第23話 すっこんでろ
黒雲の中を稲妻が疾っている。
その稲妻が、突然、ふっと消えた。
稲妻の先端にいた黒い影が、落下を始めた。
その影は、人間に似た姿をしていた。
ヒミコだった。
頭を下にして、急降下している。
赤く輝く瞳で、迫り来る地上を見ていた。
両腕と両脚は、蛇竜ではなく人間のそれになっていたが、所々肉が抉れていた。
骨も見えている箇所もあった。
背中から生えていた細い蛇竜も消えていた。
傷だらけの左腕で、自分の脇に挟むようにしてオランの身体を抱えていた。
凄まじい向かい風で、ヒミコの腕の肉が少しずつ千切れて後方に飛んでいった。
ヒミコはちらりと、自分の傷を見た。
危なかった。
さっきの攻撃は危なかった。
あのティラノサウルスのおっさん。
話に聞いた通りの異常な強さを持ってやがる。
魔力も使い果たしてしまった。
身体も、蛇竜も再生しない。
また、しばらくどこかで身を隠す必要がある。
だが、大丈夫だ。
こいつが手に入った。
ヒミコは左脇に抱えたオランを見て舌舐めずりをした。
そして、あの日の夜を思い出した。
そもそもあの晩。
こいつが、エンキド=コモドスの息子だと分かった時に。
その時に喰っていれば、こんな苦労をしないで済んだ。
こいつが、エンキドの名を出した時。
あの女が動揺した一瞬の隙を突いて、おれは表に浮上した。
そして、こいつを美味しく頂こうと思ったら、あの女の精神が邪魔して来やがった。
あの女。
ヒミコ。
ガキの癖に。
モチダの事となると想像を絶する力を出して来やがる。
おれとした事が、押し負けてしまった。
再びヒミコが表に出てしまった。
その時にあいつは、このトカゲ小僧が眠っている隙に遠くに逃げ出しやがった。
このおれに、トカゲ小僧を喰わせない為に。
まったく面倒な事をしてくれたものだ。
だが、それも無駄に終わった。
再びヒミコを押し除けて、おれが表に浮上し、そして今現在、この手にトカゲ小僧がいる。
結果的には、なるようになった。
コモドスの血を引きながら、更にモチダの力も宿しているこのトカゲ小僧。
とてつもない御馳走だ。
考えただけでぞくぞくする。
おれを封印したあのモチダの力を喰う。
モチダに敗れたあの日に失った尊厳を、ようやく取り戻せる気がする。
こいつを喰ったら、いったい。
どれほどの、快感と。
力が……。
「本当に美味そうだぜ」
ヒミコが呟いたその時。
オランの両眼が、ゆっくりと開いた。
その茶色い瞳に最初に映ったのは、眼下に広がる天空からの景色だった。
直後、自分の身体を通り過ぎて行く鋭い向かい風を感じた。
「う、うわっ!?」
オランは悲鳴をあげた。
心の底から驚愕した。
な、なに!?
落ちてる!?
空から!?
「よう。起きたか。さっきは力を貸してくれてありがとな。助かったぜ」
耳に届いて来た声に、オランははっとした。
そして、思い出した。
自分がついさっきまで恐竜達の宮殿にいた事。
そして。
テイラーが玄関扉を開けた瞬間、巨大な蛇が入って来た事。
その直後、自分の真下からも何かやって来て。
身体が、ふわりと浮いたと思ったら。
そう。
何かに、挟まれた。
そうだ。
あれは。
顎か!
喰われたのか。
僕は喰われたのか!
そして、なんだ!?
なんで今、空から落ちてるんだ!?
オランは首を捻って、自分を抱えている者の顔を見て、目を見開いた。
そして叫んだ。
「ヒミコっ!」
……?
だが叫んだ直後に、オランは違和感を感じた。
ヒミコ……?
いや。
ヒミコじゃない。
こいつはヒミコじゃない!
雰囲気が全然違う!
ヒミコの形をした、別の誰かだ!
「だれだお前! 離して!」
オランは暴れた。
だが、ヒミコは左腕に力を込めて、決して離さなかった。
「おい随分冷てぇじゃねぇか。オランちゃん」
ヒミコが冷たく笑いながら言うと、オランは更に激しく暴れようとした。
「ヒミコは! ヒミコはどこ!?」
「ここにいるだろ?」
「違う! お前じゃない!」
「嘘は言ってないぜ。本当にヒミコの身体だ」
そう言って、ヒミコは右手をオランの顎の下に伸ばし、喉を掴んだ。
ぎゅっと、力を込めて締めた。
「心配しなくてもすぐに一緒にしてやるよ。おれはヒミコと身体を共有しているもんでね」
「かっ……!?」
オランの息が止まった。
必死でもがいて暴れた。
だが、ヒミコの左腕も右手も、決して外れる気配が無かった。
それでもオランは、もがいた。
じたばたしながら、思った。
くそ。
何なんだ。
僕が何をしたっていうんだ。
なんで空から落下しながら首を絞められなきゃいけないんだ。
くそ。
ふざけんな。
「ヒ……っ!」
オランは、首を絞められながらも、何かを必死で叫ぼうとした。
それは、名であった。
名前を叫ばなくちゃ、とオランは思った。
理由は分からない。
直感だった。
名前を叫べば、ヒミコに会える気がした。
「ヒ……っ……ミっ……!」
「ややこしいからよ、おれの事はオロチって呼んでくれよ」
うるさい!
とオランは心の中で叫んだ。
そして、わずか2日間のヒミコと過ごした時間を思い出した。
初めて会った時のあの驚愕した表情。
治癒魔法を掛けた時のあの困惑した顔。
雷跳で崖の洞穴に辿り着いた時の、あの笑顔。
あの優しい笑顔が、また見たかった。
丁寧に魔法を教えて貰ったあの楽しかった時間を、また一緒に過ごしたかった。
もっと、魔法を教えて欲しかった。
ヒミコ。
戻って来て。
負けないで。
そいつなんかに。
ヒミコ。
負けないで。
「ヒミコ……っ!」
首を絞められながらも、オランは声を絞り出した。
か細い声だったが、オランは確かにそう言った。
その時。
突然。
オランの首を絞めていた、右手が緩んだ。
そして、右手は、ぷるぷると震えながら、オランの首から離れた。
「はぁっ……はぁっ……ヒミコ……!?」
必死で息を吸いながら、オランはヒミコを見た。
ヒミコが、眉間に皺を寄せて、苦痛の表情を浮かべていた。
赤く輝いている眼の光が、黒くなったり、また赤くなったりと点滅し始めた。
そして、ふ、と。
ヒミコの両眼が暗い影になった。
直後。
ヒミコの喉から、凄まじい迫力を伴う声が響き渡った。
内なる自分に向かって、叫んだのである。
そしてその叫び声は、紛れもなく、ヒミコの声だった。
「すっこんでろ!」
天に響き渡るようなもの凄い怒鳴り声だった。
鬼気迫るものがあった。
オランの身体が、びくっと震えた。
だが、オランは気付いた。
ヒミコの両眼から、赤い輝きが無くなっている事に。
あの大きくて綺麗で、吸い込まれるような黒い瞳に戻っていた事に。
そしてその黒い瞳に涙が浮かんでいた。
「オランさん……!」
優しさに満ち溢れた、輝く太陽のような笑顔で、ヒミコが言った。
「ヒミコ!」
もうすでに密着していたが、思わずオランはヒミコの身体に抱き付いていた。
「もう! どこに行ってたの!」
オランは顔をヒミコの腹部に押し当てて叫んだ。
自然と涙が溢れていた。
「ごめんなさい、オランさん。いろいろ説明したいのですが、このままでは地面に激突します。私と両手を繋いで、身体を離してください」
「え?」
ヒミコはオランの右手と左手を、自身の右手と左手でぎゅっと握った。
そして、密着していたお互いの身体が離れた。
ヒミコとオランは、向かい合って顔を突き合わせるような格好になった。
風の抵抗を、身体全体で受けた。
落下速度が、格段に遅くなった。
「これで少しは時間を稼げます。が……」
「ヒミコっ! 腕の傷が!」
ヒミコの腕の傷が、みるみる間に広がっていく。
剥がれた皮や肉が、少しずつ上空に舞い上がっている。
「治れぇっ!」
オランが叫んだ。
無我夢中だった。
とにかく、ヒミコの傷が治るように念じた。
直後。
オランとヒミコの手の繋ぎ目が、緑色に光った。
オランの瞳も、緑色に淡く輝いた。
緑色の光がヒミコの腕を覆うと、傷が瞬く間に治っていった。
「ありがとうございます。やっぱり、暖かいですね。オランさんの治癒魔法は」
ぽろぽろと、ヒミコの両眼から涙が溢れ出した。
その涙が、大粒の水滴となって上空へと舞い上がっていく。
「腕は治った! あとはどうすれば良い!?」
オランは叫んだ。
地面が迫って来ていた。
このままでは激突してしまう。
「オランさん」
微笑みながら、ヒミコは自らの額をオランの額にくっつけて穏やかに言った。
「思い出してください」
「なにを!?」
「貴方に宿る、シンゲン様の記憶を」
「え……!?」
「シンゲン様の記憶を、探ってください」
「そんな事言われても!」
「オランさん、目を閉じて」
「どうして!?」
「早く!」
「あぁもうっ! 分かったよ!」
オランは、ぎゅっと眼を閉じた。
ヒミコが、ぐっと、自分の額をオランの額に押し付けた。
そしてヒミコは、自分の過去の光景を思い浮かべていた。
モチダ家の一員として過ごした、幸せな日々を。
あの、楽しかった思い出を。
ーーーー
(おいで、ヒミコ。空からの景色を見せてあげる)
ーーーー
そして、思い出すだけで胸が温かくなる、シンゲンの優しい声を。
自分がちょうど4歳ぐらいの時。
10歳のシンゲンが、空に連れて行ってくれたのだ。
このように。
手を繋いで。
そして、ゆっくりと。
優雅に空を舞う鳥のように。
天空を、舞ってくれた。
あの時見た景色は、今も目に焼き付いている。
その思い出が。
その思念が。
オランの頭の中に、流れ込んで来た。
直後。
オランの眼が、かっと見開かれた。
瞳が、黄金に輝いていた。
そして、オランは思い出した。
いや、思い出したのでは無い。
シンゲン=モチダの、記憶を見た。
そして、その記憶は。
ヒミコ=ヤマタイコという少女にとっても、宝物のような、幸せな日々の思い出だった。
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