第7話 瞳
ーーーー
そこは春の陽気に満たされていた。
柔らかなそよ風に吹かれて、桜の花びらが澄んだ空気の中を舞い落ちている。
緑色の天然の芝生の中に立派な樹が立っており、花びらがたっぷりと繁っていた。
そよ風が吹く度に、その花びらが舞い落ちていた。
その樹の下に、人間の男が仰向けに寝ていた。
両手を後頭部に回して、両脚を開いて気持ち良さそうに眼を閉じている。
肌が若々しい。
髪の色が、温かみのある金色をしていた。
眼を閉じている為はっきりとした年齢は想像しにくいが、十代後半から二十歳ぐらいの青年のように見えた。
その青年の顔に、いくつもの桜の花びらが落ちている。
穏やかな寝顔であった。
口の形が、うっすらと微笑みの形になっている。
質素な服を着ていた。
一般的な村人や、平民が普段身に付けているような地味な布の服である。
服の上からの筋肉の盛り上がりや、服から露出している部分の素肌が、この青年の肉体がかなり鍛えられているものであることを物語っていた。
そして、寝ている青年に向かって、真っ直ぐに歩いて来る男がいた。
こちらも、見た目は若々しい。
だが、聡明な顔立ちと落ち着き具合が、人生経験の豊富な識者のような雰囲気を醸し出していた。
背中まで伸びた長く青い髪を、後ろに束ねている。
瞳の色も青い。
その澄んだ青い瞳には、並々ならぬ知性の光が宿っていた。
男は複雑な梵字の刺繍が施された青いローブを着ていた。
高等な魔術師のみが着る事を許される、特殊な衣である。
その青い髪の男が、樹の下で寝ている青年の前まで来て、歩みを止めた。
そして、その青い髪の男は僅かに笑って呟いた。
「勇者は気楽で良いな」
桜の花びらがひらひらと舞い落ちて、寝ている青年の鼻の先に止まった。
「気楽なもんか。重圧で潰されそうだよ」
寝ている青年がそのままの姿勢で、眼を開けずに答えた。
どうやらこの青年は、青い髪の男に話しかけられる前からその気配に気付いていたらしい。
「そうは見えないがな」
青い髪の男はそう言いながら、樹の真下まで移動して、そこに腰を下ろした。
樹に背中を預け、左膝を立てて、そこに左の肘を置いた。
その男の目線の先には、決して大きくはないが、のどかな平和な町が広がっていた。
この場所は、町から少し離れた丘の上らしい。
「なんだその格好は。剣も盾も置いて来たのか」
青い髪の男が、町を見ながら言った。
「うん」
寝ている青年が、相変わらず眼を閉じたまま一言だけ答えた。
「不用心だな」
「ここは聖地だよ。魔物は入れないから気を張る必要が無い」
寝ている青年が答えると、青い髪の男は、ふっ、と笑った。
「気楽なもんだな。俺は徹夜で式神を操作していたというのに」
「
「ああ」
「さすが世界最強の魔法使いだ」
「おかげでくたくただ」
青い髪の男が答えた直後、そよ風が吹いた。
寝ている青年の顔に乗っていた花びらが、風に吹かれて舞っていった。
暖かな陽気が、2人の男を包んでいる。
そこへ、小さな水色の小鳥が舞い降りて来た。
青い髪の男の、左膝に乗せている左肘の辺りにその小鳥が止まった。
その小鳥は、首を傾げて青い髪の男を見つめた。
小鳥と目が合うと、青い髪の男はにこりと微笑んだ。
「……どうだった?」
寝ている青年が、呟いた。
額に、薄い黄色をした小鳥が止まっていた。
小鳥が止まっても、青年は構わず寝ていた。
「しばらくは自由に探索出来たんだがな。妙な奴に感付かれた」
青い髪の男が、小鳥を見ながら言った。
小鳥が、ぴょんと飛んで芝生の上に降り立った。
「やっぱり簡単には王までは辿り着けないか」
寝ている青年が言うと、額に止まっていた小鳥がぴょんと芝生の上に降りた。
「ああ。特に四天王が問題だ。あいつらをどうにかしないと先には進めない」
青い髪の男が、遠くの景色を眺めながら言った。
「……気が滅入るなぁ」
寝ている青年が、眼を閉じながら残念そうに言った。
「向こうだってお前の存在で気が滅入ってるぞ」
「そうなのかな」
「お前を恐れているからこそ執拗に刺客を送り込んで来るのだ」
「勘弁して欲しいよ」
「勇者の宿命だ。仕方ない」
「宿命ね」
「ああ、あと今回の探索でひとつ収穫があったぞ」
「どんな?」
「王の名前が分かった」
「なんていうんだい?」
「タナトスというらしい」
「……タナトス……?」
寝ている青年が、呟きながらそこでようやく目を開けた。
ゆっくりと上半身を持ち上げた。
柔らかい日の光が、青年の顔を照らした。
その青年は、透き通るような黄金の瞳をしていた。
黄金の瞳で、青い髪の男を見つめた。
青い髪の男も、青い瞳で、見つめ返していた。
黄金の視線と、青い視線が、空中で交わった。
そして、青い瞳の男が言った。
「聞き覚えがあるだろう。死を司る神の名だ」
ーーー
はっ、と、オランは目を開けた。
天には依然として灰色の雲が広がっていた。
どこかに仰向けに寝ているらしい。
波の音と背中の感触から、砂浜に寝ているのだと分かった。
夢か、と思った。
先程の光景は夢だったのか。
今の景色はどこだったのだろう。
そして、あの青い瞳をした男は。
あれは、魔物ではなかった。
人間だ。
ん?
人間?
人間なのかあれは。
なぜ、僕は人間なんて見た事ないのに知ってーー。
考えている途中で、オランの全身にざわりと寒気が疾った。
同時に、先程見ていた夢も疑問も、心の奥底に沈んでいった。
そうだ。
ついさっき、空を漂う黄金の龍から雷が自分に落ちて来たんだ。
僕はどうなったんだ。
そして、あの龍はどこにーーー。
がばっと、オランは勢いよく上体を起こした。
最初に目に入ったのは、広い海だった。
「動くでない、お主ら」
背後から、声が聞こえた。
同時に、強烈な悪寒がぞくりと走った。
殺気だった。
自分に放たれた無数の殺気を、オランは全身に感じ取った。
後ろを振り向く。
すぐ目の前に、カメジの後ろ姿が見えた。
安堵した直後、オランは驚愕に目を見開いた。
カメジの身体の向こう側で、魔物達の群れが殺気立った眼でオランを睨みつけていた。
武器を手にしている者もいた。
「落ち着けと言うとるんじゃ」
再び、カメジの声が聞こえた。
後ろ姿しか見えない為に顔は見えないが、その声には真剣な響きがあった。
「!?……え!?」
オランは困惑した。
状況が理解出来なかった。
オランが目を見開いて驚愕していると、魔物達の集団の中にいたイグオと眼が合った。
ぞっとする程の怒りを宿した眼をしていた。
イグオだけでは無い。
ペギトも、ピンキーも、他の住民も、怒りと殺意を込めた眼でオランを睨みつけていた。
そしてオランは、今自分がカメジに守られているのだという事を瞬時に悟った。
カメジが集団の前に立ちはだかり、オランに近付けまいとしているのである。
殺気立つ集団の先頭に立つイグオが、振り絞るような声で叫んだ。
「オラン! 貴様が黄龍を呼んだのか!?」
「なっ!?」
オランは混乱した。
どういう事だ。
僕があの龍を呼んだというのか。
そんな事知らない!
「し、知らないよ!」
オランも叫んでいた。
「とぼけんじゃねぇ! お前は俺達を殺す為に送り込まれた刺客なんだろう!」
イグオの隣にいるペギトが叫んだ。
「な、なにを言ってるの!? 分からないよ!」
叫んだ直後、オランは、はっとなった。
自分は、魔物を見ると攻撃衝動が湧き上がる特殊な癖がある。
その攻撃衝動を、今まで理性で抑え付けていた。
理由は、母さんを傷付けたくないからだ。
もし、母さんから何も言われてなかったら、僕は島のみんなをどうしていただろうか。
おそらく、本能のままに島の住民に危害を加え続けていたと思う。
もしかして、僕は本当に魔物を殺す為にどこかから送り込まれたのではないか。
そんな……。
いや、違う!
僕は刺客なんかじゃない!
僕はこの島で生まれたんだ!
母さんの子として!
「僕は……!」
言いかけて、オランは母の姿が見えない事に気付いた。
集団の中にその姿がないか、背伸びをしながら探した。
だが、見つからなかった。
ぞくりと、背中に悪寒が疾り抜けた。
「母さん! 母さんは!?」
オランは叫んでいた。
それに、ピンキーが凶暴な眼差しで睨みながら応えた。
「お前が黄龍を呼べる事が分かった以上、マイアも放っておくわけにはいかねぇ!」
「なんっ……!」
ピンキーの言葉を聞いて、オランの心臓がどくんと跳ねた。
放っておくわけにはいかない?
なんだと。
こいつら。
もしかして。
今、僕に向けている殺意と敵意を、母さんにも向けているのか。
母さんにもそんな眼を向けているのか。
まさか。
まさかもう、母さんに危害をーーー。
そう思った瞬間、オランの中で、張り詰めていたものがぷちんと切れた。
同時に、視界が怒りで赤く染まった。
その時にはもう、身体が勝手に動いていた。
先程までオランがいた場所の砂が、空中に巻き上げられていた。
オランが浜辺を蹴って、高く跳躍したのである。
そしてその軌道は、カメジの頭上を越えてピンキーへと向かっていた。
その突然の動きに、ピンキーを始め魔物たちは、反応する事が出来なかった。
唯一反応したのは、オランに背を向けていたカメジであった。
カメジは、瞬時に魔法を発動させていた。
オランとピンキーの身体が衝突する寸前。
ピンキーの目の前の地面から、何かが飛び出して来た。
それは、土で出来た大きな手だった。
土の手が、勢いよく生えて来たのである。
その土の手が、オランの身体をがっちりと掴んでいた。
掴み、握り締めてオランの身体を圧迫していた。
掴まれてなお、オランは手足を必死で動かして暴れていた。
凶悪な光を放つ両眼で、ピンキーを睨み付けていた。
そしてその凶暴な貌で叫んだ。
「母さんに何かしたのか!?」
オランの身体から、有無を言わさぬ迫力と、恐ろしい程の殺気が暴風のように迸った。
「!?」
「ひっ」
暴れて叫ぶオランの気迫に押されて、集団が驚きの声を上げて全体的に一歩下がった。
気圧された理由は、気迫だけではない。
オランの両眼が、真紅に輝いていたからである。
凶星のように赤く光る双眸と気迫に、魔物の集団は凄まじい恐怖を感じていた。
集団が、更に一歩下がった。
「ぐっ……!この……!」
オランは土の手を外そうと、歯を食いしばって暴れた。
すると突然、どうっという音が鳴った。
音と共に、オランの全身から、透き通った赤いオーラが勢いよく渦巻いていた。
オランの瞳が、更に激しく爛々と真紅に輝いた。
「……本性を現したな」
ただ1名、後ずさりをしなかったイグオが呟いた。
イグオの全身から、熱気のようなオーラが轟々と立ち昇っている。
完全な臨戦態勢に入っていた。
「オラン、お前は生まれた時からおかしかった。魔物を見ると、そうやって赤い瞳で襲い掛かっていた。そして今も、お前は俺たちを皆殺しにしようとしている。長老、こいつをそのまま握り潰すべきだ」
イグオが、振り絞るように言った。
「落ち着けイグオ」
カメジが静かな声で言った。
真っ白な髭が、ゆらゆらと揺れていた。
イグオに意識を向けながらも、自らが魔法で創った土の手も絶妙な力加減で操作していた。
オランが抜け出さないように。
かと言って、握り潰さぬように。
「まだ分かんねぇのか。よく考えてくれ長老。6年前にエンキドがこの島にやって来て、俺の兄貴は出て行ってしまった。そしてそのエンキドの置き土産が、今度は黄龍を呼びやがった。魔物にとって黄龍がどんな存在なのか教えてくれたのは、あんただろうが。そいつを殺す事に何を躊躇する必要があるんだ」
言い終えた時には、イグオの眼には怒りと悲しみが混ざっていた。
「落ち着くのじゃ、イグオ。お主の兄は自分のやりたい事を見つけただけじゃ」
土の手に意識を集中しながら、カメジは穏やかな口調で言った。
「やりたい事だと……!」
イグオの眼に、怒りの炎が燃えた。
「今はあやつの話をしている時では無い」
カメジが凛とした声で言った。
「ぎ……この……!」
オランが赤いオーラを迸らせながら、じたばたともがいた。
そして、首を捻ってカメジの方向を見た。
カメジとオランの、眼が合った。
カメジの茶色の視線と、オランの赤い視線が、交錯した。
その瞬間。
オランの両眼の光が、ふっと消えた。
「む!」
カメジが警戒した。
その時。
オランを掴んでいた土の手が、突如として砂が風に吹かれるようにしてさらさらと崩れ去った。
「なに!?」
流石のカメジも、驚愕を隠せなかった。
カメジは島の住民に危険が及ばぬように、手加減をせずに魔法を使っていた。
老いたとはいえ、自分の魔法が破られるなど思っていなかった。
だが。
オランはカメジの創り出した土の手を打ち破った。
力技ではなかった。
土の手を分解し無効化する魔法を、オランが発動したのである。
土の手から解放されて、オランは地面に着地した。
オランの身体の周囲から、更なる異変が渦巻いていた。
青いオーラであった。
オランの身体から、青いオーラが迸り渦巻いていたのである。
そして、オランがゆっくりと、カメジの方を向いた。
オランの瞳の色が、変化していた。
青色に、輝いていた。
オランの青い瞳と、カメジの茶色い瞳が交錯した。
「!」
カメジは眼を見開いた。
今この瞬間に、オランが2種類の魔法を使ったのだという事をカメジは悟った。
ひとつは、アミダが施した魔力封印の呪いを解除する魔法。
もうひとつは、土の手を解除する魔法。
どちらの技も尋常では無い。
特にアミダの魔力封印を解除した技は通常では考えられなかった。
魔法が使えない状態で魔法を使ったという事である。
このような真似が出来るのは、天賦の才を持つ者のみに限られる。
もうこの時点で、カメジの中に渦巻いていた疑惑は確信へと変わっていた。
なぜ、オランは生まれながらに魔物への攻撃衝動を持っていたのか。
攻撃的な赤い瞳。
高度な魔法を使う青い瞳。
癒しの力を持つ緑の瞳。
黄龍。
もう、間違い無かった。
「オラン……お主は」
カメジがオランから目を離さずに言った。
その瞬間。
オランの眼の光が、突然消えた。
「長老……僕は」
オランの瞳が通常の茶色に戻っていた。
この場の誰よりも、オランは困惑していた。
何がなんだか分からなかった。
胸が張り裂けそうだった。
心が、今にも砕け散ってしまいそうだった。
「僕は……何者なの……?」
両目に涙を浮かべながら、オランはすがるようにカメジに言った。
助けて欲しかった。
ここから救い出して欲しかった。
なぜこんな事になっているのか、教えて欲しかった。
「長老! 早くそいつを殺せ!」
最早誰が言ったのか分からない。
集団の中の誰かが怒鳴った。
魔物の集団が発するオランへの恐怖と怒りの念を、オランは全身に浴びていた。
その瞬間。
魔物と遭遇したら、殺られる前に殺らなきゃ。
今まで耳にした事すら無いその想いが、なぜかオランの胸の中を疾り抜けた。
すると再び、オランの身体から赤いオーラが渦を巻いて迸った。
オランの瞳が、殺意の燃え滾る赤に輝いた。
敵を殲滅せんとオランが集団の方を向いたその時。
砂浜から再び土の手が生えて来た。
今度は、2本だった。
2本の土の手が生え出て来て、左右からオランを挟み込む様にして掴んでいた。
「ぐっ! 離せ!」
凶暴な表情で、オランが暴れた。
「長老! 早く握り潰してくれ!」
集団の誰かが叫んだ。
みしりと、土の手の圧力が強くなった。
オランの全身の骨が軋んだ。
「その化け物を早く殺せ!」
その声が、オランの耳に突き刺さるように届いた。
ピンキーの声だった。
オランは、凶暴な視線をピンキーに疾らせた。
ピンキーとオランの視線が、空中でぶつかった。
ぞくりと、ピンキーの背中に悪寒が疾り抜けた。
その瞬間。
ふっ、とオランの身体から溢れていた赤いオーラが消えた。
同時に、瞳の輝きも消えた。
だが、その直後。
どうっという音と共に、突風のように青いオーラがオランの全身から迸った。
そして、青く輝く瞳で、オランはピンキーを睨み付けていた。
オランの眼の周りに、びきりと、血管が浮き上がった。
直後。
ふわりと、ピンキーの身体がひとりでに宙に浮き始めた。
「おわっ!?」
ピンキーが驚愕の声を上げた。
自分の意志とは無関係に、自分の身体が宙に浮いている。
何か見えない透明な手に、掴まれているような気がした。
3メートル程上昇したところで、突然、ピンキーの身体が止まった。
その直後。
ピンキーの身体が、意志とは無関係にゆっくりと動き始めた。
肘、膝、そして首の関節が、あらぬ方向に曲がり始めたのである。
びきりびきりと、関節が悲鳴を上げ始めた。
激痛が、ピンキーの身体を疾り抜けていた。
「がっ……!? おい、ちょ、待て!」
ピンキーが、震える声を上げた。
「ひっ!?」
魔物の集団から、悲鳴が上がった。
これからピンキーに起ころうとしている悲劇が想像出来たからである。
「やめよっ! オラン!」
大気を震わすような怒声を、カメジは発した。
同時に、土の手のオランを掴む圧力が急激に上昇した。
だが、次の瞬間。
ごきり……。
という、背筋が凍るような音が響き渡った。
「ぐあっ……!」
呻き声を上げたピンキーの両方の肘と、両方の膝の関節が、それぞれ逆方向に折れ曲がっていた。
首も、あと数ミリで折れそうだった。
「この外道がっ!」
怒鳴り声と共に、イグオが跳躍していた。
跳ぶと同時に、硬い握り拳を作っていた。
次の瞬間。
どごぉ、という重い音が鳴った。
イグオの右の拳が、土の手に捉えられていたオランの顔面を正面から打ち抜いたのである。
拳が、オランの顔面にめり込んでいた。
次の瞬間、ピンキーの身体が地面に落ちた。
「ぐぅ……痛ぇ」
ピンキーは地面で呻いた。
首の骨は無事だったが、両腕と両足があらぬ方向を向いていた。
身体が痙攣していた。
イグオが、オランの顔から右の拳を離した。
オランは両方の鼻の穴から血を流し、瞳の輝きが無くなっていた。
イグオは左手で、オランの喉を掴んだ。
そしてありったけの握力で締め上げた。
「俺が貴様を殺してやる!」
イグオの瞳が怒りに燃えていた。
「待て!」
カメジが叫んだ。
その瞬間。
ばちっ。
という、高い破裂音が鳴った。
「ぐあっ!」
イグオの身体が、弾かれるように後方に吹き飛んでいた。
オランの身体は、土の手に掴まれたままである。
その状態のオランが、首だけを動かしてカメジの方向を向いた。
茶色の瞳に、涙が浮かんでいた。
「……長老」
呟いたオランの顔の周りに、黄金の静電気のような光が発生していた。
カメジは、眼を見開いた。
それは電撃だった。
先程イグオは、電撃によって後方に吹き飛んだのである。
オランは両眼から涙が溢れさせて、カメジを見つめていた。
そして。
大気が震えた。
同時に、バチバチバチッ、と、連続した破裂音が響き渡った。
次の瞬間。
オランの身体から、電光と共に黄金に輝くオーラが迸った。
瞳が、透き通るような黄金に輝いていた。
「オラン……!」
カメジが、こめかみに一粒の汗を滴らせながら言った。
次の瞬間。
灰色の空が、一瞬光った。
直後、一本の稲妻がオラン目掛けて落下してきた。
大気を震わす轟音が響き渡った。
瞬間的に、その場にいた魔物達が防御の構えを取っていた。
カメジのみが、防御の構えすら取らずにオランと稲妻を見つめていた。
「ぬぅ……!」
そして、カメジは声を上げた。
オランを掴んでいたはずの土の手の中は空っぽになっていた。
なぜ、空っぽなのか。
カメジは、その瞬間をしっかりと見ていた。
天から落ちて来た稲妻が、オランに巻き付くと、今度は分厚い雲の中に引っ込んで行ったのである。
カメジはその技の存在を知っていた。
それは、ある一族のみが使用出来る稲妻に乗る秘技だった。
そしてこの時点でカメジは、オランの抱える秘密をほぼ正確に把握していた。
まさか、と思った。
なんという因果か。
オランよ。
お主には、あの者達が宿っているのか。
勇者と、その仲間達が。
何の因果であろうか。
オランよ。
……また、闘わねばならぬのか。
ワシは、また、闘わねばならぬというのか。
オランが消えて行った遠くの灰色の空を、カメジは無言で見つめていた。
ーーーーー
夜。
そこは極寒の地にそびえ立つ山脈の中腹であった。
空は分厚い雲に覆われているが、猛烈な吹雪に僅かな月明かりが反射しているのか、薄っすらと明るい。
山脈の中のとある氷壁の岩肌に、突き出して台座の様な形になっている岩があった。
そこに、独りの魔物が胡座をかいて座っていた。
全身が白い毛皮で覆われていた。
白い毛皮に、ところどころ灰色の線の模様が入っている。
この灰色の線は元々黒らしかったが、歳を取るにつれて色が褪せて行ったらしい。
かなりの高齢の魔物だった。
高齢ではあるが、その眼光には刃物の様な鋭さが宿っている。
ホワイトタイガーの魔物であった。
右手に、ひょうたんを持ってそれを時折口に運んでいる。
遠くの、南の空を眺めていた。
「くっ、くっ、くっ」
ふと、その魔物が笑った。
依然として南の方向の空を眺めている。
この場所から南に数万キロ離れた位置に、ガララパゴス諸島があった。
この魔物は、その遥か彼方の島で発生した閃光と空気の震えを感じ取ったのである。
勿論、これほど離れた所から閃光など肉眼で見えるわけが無い。
眼には見えない光。
遠方で発生した黄龍の雷光の気配を、この魔物は感知したのである。
真の強者のみが持つ超感覚が成せる業であった。
この魔物は、500年前を思い出していた。
あの闘争の日々を。
四天王の一角として、勇者達と闘った事を。
血湧き肉躍るあの闘いを。
そして、黄龍の雷光が発生したという事はどういう事かを、この魔物は理解していた。
「また楽しませてくれるのかよ」
その魔物は、そう呟いて獰猛な笑みを浮かべていた。
幾多の獲物を斬り裂き噛み砕いて来たであろう太く黄ばんだ牙が、禍々しい気配を醸し出しながら口から覗いた。
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