第19話 洞察

雨の音を聞きながら、オランは悩んでいた。

 自分が雷跳らいちょうでこの宮殿を抜け出したら、ここの魔物達はどう思うだろうか。

 恐竜の魔物達は、自分にとても親切にしてくれていると感じる。

 危害を加えられる事も無いし美味しい食事もくれる。

 それどころか、脅威から守ってくれようとしてくれている。

 そんな彼等から逃げ出すのは、あまりにも失礼では無いのか。

 裏切りに近いのでは無いか。

 いや、裏切りかも知れない。

 でも、もし、今、会議している幹部達が、またヒミコを捕まえに行くと言い出したら。

 自分がこれからやろうと思っている事は、彼等の邪魔をするという事に他ならない。

 

 「オ、オラン……くん。そんなに、み、見つめられると……」

 

 リンクスの異様な声に、オランははっとした。

 そして、リンクスの様子がおかしい事に気付いた。

 どうしたんだ、と思う。

 顔が赤いし、なんだかさっきから息が荒い。

 瞳も潤んでいて、手で胸を押さえている。

 熱でもあるのだろうか。

 

 「リンクス、大丈夫? 少し横になったら?」

 

 「え……横になった私に……なにをするの?」

 

 「?……何かして欲しい事あったら、言って」

 

 「ちょ、ちょっと……オランくん……私に、何を言わせようっていうの……はぁ……はぁ」

 

 「?」

 

 なんだ?、とオランは思った。

 明らかにリンクスの様子がおかしかった。

 風邪でも引いたのだろうか。

 自分も、前に熱を出した時、身体が火照ってぼうっとしたのを思い出した。

 心配ではあったが、これはチャンスだとも思った。

 リンクスが寝ている隙に、外に出られるかも知れない。 

 でも、自分が逃げたら、リンクスが責められたりしないだろうか。

 いや、多分それは無い。

 あの王様や幹部達が、仲間を責めている姿は想像出来ない。

 多分、大丈夫だ。

 今がチャンスだ。

 王様や幹部達が、会議をしている、今が。

 

 「リンクス、とりあえずそこに寝て」

 

 「う、うん……分かったよ……結構積極的なんだね。オラン、くん」

 

 リンクスが、そこにゆっくりと寝転んだ。

 仰向けになって、とろんとした瞳でじっと見つめている。

 さっきからリンクスの言っている事がいまいちよく分からない。

 相当の高熱が出ているのかも知れない。

 

 「大丈夫?」

 

 オランがゆっくりとリンクスに近付いた。

 

 「お……オランくん」

 

 リンクスが熱い瞳で見つめた。

 オランはその顔を観察した。

 頬が赤く上気している。 

 呼吸も凄く荒い。

 瞳も潤んでいる。

 とても苦しそうだ。

 治癒魔法を掛けてあげたい。

 でも、今は少しでも魔力を温存しておきたい。

 それに、うまく治癒魔法が発動出来るかはわからない。 

 

 「!」

 

 そうか、とオランははっとした。

 自分の魔法は確実に発動出来るか分からないのだ。

 雨だからと言って、うまく雷跳が使えるかどうか分からない。

 だが、やってみなくては。

 やってみたら、もしかしたら出来るかも知れない。

 リンクスが眠ったら、こっそりと外に出よう。 

 そう思った時。

 

 がちゃり、と音がした。

 部屋の扉が開いた。

 開けたのは、テイラー=ティーレックスだった。

 部屋の中に入って来るなり、最初にオランを見て、床に寝転がっているリンクスを見下ろした。

 そして、言った。

 

 「なにやってんだ? まぁいい。すぐにヒミコを探しに行くぞ」

 

 「!」

 

 どきりと、オランの心臓が跳ねた。

 たった今、王様達の会議が終わったのだ。

 そして、やはりヒミコを捕まえに行く事に決定したらしい。

 

 「私も行くの?」

 

 寝転がったまま、リンクスが言った。

 あれ?、とオランは思った。

 リンクスの様子が、普段と同じになっている。

 先ほどまでの熱っぽさや荒い息が、嘘のように消えていた。

 

 「ああ。ブラキオスを除く幹部全員で行く事になった。親父とブラキオスがここでオランを監視する」

 

 「な……っ!」

 

 思わず、オランから声が漏れた。

 テイラーが、オランを見た。

 

 「親父が怖ぇか? まぁ、我慢してくれ。もしまたお前が昨日みたいになったら、対応出来るのは親父しかいない」

  

 最悪だ、とオランは思った。

 あの王様の隙を見て外に出て、更に雷跳を発動するなんてとても出来る気がしない。

 

 「まぁ、流石に昨日みたいな殺気は出さないと思うから安心しろよ。せっかくだ。親父から筋トレの仕方でも教えてもらえ」

 

 この、妙に優しいような、兄貴のような雰囲気を出すテイラーの気持ちが、オランには心苦しく感じた。

 むしろ、冷たく当たって欲しかった。

 そうすれば、罪悪感も感じる事なく、心置きなく逃げられるのに。

  

 「オラン君を見ているのは、私の方が良いと思うけど」

 

 リンクスがゆっくりと立ち上がりながら言った。

 

 「うん。僕もリンクスが良い」

  

 「はうっ!」

 

 オランが言った瞬間、リンクスが呻きながら、ふらりとよろめいて転びそうになった。

 だが、直ぐに体勢を立て直した。


 「ね?……はぁ……はぁ……オラン君もそう思うよね?」

 

 言いながら、リンクスは口の端に垂れた涎を手の甲で拭った。

 また、瞳が熱っぽく潤み始めていた。

 

 「いや、駄目だ」

 

 テイラーがきっぱりと言った。

 そして続けた。

 

 「ヒミコの正体は予想以上に危険な奴かも知れない。全力で行く。もしヒミコがこの宮殿に現れた時の為に、親父とブラキオスが残る」

 

 「!」

 

 オランの心が、ざわりと波打った。

 

 「そんなに危ないの?」

 

 リンクスが、真剣な声で聞いた。

 

 「ああ。ヒミコはとんでもない大物かも知れない。だから早く準備しろ。詳細は道中で話す」

 

 オランの胸に、黒雲のような不安が急速に広がっていった。

 ヒミコが心配だった。

 今、目の前にいるテイラーからは並々ならぬ闘志が漲っているのを感じる。

 それほど、真剣なのだ。

 あの幹部達全員が、それほどまでに戦意が湧き上がり気合いが入っているとなると、ヒミコは絶対に逃げられないと思う。

 ヒミコは、これほどまでに恐竜達の闘志を沸かせる相手なのか。

 ヒミコは、普通の人間では無いのか。

 ヤマタイコという一族は、特別な力を持つ一族なのだろうか。

 いや、そんな事は、今はどうでも良い。

 何者だろうと、ヒミコはヒミコだ。

 たった2日間、一緒にいただけだったが、ヒミコは全力で自分を信頼して想ってくれていた。

 優しく暖かい笑顔を、自分に向けてくれた。

 恐竜の魔物達の事も嫌いでは無いが、恐竜達とヒミコが争っている光景は見たくなかった。

 ましてや、恐竜達がヒミコを殺す場面など。

 助けないと。

 何とかして助けないと。

 

 オランの額と頬に、玉のような汗が浮いて伝い落ちていた。

 

 「ごめんね、オラン君」

 

 不安そうな表情を浮かべるオランを見て、リンクスはドアの前で立ち止まって悲しそうな顔で呟いた。

 そして見つめながら思った。

 ああ。

 オラン君。

 あんなに不安そうな顔して。

 そんなに私と離れるのが辛いのね。

 大丈夫よ。

 必ず無事に帰って来るから。

 帰って来たら、その時は。

 ……。

 うふふ。

 

 「おい何してんだ早く行けよ」

 

 扉の前でぼーっとしているリンクスに、テイラーが厳しい口調で言った。

 

 「ぼ、僕も……」

 

 思わず、オランの口から声が飛び出した。

 

 「あん?」

  

 テイラーが、オランの方を振り向いた。

 オランの頭の中が高速で回転していた。

 何か。 

 何か言わないと。

 嘘でも何でも良い。

 とにかく、外に出る事が出来れば。

 一瞬でもいい。

 とにかく、王様に捕まる前に、外に出ないと。

 その後はもう賭けだ。

 外に出る事が出来たら、ダメ元で雷跳を試すんだ。

 とにかく雷跳と叫んでみる。

 何でもいいから外に出ないと。

 とにかく、何か。

 

 そして、オランは気付いた。

 テイラーの後ろで、リンクスが胸を押さえて潤んだ瞳でじっと自分を見ている事に。

 オランの頭の中に、閃光が疾った。

 

 「り、リンクスと……少しでも一緒にいたいから、外まで、み、見送りたい」

 

 「くぅっ……!」

 

 瞬間。

 リンクスが、呻きながら片手で口を覆ってその場に片膝を付いた。

 膝が抜けて、立っていられなかったらしい。

 

 「あ? なんだそりゃ」

 

 テイラーは眉間にしわを寄せて、オランを見た。

 だが、少し考えてみた。

 そうだ。 

 こいつはまだ5歳だ。

 5歳で、母親と離れ離れになったのだ。

 もしかしたら、リンクスの事を母親の姿に重ねているのかも知れない。

 もし、俺が同じ立場だったら。

 もし、俺がママと離れ離れになったら……。

 寂しい。

 耐えられない。

 そんなの悲し過ぎる。

 

 「分かった良いだろう。玄関の外までだぞ。雨降ってるけど良いのか?」

 

 「う、うん!」

 

 オランの顔が、ぱぁっと明るくなった。

 心が躍った。

 よし。

 これでチャンスは掴めた。

 千載一遇のチャンスを。

 

 「ううっ……」

 

 満面の笑みを浮かべているオランを見て、リンクスは涙を浮かべていた。

 ああ。

 オラン君。

 あんなに嬉しそうな顔をして。

 そんなに私の事が好きなのね。

 もう。

 どうしてあなたはそんなに可愛いの。

 どうしてこんなに私を苦しめるの。

 ああ、オラン君。

 今すぐ、きみを。

 ……。

 うふ。

 

 テイラーが、後ろでしゃがんでいるリンクスを振り返った。

 

 「おい、どうした。調子悪いのか」

 

 「いいえ」

 

 はっきりと答えて、リンクスはすっと立ち上がった。

 

 「絶好調よ。私、頑張るわ。オラン君の為に」

 

 「あん? まぁ、そうしてくれ」

 

 「私はいつでも準備万端よ。玄関で待ってるわ。オラン君とね」

 

 そう言って、リンクスは右手をオランの方に向けて差し出した。

 差し出しながら、熱い眼差しで見つめた。

 さぁ。

 オラン君。

 この手を握って。

 触れ合いましょう。

 一緒に行くのよ。

 一緒にね。

 うふふ。

 

 オランがその手に向かって、てとてとと歩き、左手で握った。


 「まぁ、なんて温かい手。オラン君ったら。うふふふ」

  

 「なに笑ってんだお前」

 

 テイラーが低い声で言った。

 気持ち悪い奴だな、と思いながら、リンクスとオランの背中を眺めていた。


ーーーー

 

 玄関に着いた時、オランはぎょっとした。

 そこには既に4人の幹部が集まっていたのである。

 翼竜ディモルフォドンの魔物、ディモン=ディモルフ。

 大型肉食恐竜スピノサウルスの魔物、スピノピ=スピノス。

 大型肉食恐竜アロサウルスの魔物、アーロ=アロサ。

 超大型草食恐竜ブラキオサウルスの魔物、ブラキオス=ブラキオーサ。

 

 「……な」

 

 オランの心に、焦りが生じた。

 思わず、声を出してしまった。

 てっきり、まだ玄関には誰もいないと思っていたのである。

 もし、玄関にリンクスと2人きりであったなら、何か理由を付けて外に出て、雷跳を試そうと思っていたのだ。

 なのに。

 これでは……。

 

 「……!」

 

 オランは、その幹部達の持つオーラと雰囲気、身体の大きさに圧倒されていた。

 そして、何よりもその目力に圧倒された。

 幾多の修羅場を潜って来た者特有の、強い光が瞳に宿っていた。

 

 「やぁ。オラン君」

  

 一番身体の大きな魔物が、声を掛けて来た。

 身長が、3メートルぐらいあった。

 ブラキオスであった。

 幹部の中で、一番穏やかな顔をしていた。

 

 「君は、僕と王とお留守番だよ。よろしくね」

 

 ブラキオスが、のんびりとした優しい口調で言った。

 この魔物がとても優しい心を持っているという事が、その顔に現れていた。

 

 「……う」

 

 オランは、ブラキオスを見上げた。

 とにかく、大きい。

 威圧感だけで、押し潰されそうだ。

 オランの焦りが、益々強くなった。

 こめかみに一筋の汗が垂れ、ごくりと唾を飲んだ。

 なんてことだ。

 あの王様だけでなく、こんな大きな魔物まで。

 まずい。

 どうしよう。

 

 そんな不安に駆られているオランの表情を、リンクスはじっと見ていた。

 そして、ブラキオスを睨み付けながら言った。

 

 「ちょっとあんた、オラン君が怖がっているじゃないの。もうちょっと身体小さくしなさい」

 

 「え〜。そんな無茶言うなよぉ。ミニミニ(縮小化の魔法)かけてもこれが限界なんだよぉ」

 

 「ならもうちょっと離れなさいよ」

 

 「なんだよ〜。これからオラン君を見てるのは僕なんだから良いだろ〜?」

 

 「今はまだ私が見てる時間よ」

 

 そう言った後、リンクスはしゃがんでオランと目線の高さを合わせた。

 そして、満面の笑みを浮かべた。

 

 「ね〜! オランくんっ!」

 

 「え?……う、うん」

 

 「うふふ」

  

 オランは、リンクス達の会話をほとんど聞いていなかった。

 どうしようと思っていた。

 まずいと思った。

 今、リンクスと話している大きな魔物はともかく、残りの3人の方が恐ろしく感じた。

 ディモルフォドンとアロサウルスとスピノサウルス。

 この3人は、今は直接オランを見ている訳では無い。

 それぞれ思い思いに、読書をしていたり窓の外を眺めたりしている。

 だが。

 明らかにオランに対して意識を向けているのである。

 全く隙の無い警戒を向けている。

 この3人は、視覚に頼らない超感覚で、絶えずオランの事を監視しているのである。

 

 そのような事を、オランは直感的に感じ取っていた。

 もし、自分が不自然な行動を取ったら、この3人は瞬時に動き、容赦なく自分を行動不能にさせる。

 そう確信させる気配、雰囲気が、この3人から漂っていた。

 無理だ、と思った。

 例え、外に出られたとしても、雷跳を発動しようとして魔力を放出したり、何かの行動を起こした瞬間に捉えられてしまう。

 

 そんな事を思っていたら、廊下の方から複数の足音が聞こえて来た。

 オランが廊下の方を振り向くと、ラプトルの魔物達がぞろぞろとやって来た。

 先頭を、デノニク=ヴェロキラが歩いていた。

 そのすぐ後ろに、ラップがいた。

 ラップとオランの、目が合った。

 

 「お〜っ! オランちゃ〜ん!」

 

 ラップがおちょくるような表情と声で言った。

 

 「っ!」

 

 更に、オランの額やこめかみに汗が浮き出た。

 状況は益々悪くなる一方だった。

 手練れの恐竜たちが続々と集まって来る。

 どうしよう。

 どうしよう!

 

 「よう。オラン」

 

 デノニクが、オランの目の前に立って声を掛けて来た。

 オランの全身から、一気に汗が噴き出して来た。

 やばい。

 デノニクだ。

 この男は、やたら勘が鋭い気がする。

 下手な事を言うと、悟られてしまうーーー。

 

 「こ、こんにち……わ」

 

 とりあえずオランは挨拶をした。

 顔が引きつっている。

 不自然な表情だった。

 

 「……」

 

 すると、デノニクは無言でしゃがみ込んで、オランと視線の高さを合わせた。

 オランの瞳をじっと見つめた。

 まるで、心の中を見透かしているような視線だった。

 オランの挙動が、ますます怪しくなった。

 汗が噴き出して、眼が泳ぎ、何かを怖がっているような、何かを隠したがっているような、そんなおどおどした挙動になっていた。

 そんなオランに、デノニクが質問をした。


 「お前、今、何を考えている?」

 

 「!?」

 

 オランの身体がびくりと震えた。

 来た、と思った。

 やばい。

 どうしよう。

 なんて言えば。

 黙っていても変に思われる。

 かと言って下手な事を言えば墓穴を掘ってしまう。

 どうしよう。

 どうしよう!

 

 「何をそんなにびびっているんだ? お前はもっと腹の据わった男だと思っていたのだが」

 

 デノニクが怪訝な顔をした。

 

 「あのねぇ、デノニク」

 

 頼もしい影が、オランとデノニクの間に立ちはだかった。

 リンクスだった。

  

 「オラン君はね、私と離れ離れになる事が悲しくてしょうがないの。あなた、それが分からないの?」

 

 「……そうなのか? オラン」

 

 デノニクが、リンクスの脚の横から眼を覗かせて言った。

  

 「う……うん」

  

 オランはこくりと頷いた。

 リンクスが言ってる内容はともかくとして、助かったと思った。

 だが、まだ油断は出来ない。

 

 「ほらね。オラン君はね、私の事が大好きなの」

 

 自信に満ち溢れた表情でリンクスが言った。

 

 「お前、リンクス好きなのか?」

 

 何かを探り当てようとしているかのような眼で見ながら、デノニクが言った。

 オランの焦燥感が更に激しくなった。

 ここは、話を合わせないと。

 話をリンクスが好きって方向に持って行かないと。

 そうしないと、自分の狙いにデノニクが気付いてしまう。

 隙を見て雷跳を発動するという、真の狙いに。

 

 「う……うん。好き。リンクスと、離れたくない。ずっと、一緒に、いたい」

 

 「はうっ!」

 

 リンクスが、両手で胸を押さえてよろめいた。

 倒れる寸前で、なんとか踏ん張った。

 口から垂れた涎を、じゅるりと吸った。

 

 「ひゅ〜。随分懐かれているじゃねぇか」

 

 ラップが、にやにやしながら言った。

 他のラプトルの魔物達からも、茶化すような声が次々に聞こえて来た。 

 玄関ホールが益々騒がしくなった。

 

 「……」

 

 ざわざわと騒がしい中で、デノニクは無言でオランを見つめていた。

 デノニクは、今の言葉を疑っている。

 直感で、オランはそう思った。

 本当にまずいと思った。

 この男は、他の恐竜達と違う。

 鋭過ぎる。

 このままだと、狙いが、ばれるーーー。

 

 そう思った次の瞬間。

 オランは、動いていた。

 リンクスの左脚に、がしっと抱き付いたのである。

 オランの身長は、リンクスの太腿の辺りまでしかない。

 オランは、頬をリンクスの太腿に押し付けて、ぎゅっと力を込めて抱き締めた。

 

 「ああっ! ちょっと! オランっ……くん!」

  

 リンクスの身体に、ぞくぞくと電流が疾り抜けた。

 顔が一気に紅潮した。

 心臓がばくんばくんと跳ねて躍った。

 だ、ダメだよオラン君……!

 こんな場所で……!

 今は、みんなが見てるから…….!

 

 「い、行かないで……」

 

 目を瞑りながら、オランは震える声を出した。

 我ながら何をやっているんだと思った。

 リンクスの事を好きなのは嘘ではないが、これは流石に恥ずかしいと思った。

 しかし、目の前にいるこのデノニクという男をやり過ごすには、今はこれしか思い浮かばない。

 

 「そ、そ、そ、そんな事言われても……ごめん、イキそう……」

 

 リンクスが恍惚の表情を浮かべて天井を向いている。

 口の端から涎が垂れていた。

 

 「行かないで……」

 

 デノニクに表情を見られないように、オランは更に顔をリンクスの太腿に押し付けた。

 絹のような羽毛に覆われた大腿に、オランの顔が埋まっていた。

 

 「……」

 

 周りが更に騒がしくなっていく中で、デノニクは相変わらず無言でオランを見ていた。

 

 「まぁ、5歳児だからな」

 

 突然、背後で声がして、デノニクは振り返った。

 いつの間に現れたのか、テイラーがそこに立っていた。

 

 「テイラー様」

 

 デノニクが言った。

 

 「どうやらオランはリンクスを母親の姿に重ねているらしい」

 

 テイラーが、腕を組みながら言った。

 

 「そうなのですか?」

 

 「ああ。まぁ突然、母親から離されて見知らぬ土地にやって来たわけだしな。気の毒と言えば気の毒だ」

 

 「はぁ」

 

 デノニクはいまいち、腑に落ちなかった。

 そういうものか。

 確かに、そうかも知れない。

 だが、何か。

 何か、ひっかかる。

 なんだ。

 このオランは。

 違和感を感じる。

  

 「リンクスと離すのは危険か? オランの精神を不安定にさせるだろうか」

 

 独り言のように、テイラーが言った。

 リンクスの脚にしがみつくオランの気持ちが、よく分かった。

 つい先程まで、自分も母親に抱き付いていたのだから。

 

 「……どうでしょうか」

 

 顎の先に手を当てながら、デノニクが言った。

 そして、リンクスの太腿に顔をめり込ませているオランを見て、続けて言った。

 

 「オランよ。お前、リンクスと2人っきりで留守番となったら、何がしたいんだ?」

 

 瞬間、リンクスの身体がびくびくと痺れたように震えた。

 そして、大きく背中をのけぞらせた。

  

 「ちょっ……! デノニク……! 何を……! 言って……っ!」

 

 端から見たら、まるでリンクスが1人で演劇の練習か何かをしているように見えた。

 

 「おい、リンクス。お前やっぱり変だぞ。大丈夫か」


  デノニクの後ろから、テイラーが怪訝な顔で言った。

 それを聞いて、確かに今日のリンクスは変だな、とデノニクは思った。

 だが。

 先程。

 デノニクは見逃さなかった。

 リンクスが震えるほんの一瞬前に、オランの身体が、びくりと微かに震えたのを。

 そして、オランに対する嫌疑が次から次へと浮かんで来た。

 なぜ、オランは顔をリンクスの脚に押し付けたままなのか。

 リンクスが、意味不明な動きであれほど体勢を変えたのに、なぜ無理やり顔をめり込ませているのか。

 俺に、顔を見られたくないのか。

 俺に、何かを隠しているのか。

 オランよ。

 お前は、俺に、何かを悟られまいと必死になっているのか。

 

 その時。

 窓の外が、ぴかっと光った。

 一瞬だけ青い閃光が中まで入って来た。

 数秒後、雷の音が遠く鳴り響いた。

 雨の音が、更に激しくなった。

 

 「おお〜。こりゃ結構な土砂降りだぜ〜」

 

 ざわざわしているラプトル隊の中の誰かが、そんな事を言った。

 

 この雷で、デノニクは閃いた。

 未だリンクスの太腿に顔を埋めているオランを見ながら、思った。

 そうか。

 オラン。

 お前。

 雷跳を使おうとしているのか。

 ヒミコを助ける為に。

 俺たちから。

 ヒミコを逃がす為に。

 

 「……」

 

 デノニクは無言で、顔を隠しているオランを見つめていた。

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