び越して歯医者の看板に当たってどこかに消えていた。「えっ、なんで?」、犯人の足が空中でほんの束の間、止まったのだ。そう見えた。あるいは、宙で浮いたのか。どっちにしたって、偶然に当たらなかったというわけじゃない。重力を無視している。そんな非現実的な不自然な現象などとても信じられない。私は自分のことは棚に上げて混乱の真ん中にいた。私はまんまと罠にはめられたのだ。でも、なぜ?理由を知りたければこの名刺に尋ねるしかない。


 きっと違法なことしかしていない危険極まりない組織にちがいない。絶対に裏通りだ。そう確信して、名刺に書いてある住所に行ってみると、往来のある緩い坂道の途中であっさりと見つかった。雑居ビルの三階にしっかりと看板も掲げられて営業しているようだ。さて、どうしたものか。通りを挟んだ反対側を少し下るとファミレスがあった。私は店内からビルの入り口階段をしばらく見ることにした。三十分くらいして、一人の男性が姿を現した。顔は全然覚えていないし、服装ももちろん違う。でも、あのふわりとした歩き方は妙に気になった。私は店から出て追いかけた。そして、すぐに見失った。

「まさか、尾行をするなんてな」また後ろから声を掛けられた。

「そのまま、振り返らずに歩きな」私は言う通りにした。

「聞いていいですか?あの時の人ですよね」

「よく分かったな。顔がばれていたか」

「いえ、歩き方が気になってつけてみただけです。あの時、宙に浮いてよけたんですか」

「宙に浮いてか!あんたにはそう見えたのか」

「違うんですか」

「まぁ、言い方は何でもいいさ。確かに俺はよけた。それで何の用で来た?」

「本当にちゃんとした探偵事務所なんですか」

「なかなか難しくて深いこと聞くな。悪いことはしていないさ。ただ、悪者を懲らしめるために、たまに悪い手を使うことはあるかもしれないが。お嬢ちゃん、探偵の仕事に興味があるのかい?高三だろ?大学には進まないのか」

「私のこと色々と知っているんですね」

「外側だけさ。内側のことは見た目じゃわからん」

私は少し黙り込んで、話題を変えた。

「生きにくくないですか?」

「このご時世のことを言っているのか」

「いや、そういうわけじゃ。その、人とちょっと違うことができることで」

「そんなことは気持ちの持ちようさ、と俺は思って生きてるがね。まぁ、うちの所長に一回くらいは会うだけ会うのもありさ。取って食ったりはしないから安心しな」

「はぁ。ところで、どうすればあなたに当てられたんですか」と尋ねてみた。

「おいおい、いきなり物騒な話だな。そんなに俺に当てたいのかい。そうだな、二発同時に別々の場所を狙われたなら流石に厳しいかもな」

 そこで私は思いきって振り返ってみた。が、その男の姿はもう見えなくなっていた。また逃げられた。現実社会では的はいつでも動くんだ。野生の動物だって狙った獲物はだいたい動く。チャンスはいつどこに転がっているかわからない。いつだって的は動いている、動き続けている。それに合わせて、投げなくてはいけないのだ。私は鞄の中の白っぽいスーパーボールを握りしめた。


 

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