第31話 追いかけっこ

 鍾乳洞の暗闇の中を、2色の光が高速で移動していた。

 前を、赤く輝く双眼が疾走している。

 その後を、青く輝く双眼が追っていた。

 

 前を疾走しているのは、ヴァンである。

 その後を、みずちが追っていた。

 

 洞窟内があまりにも暗すぎる為、両者の眼光のみが輝いて見えていた。

 

 湿った空気に満たされた洞窟内に、騒がしく様々な音が鳴り響いている。

 疾る音。

 岩が削れる音。

 水が跳ねる音。

 そして、ひゅんっ、ひゅんっ、という何かが空気を裂く鋭い音である。

 

 この鍾乳洞全体には、蛟の魔法が込められていた。

 滴る水滴や流れる水を、武器として操作出来る特殊な術が、鍾乳洞全体に掛かっているのである。

 蛟の両眼が、絶え間なく青く発光していた。

 水魔法を継続的に発動しているのである。

 

 洞窟内の天井から生えている鍾乳石の先端から落ちる水滴が、弾丸の速度で次々とヴァンを襲っていた。

 上下左右。

 前方後方。

 斜め。

 あらゆる角度から、水滴の弾丸がヴァンを目掛けて空気を裂いて疾って来る。

 

 ヴァンは黒い風のように疾走しながら、その攻撃を全て避けていた。

 首を振り、身体をひねり、跳躍し、宙返りをし、壁を蹴り、また宙返りをし。

 神懸かり的な身のこなしであった。

 

 ヴァンは疾走しながら後ろをちらりと見た。

 青い双眼が高速で迫って来ている。

 ヴァンはにやりと笑った。

 疾る速度を上げた。

 

 突然。

 ヴァンはぴりっとした空気の緊張を、自分の前方から感じた。

 感じると同時に首を右に振った。

 一瞬前までヴァンの顔があった空間を、水滴の弾丸とは違う何かが高速で疾り抜けて行った。

 

 ヴァンの前方に、何者かが立っていた。

 白眼を向いたアマガエルの魔物だった。

 先程ヴァンの顔の横を高速で疾り抜けて行ったのは、この魔物の長く伸びた舌だった。

 ヴァンは、一瞬でこの魔物は操り人形のように操作されているという事を感じ取った。

 操られている者特有の気配を感じたのである。

 

 白眼を剥いたアマガエルの魔物の膝が、一瞬曲がった。

 直後、ヴァンに向かって跳躍して来た。

 

 「仕方ありませんね」

 

 ヴァンは疾走しながら身を翻した。

 アマガエルの魔物の身体が、ヴァンの身体の数ミリ先を通過していた。

 ヴァンと、アマガエルの魔物がすれ違うまさにその瞬間。

 ヴァンは左手の人差し指と中指を揃えていた。

 しゅっと、その左手を伸ばした。

 ずぶり、とアマガエルの魔物の左のこめかみに、2本の指が突き刺さった。

 突き刺した次の瞬間にはその指を抜いていた。

 

 アマガエルの魔物は、跳躍した勢いで、そのまま顔面から地面に激突した。

 こめかみに指二本分の穴が空いて、そこから赤い血が噴き出していた。

 

 そのまま後ろを見ずにヴァンは疾走した。

 直後、ヴァンの両眼が僅かに見開かれた。

 同時に、地面を蹴って上に跳躍していた。

 前方に、大男のような影が突然現れたのである。

 大型のサンショウウオの魔物であった。

 

 跳躍した次の瞬間、ヴァンは両方の膝を胸に付けるようにして折り畳んだ。

 サンショウウオの魔物の頭上を、そのまま飛び越える軌道を描いていた。

 

 「!」

 

 サンショウウオの魔物の頭のすぐ上の空間にいるヴァンの目が軽く見開かれた。

 前方から、散弾銃のように広がった水滴の弾丸の群れが襲いかかって来ていた。

 すぐ下は、サンショウウオの魔物。

 左右は、壁。

 天井は、先端の尖った鍾乳石がびっしりと生えている。

 どう考えても避けられるスペースは無かった。

 

 だが、ヴァンは微笑んだままだった。

 瞬間。

 空中にいるヴァンは、右手で、自分の身体の真下にいたサンショウウオの魔物の頭を掴んだ。

 そのまま、ぐっ、と右腕を上げた。

 ヴァンは、右腕一本でサンショウウオの魔物の身体を持ち上げたのである。

 細身の身体からは想像出来ない凄まじい怪力であった。

 ヴァンの身長は、およそ176センチ。

 サンショウウオの魔物は身長が190センチほどあり、更に横にも身体がぶよぶよと膨らんでいた。

 見た目では相当の体重差があるように見えた。

 

 しかし実際にヴァンは右腕一本で、その体格の良い魔物を自分の身体の前まで軽々と持ち上げているのである。

 

 水滴の散弾が、サンショウウオの魔物の身体に次々と食い込んだ。

 一瞬にして、サンショウウオの魔物の身体が蜂の巣のように穴だらけになった。

 サンショウウオの魔物は、見事にヴァンの盾の役目を果たした。

 だが、盾だけでは終わらなかった。

 

 ヴァンは、右手を離した。

 離すと同時に、身体を翻して、サンショウウオの魔物の背中を左足で思い切り蹴り飛ばした。

 どぎゃっ!

 という、派手で重そうな音が洞窟内に響いた。

 サンショウウオの魔物が吹っ飛んだ。

 吹っ飛んだ方向は、ヴァンが疾って来た方向。

 つまり、蛟が追って来ている方向である。

 サンショウウオの魔物の身体が、蛟に向かって真っ直ぐに空中を疾って行った。

 

 ヴァンは地面に着地した。

 着地と同時に、前に向かって再び疾走を始めた。

 

 蛟の身体の前に、サンショウウオの魔物が巨大な人形のように吹っ飛んで来ている。

 

 サンショウウオの魔物の巨体と、蛟の小柄な身体がぶつかる寸前。

 蛟の左の掌が、青く淡く輝いた。

 一瞬、その掌を後ろに引いた。

 次の瞬間。

 

 「破ッ」

 

 蛟は声を発しながら、サンショウウオの魔物の腹部に左の掌底を突き入れた。

 サンショウウオの魔物の腹部と、蛟の左の掌底が接触した瞬間。

 その接触面から、青白い閃光が炸裂し、一瞬だけ洞窟内を明るく照らした。

 直後。

 サンショウウオの魔物の身体の皮膚が、蛟の掌底を中心に同心円状に波打った。

 蛟は掌底を打つと同時に魔力を注ぎ込んでいた。

 その魔力の流れが、サンショウウオの魔物の肉を波立たせたのである。

 直後、サンショウウオの魔物は身体全体で高速に右回転しながら、今度は前方に吹き飛んで行った。

 それは巨大な弾丸とも言える速度で、ヴァンの身体を目指して空中を疾った。

 

 ヴァンは、ちらりと後ろを見た。

 巨大な肉の塊が、回転しながら超高速で接近して来ていた。


 (あれ、蹴ったのは失敗でしたか。何か仕込みましたね)

 

 今、自分に迫り来る肉の塊を見て、それには触らない方が良いという警告がヴァンの中で鳴っていた。

 先程一瞬だけ炸裂した青白い閃光に、妙な魔力が仄かに香ったのである。

 みずちがサンショウウオの魔物を掌底で跳ね返すと同時に、巨体に魔力を注ぎ込んでいた事をヴァンの勘は見抜いていた。

 

 (さてどうしますか)

  

 ヴァンは疾走しながら考えた。

 先程の蛟の掌底が、ただの掌底突きであれば何も問題は無かった。

 吹っ飛んで来た肉の塊を、再び蹴り飛ばすなり叩くなりして跳ね返せば良いだけである。

 しかし。

 その肉の塊に仕掛けが施されているとなると、話しは別だった。

 肉の塊に何か爆弾のような物が仕掛けられたのではと思った。

 

 もうコンマ数秒で、肉の塊がヴァンに追い付く。

 更に。

 前方から再び水滴の弾丸の群れが迫って来ていた。

 先程よりも広範囲だった。

 

 この狭い洞窟内。

 横に逃げ込むスペースは無い。

 前方から水滴の弾丸の群れ。

 後方からは巨大な肉の塊。

 

 ヴァンは、くすりと笑った。

 この、みずちという者は、可愛い顔して本気で自分を殺しに来てるな、と思った。

 

 (特別に、少し見せてあげましょう)

 

 瞬間。

 前方を見据えるヴァンの両眼が妖しく赤く輝いた。

 魔法を発動したのである。

 直後。

 前方からヴァンに迫っていた散弾のような水滴が一瞬だけ閃光を放った。

 その直後。

 ぼ、ぼ、ぼ、ぼ、ぼ、ぼ、ぼん。

 という奇妙な音が、洞窟内に響き渡った。

 水滴の群れが、突然、炎に変化したのである。

 普通の炎では無かった。

 奇妙な、緑色をした炎であった。 

 その緑色の炎は、ヴァンの身体を避けるように、上下左右に弧を描いた。

 そのまま、その緑色の炎の群れはヴァンの後方へと疾って行った。

 

 「!」

 

 みずちは、眼を丸く見開いていた。

 驚愕していた。

 

 炎を発生させて、水滴の弾丸にぶつけたのならまだ分かる。

 しかし今、ヴァンは、みずちの魔法がかかっているその水滴そのものを炎に変換したのである。

 つまりそれは。

 水滴にかかっていた術を、書き換えたという事である。

 術の上書きをしたという事だ。

 本来、術の上書きというのは相当に高度な技だ。

 封印や呪いを解除する魔法は、この上書きである場合が多い。

 高度な術者が、魔法陣を描いて魔力を高め、その上で自分の術を発動し、それのみに集中力を注いでようやく出来るのが、上書きという技術である。

 すでに術がかけられている物体に、他者が他の術をかけるというのは、それほどに難易度の高い技なのである。

 

 しかし、ヴァンは、この刹那の間に、疾走しながらそれをこなした。

 

 疾りながら、蛟は驚愕と同時に感嘆も感じていた。

 これほどか。

 これほどのものなのか。

 吸血鬼ヴァンパイアという種は。

 

 蛟が思いを巡らせていたのはほんの一瞬。

 緑色の炎の群れは、空中を吹っ飛んでいる最中のサンショウウオの魔物の身体に次々と衝突した。

 直後。

 ぼっ!

 という音と共に、サンショウウオの魔物の身体が緑色の炎に包まれた。

 緑色の炎は、激しく渦を巻いて、洞窟の天井から地面まで、そして左の壁から右の壁までを、完全に塞いだ。

 

 蛟の前方に、緑色の炎の壁が出来上がった。

 しかし、蛟は止まらなかった。

 疾走したまま、右の掌を開いた。

 ぽうっ、と右の掌が淡い青色の光を発した。

 その右掌で、燃え盛るサンショウウオを打ち抜こうとしたまさにその瞬間。

 

 「!」

 

 蛟は自分のうなじに空気の緊張を感じた。

 眼を見開くのと同時に、顔を左に振っていた。

 直後。

 先程まで蛟の後頭部があった空間を、高速で、何か棒のような物が疾り抜けた。

 蛟は、ちらりと後ろを見た。

 

 アマガエルの魔物がいた。

 先程、ヴァンにこめかみに穴を開けられたアマガエルの魔物が、舌を伸ばしてこちらに疾って来ていたのである。

 今。

 蛟の後頭部を貫こうとした物体。

 それは、このアマガエルの魔物の舌だった。

 アマガエルの魔物の、左のこめかみに空いた穴から赤黒い霧が出ていた。

 両眼が血のような赤に輝いていた。

  

 蛟の頭の中で、思考が刹那で駆け巡った。

 アマガエルもか。

 あの吸血鬼は、アマガエルのこめかみに指を入れた時に魔力を注いでいたのだ。

 そして術の上書きをして、自分の傀儡に作り替えたのだ。

 という事は。

 

 蛟は、ちらりと視線を前方に移した。

 緑色の炎に包まれたサンショウウオの魔物が、激しく燃えたまま、こちらに向かって疾って来ていた。

 明らかに、蛟に対して攻撃する姿勢であった。

 

 前方から、炎に包まれたサンショウウオの魔物が疾って来る。

 後方からも、アマガエルの魔物が疾って来る。

 

 本来、蛟の傀儡であった2体の魔物である。

 その両方が、敵に操られ、術者である蛟に襲い掛かって来ていた。

 

 狭い洞窟の中。

 逃げ場は無い。

 普通なら、絶体絶命である。

 だが。

 みずちも普通では無かった。

 その瞬間。

 

 蛟の髪全体が、ざわりと一斉に逆立った。

 両眼が、更に青く激しく発光した。

 

ーーー

 

 「これでしばらく足止め出来るでしょう」

 

 ヴァンは疾りながら、ちらりと後ろを振り向いて呟いた。

 もう、洞窟の出口が見えていた。

 そして。

  

 ヴァンは洞窟の外に飛び出した。

 外は、濃い霧が漂う陰鬱な森だった。

 樹々の葉の隙間から、黄色く輝く三日月が見えた。

 

 「不思議ですね。どうしてこの国では、月は黄色く見えるのでしょうか」

 

 ヴァンはもう疾っていなかった。

 月を眺めて、いつものように微笑みながら、ゆっくりと歩いていた。

 その時。

 ヴァンは自分の靴の底に、ほんの僅かな振動を感じた。

 同時に、横っ跳びに跳躍した。

 ヴァンが跳躍するのと、その足下の地面から渦を巻いた水の柱が飛び出して来るのは同時だった。

 

 ヴァンは、高くそびえる水の柱を見上げた。

 思わず、微笑みが大きくなって白い歯が覗いた。

 

 水の柱の頂上から、2体の巨大な人形のような物が落下して来た。

 アマガエルの魔物とサンショウウオの魔物であった。


 ヴァンが上方を見ていたのはほんの一瞬。

 すぐに視線は下がり、自分の顔と同じ高さの位置の水の柱の中を見ていた。

 水の柱の中に、ひとつの影があったからである。

  

 その影が、飛び出して来た。

 みずちだった。

 楽しそうな笑みを浮かべていた。

 蛟の青い眼光とヴァンの赤い眼光が一瞬交錯した。

 

 蛟は青く光る右の掌を開いて、5本の指を鉤状に曲げていた。

 その右手をヴァンの顔に向かって、真っ直ぐに突き入れた。

  

 その瞬間。

 突然ヴァンの身体が、ふっ、と黒い霧に変化した。

 

 「!?」

 

 蛟の右手は、ヴァンの顔ではなく黒い霧を突き抜けていた。 

 その風圧で、黒い霧が霧散した。

 

 蛟は全神経を尖らせてヴァンの気配を探った。

 しかし、気配が全く感じられなかった。

 だが。

 

 「楽しい追いかけっこでしたよ。お礼に、先ほどの質問の答えをお見せしましょう」

 

 「!?」

 

 蛟は、周囲をきょろきょろと見回した。

 気配は全く感じられないのに、声ははっきりと聞こえるのである。

 

 「これは空間に作用する特殊魔法なんです。僕の一族が、太陽と引き換えに手に入れた能力です。この魔法は、移動距離と消費魔力が比例するので、ヨウロピからホンニは流石に疲れました……ああそれと、蛟さん」

 

 「!」

 

 蛟は身構えた。

 

 「むすっとしているより、そうやって笑っていた方が可愛いですよ。それでは、またお会いしましょう」

 

 それっきり、声は聞こえなくなった。

 気配も、まるっきり感じられなくなった。

 

 落下中だったアマガエルの魔物とサンショウウオの魔物が、地面に落ちた。

 地面から突き出ていた水の柱も、高さが徐々に低くなり、やがて消えた。

 

 蛟は、しばらくその場に留まって、ヴァンの気配をなんとか感知しようと、自らのオーラを広範囲に広げていた。

 だが、どうやっても気配を捉える事が出来なかった。

 蛟はなぜか、怒りは感じていなかった。

 悔しさも感じていなかった。

 楽しいと感じていた。

 あいつと、心ゆくまで闘ってみたい。

 そう思っていた。

 

 


  

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