第27話 筋トレの効能

 夜。

 廃墟のように壊れた玄関ホールに、恐竜の魔物達が集まっていた。

 恐竜達は、皆、静かな殺気を立ち昇らせていた。

 殺気を放ちながら、ある1人の男を取り囲んでいるのである。

 取り囲まれている男は、余裕を浮かべた表情で、背中を大理石の柱に預けて、微笑みながらワイングラスに入った赤い液体を飲んでいた。

 男の名前は、ヴァン=ドラキュリア。

 

 

 ーーーほんの数分前の事。

 

 黄昏時と夜のちょうど境目の時。

 宮殿の玄関から、ヴァンは堂々と入って来た。

 ヴァンが玄関のすぐ前に現れるまで、誰もその気配に気付かなかった。

 ヴァンは壊れた玄関の前で、丁寧にお辞儀をして、涼しく微笑みを浮かべた。

 

 壊れた玄関ホールを修理していた恐竜達は、即座にヴァンを取り囲んだのである。

 

 

 囲まれてもなお余裕の表情を崩さないヴァンのその態度に、恐竜達の腹には沸々と怒りが沸き始めていた。

 

 廊下の方から、凄まじい殺気と共に足音が聞こえて来た。

 ティラノサウルスの魔物が、姿を見せた。

 レックス=ティーレックスである。

 殺気と怒気が合わさった凶悪な熱を放っているレックスの後に、テイラー、プテラ、シソジィが続いていた。

 

 レックスの瞳に、ヴァンの姿が映った。

 その瞬間、顔にびきびきと血管が浮かび上がった。

 

 「っとに腹立つ小僧だよてめぇは」

 

 牙を剥き出した凶暴な顔で、レックスはヴァンに向かって真っ直ぐに歩いて行った。

 取り囲んでいた恐竜達は、レックスの為に道を開けた。

 そのままレックスは止まらずに歩いた。

 レックスの身長は230センチほど。

 ヴァンの身長は176センチほどである。

 ヴァンは微笑みながらレックスを見上げて言った。

 

 「突然お邪魔してすみません。今日はいろいろと大変でしたね」

 

 「のこのこツラ出したこと後悔させてやるよ」

 

 近付いた瞬間。

 いきなり、レックスは右の拳をヴァンの顔に向けて疾らせていた。

 

 「おっと」

 

 ヴァンは頭を下げた。

 頭のすぐ上を、レックスの右の拳が疾り抜けて行った。

 拳は後ろの大理石の柱を掠めていた。

 小指が、柱と僅かに接触した。

 柱が、抉れた。

 大理石の破片が、周囲にいた恐竜達の方へ飛んで行った。

 

 「おわっ!?」

 

 飛散方向にいた恐竜の魔物達が、飛んで来た欠片を身を捻ったり脚を上げたりして避けた。

 

 「ちょっと、話を聞いてくださいよレックスさん」

 

 ヴァンが体勢を立て直しながら言った。

 右手に持ったワイングラスの中の液体は、少しもこぼれていなかった。

 相変わらず、楽しそうな微笑みを浮かべている。

 

 「おう聞いてみてぇな。てめぇと八岐大蛇が作戦立ててる時の会話をよ」

 

 言い終わる前に、レックスの左脚が跳ね上がっていた。

 岩の如き筋肉で覆われた丸太のようなレックスの左脚は、このまま進めばヴァンの胴体を真横にぶっ叩く軌道を描いていた。

 重々しい左の回し蹴りである。

 

 ヴァンは、その場で真上に跳躍した。

 両方の膝を、胸に抱え込んだ。

 ヴァンの両方の足の裏すれすれを、レックスの左の脛が疾り抜けて行った。

 レックスの足の甲が、柱に激突した。

 ぼがんっ、と派手な音が鳴った。

 大理石で出来た柱が、砕け折れた。

 

 大理石の破片が、散弾銃のように広がって、飛散方向にいた恐竜の魔物達に飛んで行った。

 

 「うわっ!」

 「危ねっ!」

 

 各々の方法で、恐竜の魔物達は破片を避けた。

 

 ヴァンは、膝を抱え込んだ姿勢で空中にいた。

 右手に持ったワイングラスの中の液体は、揺れはしたもののこぼれていなかった。

 跳躍した為、ヴァンとレックスの目線が同じ高さになっていた。

 相変わらず、ヴァンは涼しげな微笑みを浮かべている。

 

 「誤解ですよそれ。僕と八岐大蛇は繋がっていません」

 

 ヴァンは膝を胸に付けたまま落下を始めた。

 

 「知るか。そうだとしてもてめぇのツラが気に食わねぇ」

 

 落下するヴァンに合わせるように、今度はレックスの右脚が跳ね上がった。

 床から、天井へ跳ねる軌道を描いていた。

 ヴァンが空中で横に移動でもしない限り、レックスの右脚がヴァンの身体に直撃するのは確実であった。

 ヴァンは空中で横に移動する術など持っていない。

 だが代わりに、天才的な格闘センスを持っていた。

 

 レックスの右脚が、ヴァンの身体に当たる寸前。

 ヴァンは、抱え込んでいた両脚を僅かに移動させた。

 そして、揃えた両足の裏で、レックスの蹴りを受けたのである。

 蹴りの威力に逆らわずに、足の裏から伝わって来た力をそのまま利用し、力の方向にあえて跳ばされた。


 ヴァンの身体は、天井付近にまで到達していた。

 そこで、ヴァンは身体を丸めたまま、くるくると回転した。

 回転しながら落下した。

 そして、床に、羽毛のように軽く着地した。

 ワイングラスの中の液体は、こぼれていなかった。

 ヴァンと共に回転していたが、遠心力で中の液体はこぼれなかったのである。

 涼しい微笑みを浮かべながら、ヴァンはレックスを見て言った。

 

 「僕は敵じゃないですよ」

 

 「じゃあ餌だ」

 

 レックスが、左の拳を握った。

 ヴァンの顔面に、狙いを定めた。

 

 「僕と、協力しませんか?」

 

 「あ?」

 

 レックスの左正拳がヴァンの顔面に襲い掛かった。

 ヴァンは首を曲げて顔を逸らして、その正拳突きを躱した。

 

 「おそらく、トカゲ君と八岐大蛇……ヒミコでしたっけ? は、一緒にいます。協力して探しません? 勿論、報酬は山分けです。ヒミコはレックスさんに。トカゲ君は僕が頂きたいのです」

 

 「何企んでやがる」

 

 レックスの攻撃が止まった。

 ヴァンは微笑んだまま、ワイングラスの中の液体を一口飲んでから言った。

 

 「企むも何も、一緒に組めば、僕にもレックスさん達にもメリットがあるんじゃないかなって思っただけですよ」

 

 「てめぇみてぇなクズと組むわけねぇだろ」

 

 「言い方を変えましょう。レックスさん達の力になりたいのです」

 

 「いらん」

 

 「八岐大蛇はトカゲ君の力を利用した雷跳で、相当遠くまで行ったと思われます。この大陸を出ているかも知れません。いくらレックスさん達でも見つけるのは困難じゃないですか?」

 

 「てめぇなら簡単に見つけられると?」

 

 「仲間から情報が入って来るんです。それに、トカゲ君がまた魔邪羅もどきになれば、正確な位置が分かりますし」

 

 「なぜ俺たちに絡んで来る? てめぇらだけで勝手にやってりゃ良いじゃねぇか」

 

 「だから、あなた方の力になりたいだけなんですよ。だって僕、あなた方の事好きですし。もっと仲良くなりたいんです」

 

 「あ?」

 

 「本心ですよ。まぁ正確に言えば、レックスさんが好きなんですけど」

 

 「俺はてめぇが嫌いでしょうがねぇ」

 

 「ショックだな。僕はあの日から、貴方に恋い焦がれているというのに」

 

 「ごちゃごちゃうるせぇ」

 

 ヴァンは、赤い液体を飲みながら、ちらりと周りを見渡した。

 相変わらず、周囲を取り巻く恐竜達から殺気と怒りが込められた眼で見られていた。

 それがなんだか面白くて、微笑んでいる唇が、更に釣り合がった。

 再び視線をレックスに移した。

 

 「レックスさん、知ってますか? 男にはね、自分より強い男に従順に従いたいという本能があるんですよ。正直、僕も恐竜の魔物に生まれたかった。貴方のような男が、リーダーなら」

 

 「てめぇが恐竜じゃなくて良かったぜマジで」

 

 「ふふ。まぁ、僕がヴァンパイアとして生まれたのにも、何か意味があるのでしょう。ヴァンパイアとして生まれたから、あの日に、貴方に救って頂けたのですから」

 

 「あん時にガキのてめぇを殺しておきゃ良かったかな」

 

 「嘘は行けませんよレックスさん。優しい貴方がそんな事思うはずが無い」

 

 「そんなに甘く見えるか?」

 

 「はい。貴方は最強だが少し甘い所がある。そこを誰かにつけ込まれないように気をつけてくださいね」

 

 ヴァンが言い終わらないうちに、ヴァンの顔の皮膚はざわざわとした何かを感じた。

 その瞬間にはもう、ヴァンは半歩後ろに下がっていた。

 同時にヴァンの鼻先を、レックスの右の拳が疾り抜けて行った。

 

 「ちょっと、話はまだあるんですよ」

 

 「うるせぇ」

 

 「とりあえず、先程の話をまとめましょう。目撃情報があったり、トカゲ君の居場所が分かったら、レックスさんに報せます」

 

 「俺達があいつらを見つけてもてめぇには教えねぇぞ」

 

 「構いませんよ。ではその話はそういう事で良いですね。次の話も結構重要なんですけど。あのですね、どうやらトカゲ君の事で」

 

 レックスが左の拳を握った。

 それをヴァンの顔に向けて真っ直ぐに放った。

 

 「四天王の一角が動き回っているらしいんです」

 

 ぴたり、と。

 ヴァンの鼻先でレックスの左正拳が止まっていた。

 ヴァンの前髪が、向かい風を受けたように、ふわりと揺らいだ。

 ヴァンは横にも後ろにも少しも動いていなかった。

 レックスが拳を寸止めするという事を、確信していたのである。

 

 「なぜてめぇにそんな事が分かるんだ」

 

 「魔族はね、仲悪い奴らは本当に仲悪いんですが、仲良い同士は本当に仲が良いんです。危険があったりすると、ちゃんと情報が回ってくるんですよ」

 

 「四天王は全員隠居してるだろう」

 

 「それがですね、トカゲ君は魔邪羅もどきにもなれるし、勇者もどきにもなれるじゃないですか。雷跳とか黄龍の気配で、何か昔の血が滾ってきちゃった四天王のお爺ちゃんがいるんです。誰だと思います?」

 

 「……白虎びゃっこか」

 

 「正解です。四天王の中で最も凶暴と言われたあのお爺ちゃんが、どうやらトカゲ君を探し回ってるらしいんです。あのお爺ちゃんがトカゲ君に辿り着くのは時間の問題です」

 

 「……」

 

 「そうなると、レックスさんと白虎が鉢合わせる可能性が出て来ますよね」

 

 「てめぇ」

 

 ヴァンを睨み付けるレックスの眼に、更なる凶暴な光が宿った。

 ヴァンの微笑みが、更に広がった。

 吸血鬼特有の長い犬歯は見当たらず、白く整った歯並びが覗いた。

 

 「僕の情報網は広いんですよ。レックスさん、昔、白虎と戦った事があるんですよね?」

 

 「なっ!?」

 「何ですと!?」

 

 レックスは無言だったが、周囲の恐竜達がざわつき始めた。


 「レックスさん。僕はね、本当に貴方の事を尊敬しているんです。あの白虎と何回も闘って生きている生物は世界広しと言えど貴方だけです」

 

 「……あれは闘いとは言わねぇよ。俺が一方的にやられただけだ」

 

 レックスは自分が世界中を独りで彷徨っていた時の事を思い出した。

 旅に出て4年程が経ち、12歳になっていた頃だった。

 訪れる先々でいろんな奴等と闘ったが、その全てに勝って来た。

 子供ながら、父親以外に自分より強い者はいないと思っていた。

 そんな時に、偶然、老齢のホワイトタイガーの魔物と遭遇したのである。

 ひと目見ただけでとてつもない強者であるという事が分かった。

 レックスは自分の力を試さずにはいられなかった。

 出会ったその瞬間に、その魔物に襲い掛かり、闘いが始まった。

 闘いが始まってから、その魔物が500年前に活躍した四天王の白虎であるという事が分かった。

 まるで勝負にならなかった。

 完膚なきまでに、叩きのめされた。

 自分はここで、死ぬのかと本気で思った。

 だが、死ぬ前に、何か1つでも、僅かでも、相手に傷跡を残そうと思った。

 相手の小指の一本だけでもへし折ってから、死のうと思った。

 目玉の1つでも抉ってから、殺されようと思った。

 そういう想いが、血塗れの顔の中に光る眼に宿っていたらしい。

 死の間際までそういう眼光を放っていた自分を、白虎は気に入ったらしかった。

 自分の顔を踏み付けながら、白虎が言った言葉は今でも覚えている。

 

ーーー

 

 「良いじゃねぇか小僧。わしゃあ、てめぇみてぇな奴は好きだぜ。殺さないでおいてやるよ」

 

ーーー

 

 初めて白虎に遭遇し、闘かったその日から、レックスは毎日のように白虎に闘いを挑んだ。

 レックスは毎回、失神するまで闘った。

 闘う度に大怪我を負った。

 身体が癒えたらすぐに白虎の匂いを辿り、白虎が寝ていようが食事中だろうが構わずに襲い掛かった。

 気配を消して寝込みを襲ったり、待ち伏せしての不意打ちも幾度となくやった。

 隠し武器も使ったりした。

 それでも、勝負にならなかった。

 闘う度に、返り討ちにあった。

 白虎と全力で闘う度に、レックスの戦闘能力は更に研ぎ澄まされ洗練されて行った。

 

 そんな日々が、2年程続いた。

 この2年間での白虎との闘いで得た戦闘経験は、レックスが後に地上最強の魔物と呼ばれる事への大きな礎となった。

 そういう意味では白虎は、レックスの闘いの師匠と言えたかも知れない。

 

 ある日。

 いつものように全力で闘いを挑み、叩きのめされた。

 いつものようにレックスの身体はボロ雑巾のようになっていたが、この日は白虎も僅かな怪我を負っていた。

 この頃になると、レックスとの闘いで白虎の方にも多少傷が付くようになっていた。

 そして徐々に、レックスが白虎に負わせる傷は数と大きさを増して行ったのである。

 地面に伏すレックスの顔をぐりぐりと踏み付けて、白虎は呟いた。

 

 

ーーー

 

 「小僧。てめぇは強ぇ。この世にてめぇに勝てる奴はもう数える程しかいねぇだろう。てめぇを、強者として認めてやる。だから、失神しても放って置くのは今日で最後だ。次、闘かった時、わしは本気でてめぇを殺すつもりでやる。てめぇが動かなくなったら、容赦なく殺す。それが、わしなりのてめぇへの礼儀だと思え。良いな。死にたくなかったら、遠くに行きやがれ。それは逃げじゃねぇ。生きる為の生存戦略ってやつだからよ。恥じるこたぁねぇ」

 

ーーー

 

 そう言われた時。

 レックスは答える代わりに、自分の顔を踏み付ける白虎の足に手を伸ばし、足の親指をべきりとへし折ってやった。

 その直後、白虎が凄まじい笑みを浮かべていたのを、レックスは地面からちらりと見た。

 そして、白虎は、レックスが失神するまで、何度も顔を踏み付けたのである。

 

 そして、その3日後。

 レックスは、いつものように白虎に闘いを挑んだ。

 そして、当然のように敗北した。

 白虎は、宣言通り、止めを刺そうとした。

 そしてまたいつものように、顔を踏み付けていた。

 

ーーー

 

 「じゃあな小僧。いろいろ楽しかったぜ」

 

ーーー

 

 白虎はそう言って、止めの攻撃の構えに入った。

 レックスは自分の命と引き換えに、最後の力を振り絞って、白虎の股間を叩き潰してやろうと考えていた。

 苦痛を与えてから、逝こうと思った。

 レックスは、その瞬間を待った。

 だが。

 いつまで経っても、白虎は止めの攻撃をして来なかった。

 妙だと思った。

 踏み付けられながら、白虎の顔を見た。

 白虎は、自分を見ていなかった。

 あるぬ方向を、じっと見ていた。

 レックスは、首を捻って、白虎が見ている方向を見た。

 何か異様なものが、見えた。

 最初、闇そのものが具現化して、そこにわだかまっているのかと思った。

 だがそれは違った。

 そこにいたのは。

 紫色の瘴気を身体全体から迸らせている何者かだった。

 魔邪羅まじゃらだった。

 人型の魔邪羅が、ぼーっと立って、紫色の炎のような眼でこちらを見つめていたのである。


ーーー

 

 

 

 「白虎に手も足も出なかったのは、貴方がまだ子供だったからです。けど、今の貴方の化け物っぷりは当時の比では無い。今の貴方が、もし再び白虎と遭遇したら、闘わずにいられますか?」

 

 ヴァンの声に、レックスの意識は過去の思い出から現在に戻って来た。

 ヴァンは答えを待たずに続けた。

 

 「きっと、貴方は迷うでしょう。闘いたくてしょうがないけど、白虎と闘ったら、貴方は死ぬかも知れない。もし、自分が死んだら、この先一体誰が仲間達を守るのかと、貴方は考えるはずです」

 

 ぶちっ。

 という音が、玄関ホールに鳴り響いた。

 恐竜達の内の誰かの、どこかの血管が、怒りで音を立てる音だった。

 今のヴァンの発言は、そこにいた恐竜の魔物達のプライドを踏み潰したに等しい。

 恐竜の魔物達は、今のヴァンの発言から、この男が自分達をどのように認識しているかを改めて理解した。

 まるで、ヴァンの心の声が聞こえたようであった。

 

 あなた方恐竜の魔物達は、レックス王に守って貰わなければ生きていけない、か弱い生き物なのですよ、という声が。

 

 玄関ホールにいた恐竜の魔物達全員から、漆黒の殺気が凄まじい勢いで噴き出した。

 怒りの熱気がその場に充満した。

 

 「おい。てめぇ死ぬぜ」

 

 レックスが冷静に言った。

 ヴァンは相変わらず微笑んでいた。

 

 「皆さん、凄い殺気ですね。怖いな。殺される前に帰るとしましょう。ま、いろいろ長く言いましたが、トカゲ君とヒミコを早く見つけましょうねって話をしに来ただけです」

 

 そう言って、ヴァンは玄関口の方を振り返った。

 そこに。

 出口を塞ぐように、長身の女が立ちはだかっていた。

 リンクス=ランフォリンである。

 両眼に、凄まじい怒りが宿っていた。

 リンクスはこの男の事が心底嫌いだった。

 自分の枕元に立たれた事が、許せなかった。

 悔しさと嫌悪感が、リンクスの中で噴火していた。

 そんなリンクスの心情を知ってか知らずか、ヴァンが明るく言った。

 

 「やぁ。麗しき翼竜さん。安心してください。僕がトカゲ君を見つけたら、ちゃんと保護しますから」

 

 瞬間。

 リンクスが動いた。

 ヴァンに向かって、前に出た。

 

 「シッ」

  

 リンクスの口から呼気の音が鳴った。

 前に出ると同時に、長い右脚がヴァンの顔に向かって跳ね上がっていた。

 

 そのハイキックが、ヴァンの左頬に当たった……ように見えたが。

 蹴りが顔に当たる寸前、ヴァンは、右手の掌を開いて、顔の左側に掲げていた。

 そして、その鋭い蹴りを、掌で優しく包み込むように受けたのである。

 リンクスの足の甲と掌が触れた瞬間、ヴァンはほんのわずかに掌を引いていた。

 柔の技術を使って、蹴りの威力を吸収して衝撃を殺したのである。

 わずかに、ぱちっ、と肌と肌が当たる音しかしなかった。

 

 この一手で、リンクスはヴァンの戦闘力の底の深さを肌で感じた。

 ぞくりと、背中に悪寒が疾った。

 

 「美しい蹴りですね。もう少し付き合いたいところですが、あいにく今夜は遠出する予定があるんです。また今度、ゆっくりお話ししましょう」

 

 微笑みながら言った瞬間。

 突然、ヴァンの身体が、無数の蝙蝠(こうもり)に分解された。

 

 「うわっ」

 

 リンクスは驚いて思わず身を引いた。

 

 蝙蝠の群れが一斉に出口から出て行った。

 群れの中から、ヴァンの声だけが聞こえた。

 

 「お邪魔しました。皆さんの事、決して馬鹿にしたわけでは無いですからね。僕は皆さんの事好きですから。それでは、良い夜を」

 

 あっという間に、蝙蝠の群れが夜の闇に紛れて見えなくなった。

 ヴァンの声も気配も消えていた。

 

 しばらく、その玄関ホールは静寂に包まれていた。

 夜風の音しか聞こえなかった。

 その静寂の中で、恐竜の魔物達の静かな怒気が、ゆらゆらと立ち昇っていた。

 その怒気の半分以上は、自分自身への怒りだった。

 恐竜の魔物達は、自分の無力さを痛感していた。

 悔しかった。

 昼間、八岐大蛇に手も足も出なかった。

 そして今、ヴァンが持つ自分達への余裕をまざまざと見せつけられた。

 ヴァンの言う通りだった。

 レックスがいなければ。

 守って貰わなければ、我々は、奴らの餌に容易くなってしまうのだ。

 我々は、よわーーー。

 

 「お前たちは強ぇよ」

 

 突然、レックスがよく通る声で言った。

 聞いた者の耳に心地よい、力が湧いて来るような声だった。

 

 「安心しろ。お前たちは強い。八岐大蛇ってのは、往古エンシェントだ。太古から同一個体で生き続けている存在なんだよ。生き物として立っている次元が違う」

 

 レックスは仲間達をぐるりと見回して、更に続けた。

 

 「そんで、ヴァンパイアっつーのは太陽を直接浴びる事が出来ない。その代わりに、夜は高度な身体能力と無尽蔵の魔力を得る生き物だ。奴が自由に俺たちの縄張りを出たり入ったり出来るのも、太陽を犠牲にして得た移動系の魔法によるものだ。奴の接近に気付けねぇのは当たり前なんだよ」

 

 壊れた玄関扉から外を眺めて、レックスは更に続けた。

 

 「この俺はヴァンパイアや八岐大蛇とも張り合えるが、お前たちが俺との力の差を気にする必要はねぇ。俺は強ぇが、俺がここまで強くなったのは運が良かっただけなんだよ。実際に俺は、過去に何度も死んでるようなもんだ。幾度となく、敵の前で気を失ってんだからよ」

 

 レックスはまた、仲間達を見回した。

 仲間達からは、未だに悔しさと怒りが混ざった熱が静かに立ち昇っていた。

 

 「とりあえずお前ら、今から筋トレしろよ。どうしようもなくむしゃくしゃした時は、筋トレだ。筋肉は裏切らねぇ。その後、全員でメシだ」

 

 そこから数時間。

 恐竜の魔物達は、悔しさをバネに身体をいじめ抜いた。

 トレーニングが終わった後。

 恐竜達の気分は、少し落ち着いていた。

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