第30話 極魔
真夜中。
闇が広がる天に、黄金に輝く月が浮かんでいる。
雲が多く星は見えない。
月のすぐ下に、大きな山の影があった。
その山の中は不自然なほど静かだった。
濃い霧が漂うばかりで、獣や虫などの気配が一切感じられない。
山の中腹に、岩の裂け目があった。
裂け目の内部には、水気の多い鍾乳洞が広がっていた。
その鍾乳洞の内部で、微かな足音が鳴っていた。
暗黒の鍾乳洞の中を、奥へ奥へと向かって歩いている者がいた。
その者は人間と同じ姿をしていた。
12歳か、13歳ぐらいに見えるが性別が分からない。
顔が、あまりにも中性的過ぎるのである。
仄かに青く光るくっきりとした両眼は、少年にも見えるし、少女にも見えた。
歩く度に耳の辺りまである髪が揺れていた。
髪の色は、黒が含まれた青。
青い着物を身に纏い、下駄を履いていた。
真っ暗闇だと言うのに、平坦な道を歩くように平然と洞窟内を歩いている。
両手に、盆を持っていた。
盆の上に湯呑みが2つ置かれていた。
その湯呑みから、湯気が立ち昇っていた。
その者が歩を進めて行くと、奥の方にぼやっとした青白い光が見えた。
鍾乳洞の壁面に燭台がいくつも並んでおり、蝋燭の先端に青い炎が灯って揺れていた。
青い着物姿の者が、蝋燭の前で止まった。
その青い炎が、妙な物を照らしていた。
それは、普通ならば洞窟の中にあるはずの無い、
ぴたりと閉められた障子戸が、鍾乳石の壁に埋め込まれているのである。
青い着物姿の者が、その障子戸をじっと見つめた。
すると。
その障子戸が、ひとりでに横に動き出して開いた。
柔らかい緋色の光が、青い着物を来た者の姿を照らした。
青い着物を来た者は、すっと壁の中に入った。
直後、障子戸がひとりでに動いて閉じた。
壁の中は、畳が敷かれた和室だった。
広さは、12畳ほど。
奥の方で巨大な蝋燭が2本立ち、そこで緋色の炎が燃えていた。
その炎の灯だけで、部屋は充分に明るかった。
青い着物を来た者は、下駄を脱いで、畳の上に上がった。
そして、静かに奥まで歩き、漆塗りの漆黒の机の上に、持っていた盆を置いた。
机の前に、正座の姿勢で座った。
座って、前を見た。
目線の先に、2人の男女が座っていた。
2人とも、一見すると人間の姿に見えるが人間ではない。
魔族である。
1人は、赤い着物を身に纏った人間の女の姿をしていた。
艶やかな長い髪が畳に垂れていた。
輝くような、黄金の髪である。
寒気を覚えるほどの、絶世の美女であった。
ねっとりと絡みつくような妖艶な淫気を全身から漂わせている。
この女の名前は、
そして、この玉藻は、ある通り名を持っていた。
その名は。
かつて、あらゆる種族から最凶の災厄として恐れられていた存在である。
玉藻は、赤い唇を微笑みの形に釣り上げていた。
淫気を含んだ赤い瞳で、青い着物姿の者を見つめている。
そして、玉藻の隣に座るもう1人の魔族。
筋骨隆々な身体をした精悍な顔付きの
全身の肌が、赤い。
岩のような筋肉を内包した赤い肌の上に、黒色の武闘着を着ていた。
くしゃくしゃに縮れた赤茶色の髪の毛を、オールバックの形で後ろに流している。
あらわになった額の辺りから、ねじれた2本の逞しい角が生えていた。
頑丈そうながっしりとした顎と頬に、無精髭が浮いている。
この漢の名前は、
酒呑童子は、太く立派な眉毛の下にある目を閉じて
「体調はいかがですか」
青い着物姿の者が、ぽつりと言った。
声を発しても、男なのか女なのか分からなかった。
声変わりをしていない少年の声にも聞こえるし、女の声にも聞こえた。
この者も、人間の姿をしているが人間ではない。
名を、
「……少しずつ癒えては来ておる。まだ頭に霞がかかっているようじゃがの」
玉藻が、真っ直ぐに
すると蛟は、視線を酒呑童子に移した。
眼を閉じたままの酒呑童子が、僅かにこくりと頷いた。
「これをお飲みください」
蛟が、湯呑みを持った。
まず、玉藻に差し出した。
玉藻が、その湯呑みを受け取った。
湯呑みから立ち昇る湯気を、玉藻は妖艶に光る赤い瞳で見つめていた。
「魔茶かえ」
玉藻が聞いた。
「はい」
答えながら、蛟は酒呑童子にも湯呑みを渡した。
ここで、酒呑童子が眼をゆっくりと開けた。
激しく燃え盛る炎のような赤い瞳をしていた。
右手で、湯呑みを受け取った。
「
蛟が、玉藻と酒呑童子を真っ直ぐに見据えながら言った。
「ほう」
玉藻が僅かに眼を丸くした。
酒呑童子は表情を変えなかった。
「あなた方にとっては良い滋養となるでしょう」
蛟はほとんど表情を変えずに淡々と喋っている。
「ふむ。ありがたい」
そう言って、玉藻は湯呑みを口に付けた。
こくりと、小さくひと口飲んだ。
「かたじけない」
酒呑童子が呟いた。
低く力強い声だった。
湯呑みを口に付けた。
ごくりと、喉を鳴らした。
玉藻は、微笑みを浮かべて蛟を見つめた。
蛟(みずち)も、真っ直ぐに玉藻を見ていた。
「我らを封印から解いた挙句、こうして看病までしてくれるとはの」
玉藻が呟いた。
「……」
蛟は無言で玉藻を見つめた。
「何が目的じゃ」
言いながら、玉藻は、布団の中に誘うような眼と表情で蛟をじっと眺めた。
その妖星のような赤い瞳を、蛟は青色の瞳で真っ直ぐに見返していた。
「黄龍の気配を感じるが、我らの封印を解いたのはそれが関係しているのかえ?」
玉藻が微笑みながら聞いた。
「私は、師の指示に従っているだけです」
蛟が、淡々と答えた。
「師とな」
「はい」
「誰じゃ? その師は」
「聞かれても教えるなと言われておりますので」
「ふ。そうかえ」
玉藻は白い歯を見せて笑った。
ぞっとする程の美しく妖艶な笑みであった。
「封印が解かれたのは我らだけかえ?」
「あと、
「あやつは今どこにおる」
「お一人で、どこか遠くの大陸に行きました」
「元気じゃのう。流石は邪龍と言ったところかえ」
「八岐大蛇様は、お二人よりも早く封印が解かれましたので」
「そうかえ。それより近うよれ、
「……なぜですか」
「お主の頬を撫でたいのじゃ」
「結構です」
「ふふ。可愛いのう、お主は」
玉藻が笑った。
この世の全ての雄という生き物を虜にしてしまうのではないかと思う程の、凄まじい魔性を秘めた笑みだった。
「
玉藻は、茶を飲みながら言った。
「お主と、その師とやらにの」
「……」
「俺もだ」
突然、酒呑童子が口を開いた。
蛟の視線が、酒呑童子に移動した。
燃え盛る炎のような瞳で、蛟を真っ直ぐに見ていた。
普通の生き物であれば、目が合っただけで竦み上がって動けなくなってしまうような、兇悪さと強大さを秘めた瞳である。
その瞳から発せられる視線を、蛟は平然と受けていた。
「この恩は決して忘れぬ」
真っ直ぐに蛟を見ながら、酒呑童子は茶を飲んだ。
また、ごくりと喉が鳴った。
「いつか、お前の師に会わせてくれ」
「……」
「それとも、今夜それが叶うのか?」
眼を閉じながら、酒呑童子が言った。
「……?」
蛟は、酒呑童子が言った意味が分からなかった。
「ふふ」
突然、玉藻が笑った。
蛟は玉藻に視線を移した。
「お主の師は、今夜ここに来ると言っていたかえ?蛟や」
からかうように微笑む玉藻の眼を見て、蛟は眼を丸く見開いた。
突如。
蛟の髪が、ざわりと逆立った。
蛟の超感覚が、ある影を捉えたのである。
侵入者ーーー。
という言葉が、蛟の頭の中を疾り抜けた。
どうやら招かざる何者かが、この洞窟に忍び込んだらしい。
蛟は、酒呑童子と玉藻に言われるまで、その気配に全く気付かなかった。
この洞窟はもちろん、この山自体にも、様々な結界や罠が何重にも張り巡らされている。
それらに全く感知されずに、更に、自分の感覚にも感知されずに、賊は鍾乳洞にまで辿り着いたのだ。
相当の実力者だと思われた。
そして目の前のこの2人は、その賊の気配を容易く捉えたという事だ。
「排除して参ります」
「行かんでよい」
玉藻が、止めた。
「妾はここが気に入っておる。お主と賊の闘いで壊されたら敵わぬ」
「しかし」
「向こうも只者では無いようじゃ。興味がある」
「……」
蛟は、酒呑童子に視線を移した。
酒呑童子は無言だったが、その表情が、玉藻に同感だと言っていた。
その時。
ふいに。
カツーン。
コツーン。
という音が洞窟から響いて来た。
どうやら侵入者の方も、自分の存在を気付かれた事が分かったらしい。
もう気配を隠していなかった。
堂々と靴音を鳴らしていた。
カツーン。
コツーン。
という音が、段々と近付いて来る。
底の硬い革靴を履いてゆっくりと歩いている音だった。
足音から、侵入者が、心に相当の余裕を持っているのが伝わって来た。
玉藻が、微笑んだ。
酒呑童子も、僅かに微笑みを浮かべた。
蛟(みずち)のみが、腹の底に静かに燃える怒りを湧かせていた。
その怒りが、顔にも僅かに現れていた。
髪がゆらゆらと揺れた。
「落ち着け、蛟や」
玉藻が言った。
「目覚めたばかりとはいえ、我らがおるのだぞ」
余裕に満ちた表情だった。
不思議と、その表情と言葉を聞いて、蛟の昂りかけた心が静かになった。
すると。
足音が、障子戸の前で止まった。
「ごめんください。入ってもよろしいですか?」
外から、くぐもった男の声が聞こえた。
「……」
蛟は、無言で障子戸を見つめていた。
「開けますね」
外からそう聞こえた直後。
障子戸が、横に開いた。
すると、黒いタキシードに身を包んだ男が入って来た。
その男は、微笑みを浮かべて、右手を自分の腹に当てて丁寧にお辞儀をした。
緩くウェーブのかかった銀髪が揺れた。
色白の、美女のように妖艶な雰囲気を纏った男であった。
「はじめまして。ヴァン=ドラキュリアと申します」
その声を聞いて、蛟(みずち)の髪が再びふわりと揺らいだ。
静まりかけた怒りが、再び燃えて来たのである。
ヴァンの、丁寧過ぎる態度と、余裕のあり過ぎる表情と声が、蛟の中に小さな怒りの炎を灯した。
「これまた意外な客じゃな。西の大陸の者かえ」
最初に話しかけたのは、玉藻であった。
「はい。お初にお目にかかります。玉藻さん」
ヴァンはにこりと笑みを浮かべて言った。
「我らが封印されていた間に、東と西は随分仲が良くなったようじゃの」
玉藻が、微笑みながらヴァンの眼を真っ直ぐに見つめた。
「仲が良くなったわけではないんですけどね。ただ僕は、玉藻さんと酒呑童子さんに、いつかお会いしたいと思っていたんです。お2人は、あちらでも有名ですから」
言って、ヴァンは視線を蛟に移した。
「えっと……あなたは」
ヴァンと、蛟の眼が合った。
ヴァンの赤い瞳の視線と、蛟の青い瞳の視線が、空中でぶつかった。
ヴァンは相変わらず微笑んでいる。
蛟は口を真一文字に結んでいた。
青黒い髪が、ゆらゆらと揺れている。
「そやつは妾達の世話をしている者じゃ。
玉藻が、面白いものを見ているような表情をして言った。
ふいに口元を袖で覆い、眼を細くして笑った。
「ああ、そうでしたか。はじめまして
そう言って、ヴァンは右手を差し出そうとした。
その時。
蛟の瞳が、ほんの僅かに堅くなったのをヴァンは見逃さなかった。
瞳の気配とも言うべきものが、柔らかい空気から堅い空気になったのである。
「おっと」
ヴァンはそう言って、差し出そうとした手を急に引っ込めた。
「危ない危ない。いきなり握手なんて、馴れ馴れしいですよね」
ヴァンは、微笑みながら言った。
蛟の青黒い髪が静かに揺れていた。
玉藻は、その光景を含みのある微笑みを浮かべて見ていた。
酒呑童子も、僅かに笑っていた。
今。
玉藻も酒呑童子も、あのままヴァンが右手を差し出していたら、その右手がどうなっていたかが気になって仕方なかった。
握り潰されたか、捻り折られたか、あるいは爆破されたかは分からない。
分からないが、蛟が何らかの攻撃をするであろう事を、玉藻と酒呑童子は感じ取ったのである。
握手していたら面白かったのに。
そういう微笑みを、玉藻と酒呑童子は浮かべていた。
「なぜ引っ込めたのじゃ。握手すればよいではないか」
玉藻が袖で口元を覆いながら言った。
まだ、いたずらっぽい細い眼をしていた。
「まぁ、手も洗ってないですし」
とぼけた風に、ヴァンは微笑みながら頭をぽりぽりとかいた。
「ふっ」
玉藻は鼻で笑った。
「上がってもよろしいですか?」
ヴァンは畳を見ながら言った。
「ここの
玉藻は、蛟をちらりと見た。
ヴァンも、蛟を見た。
「
「……」
蛟は無言でヴァンを見つめていた。
「ふふ」
突然、玉藻が笑った。
「会ってから数秒でここまで嫌われるとはの。それもお主の才能かえ」
くすくすくすと、肩を震わせて玉藻は笑った。
「いやぁ、僕、どうも嫌われちゃうんですよね」
ヴァンは頭の後ろをぽりぽりとかいた。
「蛟や。妾からの頼みじゃ。その者を上げてくれぬか」
玉藻が、蛟に微笑みながら言った。
「なぜ、このような者を上げなくてはならないのですか」
蛟はヴァンから視線を外さなかった。
「その者を近くで見たいのじゃ」
「……」
蛟はしばらく黙ってヴァンを見つめた。
直後、すっ、と身体を横に移動させた。
「お上がりください」
ヴァンを見つめたまま言った。
「ありがとうございます。蛟さん」
そう言って、ヴァンは前に出た。
「おっと、いけない。こっちの文化では靴を脱ぐ決まりでしたね」
言いながら、ヴァンは黒い革靴を脱いで、きちっと揃えた。
黒いソックスを履いた足で、畳の上を静かに歩いた。
「ここへ座るがよい」
玉藻が、目の前の座布団を目線で示した。
「失礼します」
ヴァンは、膝を折って、座布団に座った。
正座を少し崩したような姿勢だった。
玉藻と酒呑童子が、ヴァンを見つめた。
ヴァンはその視線を平然と受けた。
ヴァンの斜め後ろから、蛟が立ったまま、その様子を見ていた。
「いやぁ、生まれて初めての経験ですよ」
微笑みながらヴァンが言った。
「何がじゃ」
玉藻が、僅かな笑みを浮かべた。
「僕が本気で気配を消していたのに、感付かれたのは」
「あれが本気とな。修行が足りぬのではないかえ」
「はい。本当にそう思います」
そう言って、ヴァンが頭をぽりぽりとかいた時。
「本気、な。よく言うぜ」
酒呑童子が、ぼそりと呟いた。
呟いた後に、湯呑みを口に付けた。
ごくりと、喉を鳴らした。
ヴァンは、玉藻から酒呑童子に視線を移した。
ヴァンの微笑んでいる唇が、僅かに、更に横に広がった。
「舐めた
玉藻も、微笑んだまま湯呑みに唇をつけた。
「それ、
わざとらしく話を逸らすように、ヴァンが玉藻に聞いた。
「そうじゃ」
玉藻が答えた。
「凄いですね。
「ならばお主と蛟も普通では無いという事じゃな」
「はい。少なくとも匂いを嗅いでも倒れない僕と蛟さんは、そこらの生き物より強いと言えるでしょう」
「
「なんと。それは凄い」
ヴァンは、後ろを振り向いて蛟を見た。
蛟は、相変わらず無言でヴァンを見ていた。
「お主も飲んでみるかえ?」
玉藻が妖艶な瞳でヴァンを見つめて言った。
「いえ、僕は飲めませんよ」
「ふん。意外と度胸が無いのじゃな」
「ええ。玉藻さんと間接的にキスする度胸なんて、僕にはありません」
「ふっ。怖がりめが」
玉藻の笑みが、更に妖艶さを増した。
「はい。今だって怖くて仕方ないんですよ」
「まったく口が達者な童じゃ」
玉藻は微笑みながらヴァンを見つめて、茶を飲んだ。
「さて。お主がこんな極東の島国に来た理由が、そろそろ聞きたいのじゃがの」
玉藻が言った。
酒呑童子は相変わらず無言で眼を閉じていた。
「500年前の勇者達の力を受け継いだ者が現れたのを、ご存知ですか?」
ヴァンが言った。
「ふむ。詳しくは知らんが、黄龍の気配は感じておる。我らが封印された後モチダは滅んだと聞いているがの」
「そうなんですよ。モチダ一族は滅んだはずなのですが、黄龍が現れたんです。不思議ですよね。そこでですね、突然なんですけど、お二人方を今度、私の城にお招きしたいと思いまして」
「ほう」
「お身体が癒えた後で結構なのですが」
「なにをするつもりじゃ」
「まぁ、黄龍も現れた事ですし、今後について議論を交わしたいと思いましてね。東西混合で。緊急会議とでも言いますか」
「面倒じゃな」
「無理にとは言いませんけど」
「行かぬ」
玉藻は、茶を飲んだ。
横目で、酒呑童子を見た。
いつの間にか酒呑童子の姿勢が変わっている。
今は胡座の状態から左膝を立てて、その上に左肘を置いていた。
「そうですか。酒呑童子さんはどうですか」
酒呑童子に視線を移して、ヴァンが言った。
「断る」
茶を飲みながら、酒呑童子は眼を閉じた。
「う〜ん。困りましたね」
ヴァンが、頭の後ろをぽりぽりとかいた。
「酒呑童子さんには、来て頂かないと僕も困るのですが」
「……なぜだ」
酒呑童子が、真っ直ぐにヴァンを見据えた。
ヴァンも、微笑みながら真っ直ぐに酒呑童子を見た。
酒呑童子の赤い視線と、ヴァンの赤い視線が、空中でぶつかった。
そして、ヴァンが言った。
「僕の城で、預かっているんですよ、
瞬間。
その場の空気が、一気に引き締まった。
酒呑童子の燃え盛る炎のような瞳が、ほんの僅かに輝きを増した。
「ほほ」
玉藻が、口元を袖で覆いながら笑った。
「……詳しく聞かせてくれ」
酒呑童子は、茶を飲みながらヴァンを見つめた。
燃えるような赤い瞳に鋭い光が宿っていた。
「酒呑童子さんが封印されてから、いろんな輩が大嶽丸の力を欲して群がったんですけどね。まぁそこはお約束で、誰一人としてあの武器を扱える者は現れなかったんです。全てを破壊する伝説の金棒とはよく言ったものですね。あの金棒の為に、いったいどれだけの力自慢達が命を落としたか」
「そうか」
昔を懐かしむ目をしながら、酒呑童子は僅かに微笑んだ。
「その内に、大嶽丸は呪いの金棒として、誰も触らなくなったんですがね。でも、ある日、とある
「……なるほどな」
「いやぁ、びっくりしましたよ。3日ぐらい前に、突然、大嶽丸がぶるぶる震えだして。金棒なのに、なんだか凄い喜んでいるように見えたんですよ。あの震えは異常でした。あの箱に入っていなかったら、金棒に僕は殺されていたかも知れません、冗談抜きで」
「ふっ」
ここで初めて、酒呑童子が歯を見せて笑った。
頑丈そうな逞しい歯が並んでいた。
「それでピンと来たんですよね。あ、酒呑童子さんの封印、解かれたのかな、って。という事は、もしかして玉藻さんと八岐大蛇さんもかなって」
「……」
酒呑童子は微笑みながら、無言で茶を飲んだ。
直後。
不敵に笑って、ヴァンを見た。
「お前、俺に恩を売る為に、大嶽丸を手に収めていたのか」
酒呑童子がそう言うと、ヴァンも笑った。
「お見通しですね。その通りです。酒呑童子さんはとても義理堅い方だと聞いていたので」
「まぁ、俺の大切な相棒を保管してくれていたという事には、感謝しよう」
「いえいえ」
「良いだろう。近いうちに、取りに行く」
「お待ちしておりますね」
にこりと、ヴァンは笑った。
「小賢しいのう」
玉藻が微笑みながら言った。
ヴァンは、再び玉藻に視線を移した。
「よく言われます」
「でも、よいのかえ?
「いやだなぁ、玉藻さん」
「なに?」
「封印から目覚めたばかりで金棒も何も持たない今の酒呑童子さんでも、暴れたらとても手に負えませんよ」
「ふっ」
それを聞いた玉藻と酒呑童子は同時に鼻で笑った。
「玉藻さんも、気が変わったら是非お越し下さいね。お迎えにあがりますから」
「まぁ、考えておくとするかの」
「良い返事をお待ちしておりますね。しかし、いったい誰なんです? 玉藻さんと酒呑童子さんの封印を解いた命知らずは。
「蛟に直接聞いてみるがよい」
いたずらっぽく笑う玉藻に言われて、ヴァンは後ろを振り向いて蛟を見た。
口を開きかけたその時。
「私の師が封印を解きました」
冷たい口調で、蛟が言った。
微笑んだまま、ヴァンは返した。
「そうですか。それは3日前ですか?」
「違います。それぞれの禁足地から、
蛟が、やや早口に言った。
苛つきが見え隠れする声色であった。
「なるほど」
蛟の不機嫌さに気付いた上で、ヴァンは微笑みを崩さずに返した。
ヴァンは少しの間、顎先に親指を当てて考えを巡らせた。
納得した事がいくつかあった。
まず、玉藻と酒呑童子がなぜこの山のこの鍾乳洞の中にいるのか疑問だったが、その謎は一応解けた。
玉藻が封印されていると伝えられていた場所の名は、このホンニ列島にある
酒呑童子が封印されていた場所は、鬼ヶ島という名の離島であるはずだった。
何者も立ち入る事の出来ない土地として、その場所は禁足地と呼ばれていた。
そして、玉藻が封印されている秘石の名を
その殺生石と獄焔樹には、誰も触れる事すら出来ないはずであった。
だが。
蛟が師と呼ぶ何者かが、結界を破り、その二つをここまで移動させた。
鬼ヶ島から獄焔樹が移動した折に、酒呑童子が愛用していた金棒【大嶽丸】が共鳴して震えたと考えられる。
そしてこの部屋でこの2人は眼を覚ましたという事らしい。
復活してからまだ1日も経っていないという事か。
何者だ、とヴァンは思った。
蛟の師というのは、いったいどんな姿なのか。
ヴァンは、あえて聞いてみた。
「蛟さんのお師匠様は、只者ではありませんね。良ければお名前を教えて頂けませんか」
「お答えする必要はありません」
淡々と、蛟が答えた。
蛟の声に、静かな怒りが含まれていた。
「そうですか。ちなみに、八岐大蛇さんもお師匠様が復活させたのですか?」
「そうです」
「八岐大蛇さん、ジュラシック大陸でひと暴れしていましたよ。恐竜達の王に殺されるかも知れません」
「そうですか」
「殺されても良いんですか?」
「私が気にする事ではありませんので」
口調は冷淡だったが、蛟は明らかに苛ついていた。
ヴァンは軽く微笑んでいた。
「恐竜如きが八岐大蛇を殺せるのかえ?」
ふいに、玉藻が口を開いた。
不思議そうな顔をして、ヴァンを見つめていた。
「はい。今の恐竜の王は異常な強さを持ってましてね。地上最強の魔物と呼ばれていますが、あながち間違ってもいないんです」
「ほう」
玉藻が、茶を飲んだ。
酒呑童子も、無言で茶を飲んだ。
「しかし、気になりますね。蛟さんのお師匠様は、何が目的なのでしょうか」
「ふっ。えらく必死じゃな。我らが目覚めると何か不都合があるのかえ?」
玉藻がいたずらっぽく笑った。
「いえ、嬉しいんですよ。尊敬するお2人に出会えて」
「お主は嘘付きだからのう。信用出来ぬわ」
「いや、僕もそんなに嘘ばっかりついているわけじゃないんですけどね」
目を細くして笑いながら、ヴァンは頭をぽりぽりとかいた。
そして、膝を立てて立ち上がろうとした。
「さて、僕はそろそろ帰らせていただきますか……ああ。そうだ」
ヴァンは、立ち上がると同時に、一瞬だけ左手をタキシードの中に入れた。
服の中から出て来た左手には、2本の赤い薔薇に似ている植物が軽く握られていた。
「
「なんとまぁ」
玉藻は僅かに眼を大きくした。
「この花の香りを嗅ぐだけでも、あなた方であれば滋養となるでしょう。置いておきますね」
そう言って、ヴァンはその植物を机の上に置いた。
そして、後ろを振り向いた。
振り向いて、ぴたりと、身体を止めた。
視線の先には、蛟がいた。
蛟が、ヴァンの行手を塞ぐように立ちはだかって、無言で真っ直ぐにヴァンを見つめていた。
その視線に、明らかに獰猛な気が含まれていた。
ヴァンは、微笑みを崩さない。
蛟は、口を真一文字に結んでいた。
「ほほ。
玉藻が、袖で口元を覆って笑った。
酒呑童子も、にやりと笑った。
何か面白いものが、これから見られそうだと期待している笑みであった。
「ヴァンとやら。果たして無事に生きて帰れるかえ?」
玉藻が楽しそうな表情を浮かべて言った。
「う〜ん困りましたね」
また、目を細くして笑いながら、ヴァンは指で頭をぽりぽりとかいた。
「……」
蛟は無言で真っ直ぐにヴァンを見つめていたが、ふいに口を開いた。
「なぜ、ここが分かったのですか」
言われてから、ヴァンは優しく微笑んだ。
「正直に言いますね。このホンニに、僕の友達がいるんです。その方に、おおよその位置を教えて頂きました」
「この山には結界を張っています。気配が漏れる事は無いはずですが」
「ええ、確かに強力な結界です。結界に落ち度は無いんですよ。でも、まぁ、何というか、玉藻さんと酒呑童子さんが、強過ぎるんですよ。その生命力や、魔力や精神力、その他諸々が。その上、二人して気配を消して身を隠そうって気が無いじゃないですか。堂々とし過ぎなんですよ。だから、いくら優秀な結界でも、漏れ出ちゃうんですよ、お二人の気配が」
聞いていた玉藻と酒呑童子が、お互いに目を合わせた。
2人とも、ほんの僅かに蛟に申し訳ないような気持ちが生まれた。
ヴァンは続けて言った。
「なのでもし、玉藻さんと酒呑童子さんが本気で気配を抑えたら、見つける事は不可能でしょうね。出来たらそれは、して欲しくないんですけどね」
「あなたはどうやって結界を突破したのですか」
「う〜ん」
ヴァンは、困ったように笑って、顎の先を指でぽりぽりとかいた。
「それを言う事は、僕の切り札を打ち明ける事と言えるんです。それはつまり僕の生命に関わります。その質問に答えるのは、ご勘弁願えませんか」
「……」
しばらく黙っていた蛟だが、すっ、と、無言で身体を横にずらした。
「ありがとうございます。蛟さんも、良かったら僕の城に来てくださいね」
そう言って、ヴァンは蛟の前を横切った。
蛟は、無言でヴァンを見続けた。
ヴァンは靴を履いて、障子戸の前で一礼した。
「では、お邪魔しました。ゆっくりお休みになられてください」
ヴァンが言った瞬間。
背後の障子戸が、突然、ひとりでに動いた。
「外までお見送りします」
蛟が、ヴァンを見つめながら言った。
眼が僅かに青く輝いていた。
蛟が魔法で障子戸を開けたらしかった。
玉藻と、酒呑童子は、相変わらず含み笑いを浮かべながらヴァンと蛟を見ている。
「なんだか悪いですね」
ヴァンは微笑みを崩さなかった。
「お気になさらず」
表情を変えずに、蛟が言った。
ヴァンは玄関先から、一歩外に出た。
部屋から一歩出ると、そこは鍾乳洞である。
洞窟内の空気は、湿っていた。
洞窟の天井には先の尖った円錐状の鍾乳石がびっしりと生えており、先端に水滴が溜まっていた。
ヴァンの身体が、完全に部屋から出た。
洞窟に足を踏み入れた。
鍾乳石の先端に溜まっていた、一粒の水滴が、落ちた。
その水滴は、そのまま行けばヴァンの目の前の地面に落ちる軌道だった。
落ちている水滴が、ヴァンの顔の高さまで降りた。
その瞬間。
落下途中の水滴が、いきなり直角に折れ曲がった。
ヴァンの顔目掛けて、弾丸のように空気を裂いて疾り出したのである。
ヴァンは、目にも留まらぬ速さで顔を振って、その水滴を避けた。
髪の毛の何本かをかすって、引きちぎられた銀色の髪の毛が、ぱらぱらと舞い落ちた。
一瞬、ヴァンは蛟を見た。
蛟もヴァンを見ており、眼が青く輝いていた。
ヴァンはにやりと歯を見せて笑った。
直後、洞窟の出口へ向かって疾り出した。
すると、蛟もヴァンを追って疾り出した。
「これこれ。蛟や」
くすくすと笑いながら、玉藻が言った。
玉藻の顔の前に、酒呑童子の右手が伸びていた。
その右手の、人差し指と中指で何かを挟んでいた。
その何かは、2本の指の間で、ぎゅるぎゅると高速回転していた。
やがて、その回転が止まった。
回転が止まると同時に、その物体はなくなっていた。
蒸発したのである。
それは、水滴だった。
水滴の弾丸は、ヴァンの髪の毛をかすって、そのまま真っ直ぐに空中を疾った。
その直線上に、玉藻の顔があったのである。
水滴の弾丸が、玉藻の顔に当たる寸前。
酒呑童子が、右手を伸ばして、指2本でその水滴の弾丸を止めた。
そして、2本の指に挟まれたまま回転していた水滴は、摩擦熱によって蒸発したのであった。
「大人しそうな顔して、意外と血の気があるんだな。蛟も」
笑いながら、酒呑童子が言った。
「蛟が怒るのも仕方ないえ。あの童の舐めた態度を見せられたらのう」
玉藻も笑っていた。
笑いながら、ヴァンが置いていった赤い花を手に取った。
そして、整った形の鼻の前に持っていって、その香りを嗅いだ。
「本当に舐めた童じゃ。あやつ、日常的に魔滋蘇禍を飲んでおるぞ」
「俺もそんな気はしていたが。あんたがそう思う根拠はなんだ?」
「女の勘じゃ」
「なるほど」
言うと、酒呑童子も赤い花を持った。
「それは信用出来るな」
そう言って、酒呑童子も花の香りを嗅いだ。
開け放たれた扉の向こうから、岩と岩が当たるような音が聞こえてきた。
他にも、水が跳ねる音、空気を裂くような音が、断続的に聞こえてきた。
「まったく。
玉藻が、笑いながら茶を飲んだ。
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