第28話 凶風 ①
静寂に包まれた白銀の森の中に、細かな雪がちらちらと舞っている。
そんな森の中を、焦げ茶色の毛皮に覆われた大きな生き物が歩いていた。
ヒグマの魔物。
名は、ヒグマオ=ヒグマヒ。
男。
身長が180センチほどあった。
肩幅も広く、焦げ茶色の毛皮の下は岩のような筋肉が盛り上がっていた。
その男は凶悪な雰囲気を醸し出す肉体に反して、なんとも穏やかで優しい眼をしていた。
「ねぇ、クズリン」
そのヒグマオが、自分の左隣を歩く魔物に声を掛けた。
全身が黒い獣毛に覆われており、背中には白い縦線の模様があった。
体格は小柄であり身長は100センチ程しかない。
だがその顔には常に不敵な笑みが浮いており、全身から獰猛な雰囲気を滲ませていた。
クズリの魔物。
男。
名は、クズリン=クロアナグンマ。
「あん?」
クズリンが、前を見ながら返事をした。
「あの変態マッチョ、いつまでここにいるんだろうね」
「さぁ」
答えながらクズリンは、2年程前にふらりとこの雪山にやって来た男の姿を思い描いていた。
あの
例外はあるが、基本的に
更にあの男は、常夏の南の島出身のウミイグアナの魔物なのだ。
ここに来るまで、雪すら見た事もなかったらしい。
そんな男が、この極寒の地の突き刺すように冷え切った滝に毎日打たれているのである。
「前にさぁ、あいつに聞いてみたんだ」
前方を眺めながら、ヒグマオが言った。
「なにを?」
「いつまでこの山にいるのって」
「それで?」
「そしたらさ、いきなり、すまない、って謝って来てさ。もう少しこの滝を使わせて欲しいって言って来たんだ」
「へぇ」
「こっちは別に追い出すつもりで聞いたんじゃなかったんだけどさ。あいつ、自分の事ほとんど話さないけど、悪い奴では無いんだよなぁ。謙虚だし。変態だけど」
「まぁ、な」
クズリンはあの変態マッチョの姿を思い浮かべた。
身長195センチで筋骨隆々の巨漢。
麓の村には住まず、ひたすらに山に籠っている。
あの身体と修行方法からして、相当の強者だと思うのだが、どれ程の戦闘力を有しているのかはよく分からない。
何度か喧嘩をふっかけてみたが、こちらの挑発には決して乗って来なかった。
その内にこちらもちょっかい出すのが馬鹿らしくなって来て、ここ最近は関わっていなかったのだが。
「あとね、あいつ、この山の空気が好きなんだってさ」
「そうか。まぁ、澄んでるからな」
「うん。本当に美味しいよね、ここの空気」
そう言って、ヒグマオは立ち止まり、喉を垂直に立てて天を仰ぎ両眼を閉じた。
クズリンも足を止めて天を向き、眼を閉じて深く息を吸った。
清浄な空気が鼻から流れ込んで来るのを感じた。
その空気を、ゆっくりと口から吐く。
身体の中が、清らかな酸素に満たされる。
内臓がきらきらと輝いて来るような感覚がした。
気持ちが良かった。
自然と、2人の口が微笑みの形になっていた。
また、鼻から空気を吸った。
それを、ゆっくりと口から吐き出す。
気持ちが良かった。
「あんた達、何やってんの?」
突然、女の声が聞こえた。
2人は慌てて顔を戻した。
前方に、美しい白と黒の毛並みをした魔物が立って、冷めたような目で2人を見ていた。
ユキヒョウの魔物であった。
身長は170センチほど。
ほっそりとしなやかな身体付きをしていた。
名は、ユキ=ユキヒョウコ。
「なんだユキか。気配も無く忍び寄るなよ。びっくりするじゃねぇか」
クズリンが不機嫌そうな顔で言った。
「びっくりしたのはこっちだよ。2人でなんかにやにやしてるんだもん」
眉をひそめながらユキが返した。
「深呼吸だよ。ユキもやってみなよ」
「いや、いい」
ヒグマオが勧めると、ユキは真顔で顔を横に振った。
「ユキ、お前こんなとこで何してるんだ?」
クズリンが聞いた。
「ロウさんのところに行く途中」
「お前も招かれたのかよ」
言いながらクズリンは露骨に嫌そうな顔をした。
「え、あんた達も?」
「おう」
「めんどくさ」
ユキは残念そうな顔をした。
「めんどくせぇのはこっちだ」
クズリンが、僅かに牙を剥き出した。
「ちょうど良いじゃん。3人で一緒に行こうよ。めでたい席なんだしさ」
そう言って、ヒグマオは穏やかに笑った。
今、この3人の魔物は東に向かっていた。
このまま向かうと、一本の吊り橋が掛かった谷にぶつかる。
その谷を超えた先に広がる森の中に、狼の魔物達が住む村があった。
その村の長の名は、ロウ=オオカム。
この度ロウの息子が結婚する事になり、祭りを行うという報せがこの山に流れた。
その祭りの日が、今日だったのである。
ーーー
3人は雪を踏みながら森の中を歩いた。
雪がちらちらと舞っている。
「……あの変態、まだ滝に打たれてるの?」
ユキが、ヒグマオを見ながら言った。
「うん。さっきもその話したんだけどさ。毎日毎日飽きもせず滝に打たれてるよ」
「南国育ちであれはヤバいっしょ。あの滝に打たれるなんてこの辺の魔物だって簡単な事じゃないのに」
言ってから、ユキはあの男の姿を思い出した。
身長195センチ。
岩のような筋肉を全身に纏いながらも、その動きは鈍重ではなく極めてしなやかだった。
どこか信念の強さを感じさせる、黒い瞳の持ち主だった。
ウミイグアナの魔物。
名は、イグアニオ=ウミーグアノといったか。
「やっぱユキも気になる? あいつ」
ヒグマオがユキを見下ろしながら聞いた。
「いや、私はどうでも良いんだけどね、リルファさんが気にしてるの。自分よりも強いかも知れないってさ」
「へぇ! そこまで言わせるか。やっぱりあの変態相当強いんだろうな」
「絶対リルファさんの方が強いと思うけど」
言いながら、ユキはリルファの姿を胸に浮かべた。
古来より寒冷地の支配者たる魔族、
リルファ=フェンリリィ。
その姿は美しく気高く、幼い頃からずっと憧れの存在だった。
その想いは、今も変わらない。
「リルファさんも来るのか? 祭り」
クズリンが、ぼそりと呟いた。
「気が向いたら行くって」
ユキは無表情で返した。
「そうか」
クズリンの視線が、僅かに下に下がった。
その視線の動きを察知したユキは、僅かに微笑みを浮かべた。
「残念だった? クズリンあんた、硬派を気取ってるけどリルファさんには弱いもんね」
「なに!?」
クズリンの頬が紅く染まった。
「ま、諦めなよ。華やかなリルファさんと、凶悪な貌をしたあんたじゃ少しも釣り合わない」
「てめぇっ!」
クズリンが牙を剥き出して吠えた。
「まぁまぁ、あ、見えて来たよ」
ヒグマオが穏やかな表情で言った。
3人の前方に谷とそれに掛かる一本の吊り橋が見え始めた。
「……?」
3人全員が、不思議そうな顔をした。
「何か、妙じゃねぇか?」
最初に口を開いたのはクズリンだった。
「うん。なんだか静か過ぎるね」
ヒグマオも、真顔になっていた。
「……」
ユキは何も言わなかった。
谷の向こうの森から、何か妙な気配が立ち昇っているのを感じていた。
とても嫌な感じがした。
気持ち悪い気配だった。
言いようのない胸騒ぎがした。
「本当に静かだな。神妙な儀式でもやってんのか」
クズリンが言った。
普段であれば、この場所は、必ず何人かの狼の魔物達がいたはずであった。
ここを通る度に彼等と気楽に挨拶を交わしたものだった。
今は、そんな気配が全く感じられなかった。
その時。
空から舞っている雪が、ふわりと、谷の向こうからこちら側に向かって揺らいだ。
僅かな、柔らかい風が吹いたのである。
その瞬間。
3人の身体に、一瞬電流が疾り抜けた。
揃って目を丸く見開いた。
風に、血の匂いが混ざっていたからである。
3人の毛皮が、ざわりざわりと逆立ち始めた。
毛皮の下の肉が硬ばった。
無意識の内に、身体が臨戦態勢に移行していた。
臨戦態勢に入ったものの、オーラを迸らせる事も殺気を解き放つ事もなかった。
なぜならその行動が、自分達を危険に晒すという事をこの3人は知っていたからである。
3人は、真っ直ぐに橋の向こうを見据えた。
狼の魔物達に何かがあったのだ。
直感でそう思った。
誰も、口を聞かなかった。
無言で、吊り橋に足を進めた。
ーーー
吊り橋を渡っている時も、雪を踏んでいる今この時も、3人は足音を全く立てなかった。
気配も完全に消していた。
雪がちらちらと舞う、無音の森である。
時折、枝から雪が落ちる音と、小鳥の鳴き声が聞こえるだけであった。
森の中を進む度に、血の匂いが濃くなって来た。
匂いが濃くなって行くに連れて、3人の顔に緊張の色が浮かんだ。
狼の魔物達の村は、もうすぐそこだった。
3人は、それぞれ樹の影に身を隠した。
最も身体の小さいクズリンが、1番前の樹の影に隠れた。
そっと顔を出して、村の様子を伺った。
「!?」
クズリンは目を見開いた。
一瞬遅れて、ユキとヒグマオも、その光景を見て目を見開いた。
危うく声を出しそうになった。
村のほぼ全ての家や小屋が、嵐が通り過ぎた後のように崩れて木材が乱雑に散らばっていた。
その中で、赤いものが異様に目立っていた。
血であった。
白い雪の地面に、血が所々広がっていた。
そして、無数の狼の魔物達の死体が転がっていた。
「……!」
クズリンの体温が一気に上がった。
その光景に、眼が釘付けになった。
なんだ。
なんだこれは。
いったい、何が。
誰がこんな事を。
ちらりと、後ろを振り返った。
同じく驚愕の表情を浮かべているユキとヒグマオと眼が合った。
その時。
3人の耳に、何か異質な音が聞こえて来た。
すー。
すー。
というような、呼吸音のような、寝息のような音だった。
生存者か。
生存者がいるのか。
3人が思った事は、同じだった。
無言で、こくりとうなずきあった。
3人は静かに、かつ俊敏に村の中へと入った。
狼の魔物達の死体は、惨かった。
どうやら何か鋭利なもので切り裂かれたらしい。
首や、腹、顔など、身体の至るところに大小様々な傷があった。
大人も子供も同じであった。
血も、露出した内臓も凍っていた。
死後、数時間経っているらしい。
3人は、死体を横目に、音のする方を目指して俊敏に動いた。
そしてどうやら、かろうじて形を保っている村長の家の中から、音が聞こえて来るようだった。
入り口の扉が、大きく開け放たれていた。
3人は、身を屈めて村長の家の入り口を見つめた。
その時。
入り口の中から、何かがころころと転がって来た。
酒瓶だった。
空っぽの酒瓶が、転がって来たのである。
すー、すー、という音は、もうはっきりと聞こえる。
明らかに、寝息だった。
何者かが、この家で寝ているのは確実だった。
クズリンが、入り口のすぐ前まで忍び寄った。
そして、こっそりと中を伺った。
「……!」
白と黒の毛皮の魔物が見えた。
白い毛皮に、黒い線の模様が入っている。
その黒が、色褪せて、灰色に近くなっていた。
高齢の、ホワイトタイガーの魔物らしかった。
その魔物は、胡座をかいた姿勢で、壁に背を預けて腕を組みながら眠っていた。
周囲に、空の酒瓶や、ひょうたんが転がっていた。
その魔物の目の前に、村の長、ロウ=オオカムの死体が仰向けに転がっていた。
腹が大きく切り裂かれていた。
腹の中身が、無くなっていた。
クズリンは、とりあえず身を引こうとした。
後ろから、ヒグマオとユキが中を覗こうとしていた。
その時。
「だれだい」
しわがれた声がその家の中に響いた。
クズリンの体毛が一気に逆立った。
ユキとヒグマオの体毛も針のように逆立った。
眠っていた魔物が、顔を上げていた。
眠たそうな青い瞳が、クズリン達を見つめていた。
クズリンは、驚愕と同時にある直感を抱いていた。
こいつ。
こいつ、は。
もしか……して。
「くあ……」
高齢の魔物は、大きく口を開けてあくびをした。
クズリンは汗の吹き出た驚愕の表情で、思わず呟いた。
「……びゃ……
「ん? なんだ、わしを知ってるのか小僧」
白虎が、にやりと笑いながら答えた。
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