第25話 ヒミコ②

 ヒミコは4歳になっていた。

 しかし見た目は10歳ぐらいの女の子に見える。

 

 この時には既に、ヒミコは村にとっての太陽のような存在になっていた。

 真面目でよく働き、気立てがよく、常に人々の事を想い助ける。

 老人や病気になった者の看病も親身に行い、家畜達の世話もして、村の子供達の遊び相手もする。

 村人達は、みんなヒミコの事が大好きだった。

 長い黒髪を舞わせて、明るく優しく笑うヒミコを見るとそれだけでみんな元気になるような気がした。

 

 そして。

 ヒミコ自身も、村人達の事が大好きだった。

 とにかく、人間が、好きで好きでたまらなかった。

 本当に、幸せな日々を過ごしていた。

 

 そして、ヒミコは知識を得る事に貪欲であった。

 家事を一通り終わらせた後などは、必ず、書物を読んでいた。

 モチダの屋敷にある書物は全て読み終えてしまい、今は村の書庫から本を借りては、読みふける日々を送っていた。

 

 そんな、ある日の晩。

 

 ヒミコが自分の部屋で本を読んでいると、ふすまを叩く音が聞こえた。

 

 「入っていい?」

 

 シンゲンの声だった。

 

 「はい。どうぞ」

 

 そう言って、ヒミコはその場に正座をした。

 

 ふすまが開けられ、シンゲンが部屋に入って来た。

 シンゲンは10歳になっていた。

 黄金の瞳には、子供とは思えぬ落ち着いた光が宿っていた。

 

 「ヒミコ。空からの景色、見たくない?」

 

 「空から……ですか?」

 

 「うん」

 

 そう言って、シンゲンはにっこりと笑った。

 

 「……しかし、こんな夜にお屋敷を出るのは……」

 

 ヒミコは不安そうに、眼を泳がせた。

 

 「今夜は親父殿は留守だから、大丈夫だよ」

 

 「でも……」

 

 ヒミコは、下を向いた。

 空から、という言葉に、とても興味があった。

 しかし、夜に勝手に屋敷の外に出てはならぬという、カガミからの約束があった。

 この約束は、カガミにとっては、決してヒミコを縛り付けようという意図のものでは無い。

 純粋にヒミコの身を案じての約束であった。

 昼に比べて夜の方が、魔物の動きが活発化するからである。

 ヒミコはこれまで、そういったカガミとの約束を破った事は無かった。

 下を向いていると。

  

 突然、シンゲンがヒミコの手を握った。

 

 「おいで、ヒミコ。空からの景色を見せてあげる」

 

 シンゲンの、黄金に透き通る優しい瞳が、ヒミコを真っ直ぐに見つめた。

 ヒミコの胸が、どくんと高鳴った。

 

 

ーーー

 

 そして、シンゲンとヒミコは、屋敷を抜け出して、裏山を登り、頂上へと着いた。

 空には黄色い満月が出ていた。

 雲が自由気ままに漂い、その後ろには星も見えている。

 

 「ヒミコ。両手を出して」

 

 シンゲンに言われて、ヒミコは両手を前に出した。

 その両手を、シンゲンが両手でぎゅっと握った。

 暖かさを感じる。

 ヒミコの頬が、紅く染まった。

 

 「いい? 行くよ」

 

 シンゲンが言うと、ヒミコはこくりと頷いた。

 すると、シンゲンは両眼を閉じて何かに集中した。

 その時。

 風は全く吹いていないのに、シンゲンの黄金の髪がふわりふわりと揺れ始めた。

 

 ヒミコは、シンゲンの顔を見つめながら、その背後に見える天の雲が、一瞬だけ光ったのを感じた。

 その瞬間。

 シンゲンが両眼を開けた。

 黄金の瞳が、発光していた。

 直後。

 

 天を漂う雲から、一本の稲妻が音もなく疾って来た。

 その稲妻が、シンゲンとヒミコに優しく巻き付いた。

 衝撃も痛みも無かった。

 そして、稲妻は2人を天空へと引っ張って行った。

 

 ヒミコは、何が起こったのか分からなかった。

 気付いたら天空を舞っていた。

 

 シンゲンとヒミコは、両手を互いに繋いで、うつ伏せで額と額をくっつけるような格好で、天空をゆっくりと舞っていたのである。

 

 「わ……う、うわ」

 

 思わず、ヒミコは狼狽した。

 怖かった。

 落ちる、という不安に、胸がいっぱいになった。

 無意識のうちに、ヒミコはシンゲンの手を力強く握っていた。

 シンゲンは、その繋いだ手から、ヒミコの必死さが伝わって来て、思わず笑ってしまった。

 

 「ふふ。大丈夫だよ」

 

 シンゲンが優しく言った。

 大丈夫と言われても、ヒミコにとっては大丈夫じゃなかった。

 

 「力を抜いてごらん」

 

 そう言って、シンゲンは握っている手から、完全に力を抜いた。

 恐る恐る、ヒミコも力を抜いた。

 2人の手が、触れ合っているだけの状態になった。

 

 ヒミコの身体は、落ちる事はなかった。

 シンゲンとヒミコは、ふわふわと、綿毛のように天空を舞っていた。

 しばらくしてようやく、ヒミコは周囲を見渡す余裕が出て来た。

 顔をいろんな方向に向けて、あちこちを見た。

 こんなに、星が近い。

 まるで、星空の中に飛び込んだかのようだった。

 手を伸ばせば、満月に触れるような気がした。

 物凄く明るいのに、その光は柔らかい。

 見ていると、引き寄せられて行くような気がした。

 眼下に広がる村が、模型のように見えた。

 屋敷が、あんなに小さく見える。

 遠くに見える都には、きらきらと灯が灯っている。

 暗い裏山も、森も、川も、全てが見渡せた。

 鳥になったような気分だった。

 気持ちが良かった。

 

 「わぁ」

  

 ヒミコの顔が、満月のように明るくなった。

 眼を輝かせて微笑んでいるヒミコを見て、シンゲンも微笑んだ。

 シンゲンの胸の中が、温かいもので満たされた。

 この笑顔を、守りたいと思った。

 この子の悲しむ顔は決して見たくないと思った。

 この子を幸せにしたいと思った。

 

 「ヒミコ」

 

 気付いたら、シンゲンは名前を口にしていた。

 

 ヒミコが、シンゲンの方に視線を移した。

 

 こつん、と。

 軽い音が鳴った。

 シンゲンが、自分の額を、ヒミコの額にくっつけたのである。

 お互いの顔が、すごそこにあった。

 

 「シンゲン様…‥!」

 

 ヒミコの顔が、一気に紅潮した。

 シンゲンは、幸せそうに微笑みながら、眼を閉じていた。

 

 「ヒミコ。ありがとう」

 

 「え……!? いえ、お礼を言うのは、こちらの方です……!」

 

 「ううん。僕がお礼を言いたいんだ。ヒミコがこの家に来てくれて、本当に良かった」

 

 「い、いえ。そんな。私は……!」

 

 狼狽した後、ヒミコは突然、眼を伏せた。

 そして思い詰めるような表情で、言った。

 

 「……私は……私は、人ではありません。本来、この村にいては行けない災厄なのです。そんな私を、モチダ家や村の」

 

 「ヒミコは、人だよ」

 

 シンゲンは、ヒミコの言葉を途中で遮って、真横を向いた。

 

 「見てごらん」

 

 シンゲンの見ている方向へ、ヒミコは視線を移した。

 大きな雲があった。

 その雲の中から、黄金に輝く巨大な龍の胴体が、ちらりと見えた。

 その胴体は、雲の中を泳いでいるかのように、身をくねらせて、身体の部分部分を雲から出しては、移動しているようだった。

 

 「わ……っ」

 

 ヒミコが、眼を見開いた。

 

 「魔物達が恐れる黄龍だよ」

 

 「だ、大丈夫なんでしょうか……私が……こんなに……近くに……」

 

 「魔物や魔族は、こんなに黄龍には近付けない。黄龍も、ヒミコの事を人だって認めているんだよ」

 

 「……!」

 

 ヒミコは無言で眼を見開いたまま、しばらく雲の中を見え隠れする黄龍を見つめていた。

 そんなヒミコを見ながら、シンゲンは言った。

 

 「ヒミコはもう、この村にとってなくてはならない存在なんだ。もしもヒミコがいなくなったら、この村にとっては太陽が無くなってしまうようなものなんだよ。村の人々みんなが、ヒミコがいてくれて良かったって思っているよ」

 

 その言葉が耳に届いた瞬間。

 ヒミコの視界が涙でにじんだ。

 

 「うっ」

 

 嗚咽と共に溢れた大粒の涙が、天空へと舞っていった。

 ヒミコは、ずっと恐怖を抱えていた。

 物心ついた時から、誰かに教えて貰うわけでも無く、自然と、自分の正体が分かっていた。

 どのようにしてこの村に来たのかも、分かっていた。

 そして、人間と魔族の関係性も理解していた。

 ヒミコはずっと、怖かった。

 怖くて仕方なかった。

 いつか、村の人々から追い出されるのではないか。

 村の人々は優しいから、表面上は気を遣っているだけで、こんな化け物なんて、そばにいて欲しく無いと本心では思っているんじゃないか。

 カガミ様が連れて来たから、仕方なく、渋々了承しているだけで、本当は、自分の事など、疎ましく思っているのではないか。

 自分が、村の人々を看病したり何かを手伝っている時、本当は、手を触れて欲しくないのではないか。

 触って欲しくない。

 近くにいて欲しくない。

 そう、思われているんじゃないか。

 そんな恐怖を、ヒミコは常に、心の奥底に抱えていたのである。

 

 「みんな、ヒミコの事が大好きだよ」

 

 シンゲンの優しい声が届いた瞬間、嗚咽と涙が止まらなくなった。

 悲しみの涙では無かった。

 心を浄化するような、不安を全て洗い流してくれる清水のような涙だった。

 

 「ずっと、そばにいてね。ヒミコ」

 

 シンゲンが、優しい声で言った。

 

 「はい」

 

 涙と鼻水で顔をくしゃくしゃにして、ヒミコが答えた。

 ヒミコの鼻から、鼻水が粘度のある柱のように上に向かって伸びていた。

 

 「あっヒミコ……! 鼻水! 鼻水が……!」

 

 「だっ……だっでぇ……!」

 

 ヒミコの鼻から天へと伸びる鼻水を見て、シンゲンは笑った。

 しばらくして、ヒミコも笑った。

 鼻を赤くして、幸せそうに笑った。


 それから。

 1時間ほど、2人は夜空を楽しんだ。



ーーー

 

 ヒミコが初めて空中遊泳を楽しんだ日から、数週間が経った、ある日の晩。

 カガミと、シンゲンと、ヒミコで夕餉(ゆうげ)を食べていた。

 緑茶をすすりながら、カガミが何気なく言った。

 

 「スムクリから聞いたぞ、ヒミコ。お前には魔法の才能があるようだな」

 

 「え……いえ、そんな事は……」

  

 ヒミコは静かに首を振った。

 

 「ヒミコの魔法の才能は凄まじいですよ。スムクリ殿も驚いていました」

 

 シンゲンは明るい表情で言った。

 この頃、シンゲンは魔法の修行をスムクリ=ムーンウォーカーから受けていた。

 ある日、会話の流れから、ヒミコを連れて来るという話になったのである。

 そして、ヒミコも何気なく、スムクリから魔法の手ほどきを受けた。

 その時に、ヒミコは魔法の驚異的な才能を持っているという事が分かったのである。

 

 「シンゲンよ。お前、その内、ヒミコから魔法を教わる事になるんじゃないか」

 

 カガミは、にやりとしながら悪戯っぽく言った。

 冗談のつもりだった。

 

 「おそらく、2、3年後はそうなっているでしょう。スムクリ殿もそう言っておりました」

 

 平然と、シンゲンが言った。

 カガミは、すこし狼狽した。

 

 「え? いや……2、3年後って……ヒミコは今4歳だぞ?」

 

 「はい」

 

 平然と答えるシンゲンには反応せず、カガミはヒミコを見た。

 ヒミコは、少し顔を赤くして視線を落としている。

 あのスムクリがそう言うほど、ヒミコは魔法の素質を持っているのか、と思った。

 改めて、カガミは2人を見た。

 こうして、並んでいるシンゲンとヒミコを見ると、同い年にしか見えなかった。

 小さい頃からずっと一緒にいるような、10歳同士の幼馴染みにしか見えない。

 カガミは、3年後の2人の姿を想像してみた。

 3年後は、シンゲンは、13歳。

 ヒミコはその時7歳だ。

 見た目は、シンゲンよりも大人びて見えるのだろうか。

 そんな事を、思っていた。

 その時。

 ふと、ヒミコの様子が、普段と違う事に気付いた。

 常に視線を下げており、頬が紅く、何やら俯いている。

 

 「ヒミコ、大丈夫か? 熱でもあるのか?」

 

 カガミが声を掛けた。

 ちらりと、横目で、シンゲンもヒミコを見た。

 確かに、様子が違った。

 俯いて、何やらもじもじしている。

 

 「い……いえ」

 

 ヒミコはそう言って、ちらりと、横のシンゲンを見た。

 眼が合った。

 ヒミコはすぐに、眼を逸らした。

 

 「?」

 

 シンゲンも、ヒミコの様子が気になった。

 お腹が痛いのだろうかと思った。

 

 「どうした? ヒミコ。遠慮なく申してみよ」

 

 そう言われて、ヒミコはちらりと上目遣いでカガミを見つめた。

 そして、ぽつりと言った。

 

 「あ、あの……カガミ様。以前、カガミ様は何か願い事を考えろとおっしゃいました。モチダ家や人々の都合などを考慮せず、自分の欲望のみで考えろと。考えたら、それを口に出して言えとも」

 

 一瞬、眼を丸くしたカガミだったが、急に、妙な安堵感に包まれた。

 ほっとした。

 なんだ。

 何か欲しい物が出来たのか。

 体調が悪いとかじゃなくて、よかった。

 

 「おお! そうだったな! なんだね? 言ってみよ」

 

 カガミは嬉しかった。

 ヒミコは、全く物をねだらない。

 ずっと、何か欲しい物を買ってあげたいと思っていた。

 

 「あ、あの……」

 

 ヒミコは下を向いて、頬を紅くしてもじもじしている。

 可愛いなと、カガミは思った。

 女の子というのは、こうやって恥ずかしがるものなんだな。

 何が欲しいのだろう。

 服か。

 人形か。

 それとも、女の子は、手鏡とか欲しがるのだろうか。

 それとも、もしかして、化粧品が欲しいとか言い出したりして。

 どうしよう。

 そういうのは分からないから、使用人や、村の女達に、何が良いのかいろいろ聞かないといけないな。

 

 そんな考えを巡らせながら、カガミは湯呑みを唇に付けた。

 中の熱い緑茶を、すすった。

 

 ヒミコが、視線を上げた。

 そして頬を紅くしながら言った。

 

 「シンゲン様のお嫁さんに立候補出来る権利を頂けませんか」


 カガミはお茶を吹き出した。

 げほげほと、激しくむせ返った。

 拳で、自分の胸をどんどんと叩いた。

 

 「権利ってなんだよ、ヒミコ」

 

 カガミがむせている最中に、シンゲンはにっこりと笑いながらヒミコを見た。

 

 「……あの……だ、だって……私なんかがシンゲン様のお嫁さんになりたいなんて、願う事すら失礼な事なので……」

 

 「全然、そんな事ないよ。むしろ、こっちからお願いしたいよ」

 

 「え?」

 

 きょとんとした表情で、ヒミコは上目遣いにシンゲンを見つめた。

 そしてシンゲンは、吹き抜ける黄金の風と共に、優しく微笑みを浮かべながらはっきりと言った。

 

 「ヒミコ、今すぐ僕と結婚しよう」

 

 「うぇっ!?」

 

 ヒミコの身体が、びくりと跳ねた。

 頬が真っ赤に染まっていた。

 

 「え……あのっ」

 

 「良いのか悪いのかで言ってよ」

 

 「え……っと……あの……は、はい……良いです。お、お願い、します」

 

 ぱあっと、シンゲンの顔が明るくなった。

 顔を真っ赤にして、ヒミコは下を向いた。

 

 「というわけで親父殿、僕とヒミコは夫婦になりました」

 

 シンゲンが真剣な表情で前を見た時、カガミはまだ自分の胸を叩いていた。

 咳がなかなか止まらず、しばらく声を出すことが出来なかった。

  

 そんな苦しんでいるカガミの目の前で。

 

 隣り合うシンゲンとヒミコは、見つめ合って、幸せそうに微笑みあった。

  

 

ーーーー

  

 

 それから6年後。

 シンゲンは16歳でカガミの実力を超え、モチダ家の当主となった。

 その年に、シンゲンはマイケ=ムーンウォーカー、ヨモギ=グリーンティ、レッド=モルドレッドを連れて、魔物の神と称される存在を討伐する為の旅に出た。

 

 シンゲンが出発するその日、10歳のヒミコは、自分がこの村を守ると誓った。

 

ーーーー

  

 

 それから更に4年後。

 村に、シンゲン=モチダが命を落としたという報せが入った。

 14歳になっていたヒミコは、両手で顔を覆って泣き崩れた。

  

 この日から、ヒミコの精神は極めて不安定なものとなった。

 

ーーーー

  

 

 その半年後。

 再び破壊の権化と化した八岐大蛇は、村と近くの都を壊滅させ、1000人以上の人々の命を奪った。

 カガミ=モチダとスムクリ=ムーンウォーカーは協力し、やっとの思いで八岐大蛇を倒した。

 

 どうしても最期の止めを刺す事が出来なかったカガミは、特殊魔法を使って八岐大蛇を封印した。

  

 それから八岐大蛇は、およそ500年間、水晶の中で眠る事となった。


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