越境者

春雷

第1話

 春がその姿を眩まし、やがて夏になった。僕は19才になり、ますます凡庸な人間になった。永遠を求めながらも、それにしがみつくことでしか生きられないような、そんな惨めな男に、段々となっていった。そして僕はその感覚をひしひしと感じていた。それはあまりにも僕に負担をかけるような感覚で、ひどく僕を混乱させた。でも振り返ってみると、悪くない経験であったのかなと思う。

 夏。僕は四季の中で何といっても夏が一番嫌いだった。暑いし、やたらとうるさい。でも不思議なもので、晩夏ともなると一抹の寂しさを覚える。まるでロックコンサートの終わりのような気分になる。騒々しいロックミュージックの後の静寂。僕は案外夏が嫌いでもないのかもしれない。ただ、暑さだけはどうしようもなく苦手だった。

 僕は大学2年生になった。普通にバイトをして、普通に授業を受け、普通に暮らしている。つまり普通の人間だった。可もなく不可もない人生。悪くもなく、良くもない。でも僕にはそれがあっているという感じがした。それは僕がきっと無色透明な人間だからだ。色がなく、個性もない。

 憂鬱は日に日に募っていった。きっかけはゼミでの人間関係だ。僕が100%悪いというのではなく、かといって相手に非があるというのでもなかった。それは仕方のないことだった。相性が合わなかったのだ。彼女は専門分野に熱心過ぎたし、僕は冷め過ぎていた。見方によっては僕の方が悪いのかもしれない。でも僕はそう思いたくなかった。それは僕の存在の否定につながってしまうからだ。しかしとにかくそれはもう起こってしまったことなのだし、取り返しようもなかった。僕は孤立した。文字通り孤立した。もともと友達が多い方ではなかったし、地元を離れ一人暮らしをしていたから、僕には相談できる身近な人がいなかった。両親との仲も悪いため、実家に帰りたくもなかった。僕は独りだった。こんなにも孤独を感じることは初めてだった。僕はバイトを辞め、大学に行かなくなった。もう全てがどうでも良くなったのだ。何もかもおしまい。絵本の最後のページのように。僕の人生の絵本は閉じられたのだ。

 そして1ヶ月が経った。指導教員の教授が心配して僕に電話をくれたらしい。らしい、というのは僕が電話に出なかったからだ。ちょうどその時期、僕は昼夜逆転の生活を送っていて、教授は当然、仕事の合間を縫って電話をしているので、昼間に電話をかけていた。昼夜逆転している僕は、昼間はこんこんと眠りについていたので、その電話に出ることができなかったのだ。これには流石に申し訳ない気持ちになった。固定電話に入っていた教授の声には、本当に心配している人の声音がしていた。

 僕はこれからどうすればいいのだろう。そのことを考えると僕はますます不安になった。僕を求めてくれる人はいるのだろうか。僕はこの世界で一体何ができるのだろうか。この世界で生きていくには不用意すぎるほどの僕には、全くの五里霧中だった。先行き不透明のため、この電車は一時停止いたします。

 それから10日経った。ゼミ生の人が僕のアパートに訪ねてきた。僕は無視した。なぜかはわからない。ただ外に出るのがひどく億劫だったのだ。一日中お笑い番組を見て、一度も笑うことなく眠りにつく。そんな日々を送っていた。そんな生活が確立されて初めてのイレギュラーがこの訪問だった。僕は一度固定化されたこの生活を乱されたくなかった。変えられたくなかった。そんな思いがあって、彼の訪問を無視したのだろう。その日の夜たまたま見たアニメで、「人の善意を無視すると一生後悔するぞ」というセリフがあった。僕は全くその通りだと思った。でもどうしようもなかった。ただただ、僕はその言葉を飲み込んだ。間違った方向へ進んでいると分かっていながら、僕はそれを止めることができなかった。慣性の法則は精神にも適応できるのかもな、とかそんなことを考えながらその日は眠った。

 次の日に3日振りに外に出てみた。相変わらず茹だるような暑さで、人々は日傘をさしたり、日陰で休んだり、各々の方法でこの暑さと戦っていた。僕は一日中部屋に篭る生活を何日も続けていたせいで、外がこんなに暑いということを知らなかった。というか忘れていた。無知な俺にも平等に降り注ぐ太陽。それは良くも悪くも平等主義者の洗礼だった。

 外に出たのは銀行へ行くためだった。歩くには少々遠い距離にあるが、暑さにひいひい言いながら何とかたどり着いた。

 自動ドアを潜ると、冷風が僕の体に抱きついてきた。非常に心地いい。生まれて初めて世界はそう悪いものではないのかもしれないと思った。しかしその感情は一瞬で、すぐに消えた。僕は一直線にATMへと向かった。とりあえず残高を確認する。なかなかひどいものだ。奨学金がまだ入っていないため、残高はかなり減っていた。あと一週間暮らしていけるのだろうか。急に不安になってきた。非現実の世界から脱却し、現実の世界へと足を踏み入れたのだ。現実はいくら拒否しようが、否応なく襲いかかってくるものだ。僕はそんなことも知らなかったのか。とりあえず2万円だけおろし、銀行を後にした。

 どこかで昼食を食べようかと思っていると、喫茶店が目に入った。僕はあまり食に関心がない方なので、普段は自分で適当に作って食べたり、レトルト食品で軽く済ませたりする。しかし今日はあまりに暑過ぎて、とりあえず家に着く前にどこか店で涼んでおきたいと思ったのだ。そこでどうせなら昼食も済ませてしまおう、と、そう思ったのだ。

 喫茶店の名は「エンジェル」といった。あまりセンスの良い名前ではなかったが、仕方ない。これ以上歩くのは引きこもりの体には厳しすぎる。ここにしよう。時には妥協も大事だ。信念を捨ててまでも得なければならないものもある。

 ドアを開けると、銀行の時と同じように、冷風が体を撫でた。しかし銀行の時のような心地よさは感じなかった。なぜだろう?2回目だからかもしれない。

 店主は長髪の40代くらいの男性で、店内なのにサングラスをかけていた。髭を伸ばしていて、どこか平和活動をしていた時分のジョン・レノンみたいに見えた。しかし店内に流れているのは、当たり障りのない90年代の邦楽ポップスだったし,店主の隣にオノヨーコはいなかった。

 僕は適当に空いている席を探し,窓際の席に着いた。店内はさほど広くない。建物自体はレンガ調の作りをしていて,どことなく廃墟の感を思わせる。タバコの匂いとコーヒーの匂いで店内は満たされていた。昼時だというのに,客はそれほどおらず、20代の柄の悪そうなカップルと、新聞をずっと睨んでいる退職者風の男性が1人いるだけだ。

 とりあえず何か注文しようとメニューを探したが、どこにもなかった。はてと思っていると、店主が近寄ってきた。

「この店はメニューを置いていないんです」

 想像していたよりもかなり低い声で、彼はそういった。

「実はメニューは一つだけなのです」

「それはつまりどういうことでしょうか」

「この店でお出しできるのはコーヒーだけだということです」

 なるほど。そうしたコンセプトでやっている店なのか。こだわりを持って店主自らコーヒーを淹れてくれるといった風な。

 しかしここで疑問が湧いた。そうしたコンセプトの純喫茶ならば、この客層はどうしたことか。柄の悪そうなカップルと、退職者風の男性。どちらも品のいい客には見えなかった。

「あそこにいる2組のお客さんはよく来るんですか?」

「ええ。常連でございます」

「失礼ですが、こういう雰囲気の店にはそぐわないような気がしまして・・・」

「・・・実は、ですね」

 何とも歯切れが悪そうに店主はそう切り出すと、唇が乾いたのか舌で唇を舐めた。

 そしてこう言った。

「この店ではマリファナを提供しているんです」

 僕はくらっときた。ここは本当に現実なのだろうか。引きこもり、銀行へいき、喫茶店に入り、そして店主がマリファナを売っているなどと言う。それらは全然論理的につながっていないように見えた。しかし現実は一直線に貫かれていた。

「本当は常連になっていただくか、誰かの紹介でこの店に来られた方にしかしない話なんですがねえ。あなたは勘がいいようなので、お話しします。

 ここはドラッグを提供する喫茶店です。本来は夜のみ営業しているのですが、今日はたまたま昼から営業しております。なにぶん、私が明日からちょっと海外へ行くものですから・・・そう、あなたは大変に運がいい。今日はサービスでお出ししますよ。夜からは乱交パーティーもあります。大変にご満足いただけると思います。今日は閉店セールなのですから。まあ、一時的に、ということではありますけれど・・・」

 そういうと店主はサングラスをずらした。真っ赤な目をしていた。まるで僕を検分する蛇のようであった。僕はたじろいだ。人間関係なんかで悩んでいる僕が馬鹿みたいに見えた。

「いや、あの、僕は」

「あなた名前は何というのですか?」

「はい?」

「名前」

「あ、青野と言います」

 もちろん偽名だった。咄嗟に昔の恩師の名を口にしていた。

「青野さん。冷やかしならこのまま帰っていただきますが、警察に言うなどして私の身に何か起こった場合、無事でいられる保証はありませんよ?あなたは今こちら側に片足を入れたのです。それが意識的でにしろそうでないにせよ。人生には往々にしてそうしたことが起こるのです。予期しないところで厄介な出来事に巻き込まれている。これは長い人生におけるほんの一幕に過ぎない。あなたはどうします?実は今ここで重大な決断を下そうとしているのですよ」

 僕は息を呑んだ。文字通り。それまで呼吸をすることを忘れていたのだ。非日常から日常へ、そして別の非日常へ。僕はこの日、越境者だった。意識的にしろ、そうでないにせよ。

 覚悟を決めた。僕はこれ以上間違えるわけにはいかないのだ。

「残念です」

 店主は本当に残念そうにそう言った。


 3年経った今でもその時のことをよく思い出す。あの出来事が何を意味していたのか。しかし意味は見出せなかった。あるいはこれから見つかるのかもしれない。

 また夏がやってきた。僕はあれから大学に復帰し、平凡な日常へと戻っていった。青かった果実はやがて赤く熟していく。僕はまだ青いままだ。これから何らかの意味を見出し、作り出していくのだろう。

 お前はどんな人生を歩むのだ。夏の茹だるような暑さは、相変わらず僕にそう問いかける。

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越境者 春雷 @syunrai3333

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