第十七話 アルケ村の解脱祭③
リツトが惨劇に身を置く最中、ホイミィは森の道を走っていた。
勝手に溢れ出る涙を乱暴に拭いながら、小さな身体を懸命に前へ進める。
体力の無いホイミィは既に肩で息をしており、膝は踏み込む度に左右に揺れる。
そんな中、ホイミィの頭に巡るのは兄との思い出であった。
アルケ村と家を繋げる森の道。
この5年間、幾度となく兄と共に往復した道。
いつも変わらぬ風景の中、兄は毎日違う話をしていた。
前の世界の話や新しい遊びの話、村人から聞いたウワサ話。
前の世界ではヤキュウという遊びをしていたらしく、そのルールを一生懸命に説明されたがよく分からなかった。
ビーンズさんに奥さんがいないのは、釣りのし過ぎで魚と浮気してると思われたからだと言っていた。
ホントかウソか分からない話ばかりだった。
いつも自分の「よく分からない」という感想で終わる、実の無い話。
ウケが悪いとすぐにギャグを始めて、話はどんどん脱線していく。
でも、そんな兄の横顔はいつも楽しそうで、それがなんだか嬉しくて好きだった。
家の中での兄はもっと好きだった。
兄は毎日美味しいご飯を作って、それを食べる自分達をニコニコと見つめる。
「美味しい」と言えばそれはそれは嬉しそうに笑う兄。
その顔を見たくて何度も「美味しい」と言った。
料理を手伝うと「ありがとう」と言ってくれた。
お皿を運ぶと「助かる」と言ってくれた。
どんな小さいことでも、手伝うと必ず褒めてくれた。
ピヨ爺にガシガシと頭を撫でられるのも好きだったが、リツトがころころと笑顔で褒めてくれるのも好きだった。
面白くて優しい兄――リツトはこの世界でたった2つしかないホイミィの宝物の一つであった。
成人すると出ていくかもしれない、と知った時は本当に不安だった。
成人したらどこへ行く? 何をする?
そんなことばかり聞く村人がとても嫌な人達に見えて、声を荒げてしまうこともあった。
リツトがいなくなることを考えただけでとても悲しくて、どうすれば残ってくれるかを一生懸命考えた。
でも考えても考えても答えが見つからなくて、ピヨ爺にそのことを話した。
するとピヨ爺がリツトと話をしてくれて、リツトは残ってくれることになった。
――もうずっと一緒なんだ。ピヨ爺とリツト、2つの宝物と一緒にずっと暮らせるんだ。
ホイミィは嬉しくて嬉しくて、でもそれを本人に言うのはちょっぴり恥ずかしくて、でも誰かには言いたかったから、ヒヨコ水にこっそり教えてあげた。
楽しい毎日がこれからも続く。
2人とも大きくなったら出来ることが増えて、もっと楽しくなっていく。
そう思っていた。
楽しいはずだったリツトの成人祝いは行われず、代わりに開催された血の惨劇。
見知った顔のダルマーが放つかつて感じたことのない殺気。
それが濃厚な血の匂いを伴ってホイミィを襲った。
何人分のそれががそこにあったのか伺い知れぬほど、眼前には大量の血と臓物が溢れており、血が苦手な者をパニックにさせるのは言うまでもない。
ホイミィの動物的感覚が危機的状況を高らかに宣言し、人の形をした肉体はかつてない強張りを見せた。
ホイミィは初めて瀕する命の危機に足がすくみ、リールーとリツトの足を引っ張ってしまった。
その時間のロスが原因か、リツトは再び惨劇の中心へ一人向かうことになってしまう。
恐怖の最中から解放された後に待っていたのは、強烈な自責の念だった。
あのとき一緒に走れたらよかったのかな。
もっと強くダメって言ったらよかったのかな。
たらればで状況を思い返すものの、一向に答えは見出せない。
そこにあるのは後悔のみで、考えれば考えるほどにそれは鋭利な刃物となってホイミィの心を切り付ける。
しかし、それは心を抉る行為であると同時に、身体を走らせる原動力でもあった。
ああしていれば、こうしていればという過去の自分への未練が、リツトの救出という未来へホイミィを突き動かす。
ホイミィの後悔は涙に形を変え、次々と頬を濡らしていく。
荒い息遣いを遮るように横隔膜がしゃくりあげ、鼻水が口の中に侵入して呼吸を乱す。
ホイミィの正しい呼吸は阻害され続け、余分に体力を削り続ける。
膝は常にガクガクと音を立て、肺から送られてくる空気は熱を帯びて気道を焼く。
それでも懸命に走り続け、限界を超えても尚足を止めなかった。
アルケ村から3人が住む家までは、喋りながら歩いて30分ほど。
ホイミィがペースを保って走れば15分ほどで走れる距離であった。
だが、心を乱し、ペース配分もままならないホイミィは15分が経過してもなお辿り着いていなかった。
ほんの数キロのランニングが、ホイミィにとってはゴールの見えない無限回廊のように感じられ、見知った道であるにも関わらず、自分がどこを走っているのかすら分からなくなっていた。
当に限界を迎えていた精神は、身体の限界をそれと気付かない。
それが結果としてホイミィが走り続けられていた要因となったが、遂に本当の限界が訪れる。
「……あっ」
徐々に上がらなくなっていた足は遂に木の根を超えることが出来なくなる。
ホイミィは体勢を崩し、疲労困憊の身体では受け身を取ることさえ出来ずに転倒する。
地面に全身を強く打ち付け、小さな呻き声が漏れる。
幸い、ホイミィはケガをしない。
ヒヨコ水という名のスライムの特性を持つホイミィは、他の人間と同様に血が流れ、皮膚や内臓も存在するものの、傷はたちどころに再生し、瞬間的な痛みを伴う出血があるのみである。
この場合も同様、転んで擦りむいた膝や腕は血が着いたのみで傷はなく、既に痛みも感じていなかった。
しかし、転んだ瞬間の痛みや衝撃は、精神に大きな負荷を残す。
既に披露困憊のホイミィにとって、それは致命傷となり、身体の力を完全に奪ってしまう。
ホイミィは二度三度立ち上がろうとするが、這いつくばった体勢で力無い身じろぎが起こるだけであった。
「うぅ。ぐすっ。あ゛あ゛あ゛あ゛……」
ホイミィは地面に伏したまま、力無く泣き出してしまう。
リツトを行かせてしまった後悔。
託された使命を果たせない自身の無力。
それらの精神的負荷はホイミィにとってあまりに過剰で、幼い純真は容易く蝕まれ、現状への抵抗力を根こそぎ刈り取ってしまう。
心身共にかすかな余力さえ残さない、本当の限界。
道半ばにして、それは容赦のない現実としてホイミィを襲う。
また、砕かれたのは心身だけではなかった。
転倒によってお守りが破損し、魔獣除けの効能を失う。
魔獣除けのお守りはピヨ爺が与えたもので、武力を持たないホイミィを守る唯一の盾であり、自由を与える翼でもあったが、出涸らしとなったホイミィに愛想を尽かしたかのように役割を終えてしまう。
それは、ホイミィが森の食物連鎖に組み込まれることを意味し、力無く倒れる子供はこの平和な森でさえも、捕食者の恰好の餌となりえた。
しかし、幸か不幸か、ホイミィはお守りが壊れたことにも、また突然嫌な気配を感じなくなったことに気付いた森の動物がこちらへ近づいて来ていることにも気付かない。
「ごめ゛んっなざい゛。ごめ゛んっなざい゛」
ホイミィはただ、自身の無力に打ちひしがれ、か弱い声で泣くことしか出来ない。
「リ゛ヅドっ、ごめ゛んっなざい゛。ごめ゛んっなざい゛」
自分を待つ兄を思い、一人涙ながらの謝罪を漏らし続ける。
役割を果たせず力尽きたホイミィ。
小さな出涸らしに近づく影にはめられた瞳には、光が揺れていた。
*****************************
――アルケ村
「ああああああああ!!!!」
血にまみれた悲劇の渦中、かつて人であった者達の呻き声を掻き消すような慟哭は、村に残された唯一の人――リツトから発生していた。
――痛い!
痛い痛い痛い痛い!
痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛いイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイ……
呆然とした中で感じた熱さは、それが噛まれた傷によるものであると知覚してすぐ痛みへと変わった。
噛みちぎられた左脇腹と右肩は似たような形で抉り取られ、その欠損部はソフトボールがばっこりとはまりそうな半円型をしていた。
かつて経験したことがない激痛に意識が遠くなるような感覚を覚え、リツトはその流れに従うようにそれを手放そうとする。
「……あああああ!!」
しかし、世界はリツトの意識を手放さなかった。
気の遠くなるような痛みは同時にリツトの覚醒を促し続けていた。
痛みから逃れようと体勢を変えてみるが、それらは頑として離れてくれず、変わらぬ刺激を提供し続ける。
リツトがのたうち回る間、2体の村人はかじり取った肉を犬のような恰好で捕食していたが、無常にも、先ほど命を救われ、命を救おうとしたリールーであったものが走り寄り、右の太腿に食らいつく。
「―――!」
新たに生じた激痛に言葉にならない叫び声を上げるリツト。
許容を超えた痛みは再びリツトの視界を暗くするが、またしても光が戻り、逃げることを許してくれない。
少しでも痛みを抑えるべく、右太腿に噛みつくそれを残る左脚で蹴り倒そうと考えるが、それがリールーであると気付き、蹴ることが出来ない。
リールーを含め、解脱した村人達はおおよそ同一人物とは思えないほどに狂気に満ちた表情をし、人ならざる凶行に及んでいたが、姿形をそのまま残したそれらを、化け物と考えきることがリツトには出来なかった。
特にリールーは先ほどまで共に走り、守ってもらった恩がある。
その感謝を、今まさに自分が捕食されている瞬間でさえ忘れることが出来ない。
リツトは、今感じている痛みからも、これから味わうであろう痛みからも逃げることが出来ず、ただひたすらに叫び続けた。
それからダルマーが合流し、右の二の腕に噛みつく。
強く握られた際に右肘の骨が折れ、赤黒く変色する。
ヴェーラはただこちらを見つめ、よだれを垂らして狂乱を続けている。
5体の解脱者に囲まれ、痛みに耐え続けるリツトであったが、出血が致死量に近づいていき、意識の消失が痛みによる覚醒を抑え始める。
次第に視界に映る色彩は淡くなり、霞がかるように色が抜けていく。
それは、これまで幾度と感じた「意識が遠くなる」とは似て非なるものであった。
痛みすら遠のくほどに思考はまどろみ、スゥーっと身体ごと沈んでいくような、ふわふわと空へ浮かぶような、これまで経験したことのない感覚。
リツトが感じたその感覚は、紛れもない「死」であった。
出血は既に致死量を超え、血の海に転がるそれは、まもなく肉塊となるであろうことが容易く分かるほどに生気を失っていた。
心臓の鼓動は次第に弱々しく、またその間隔が長くなっていく。
初めて経験する死を目前に控えたリツトが、まどろむ思考の中で持っていた唯一の感情は、
―――ああ、やっと死ねる。
他ならない安堵であった。
そこには弟の残して逝く罪悪も、父より先立つ親不孝も感じえない、ただひたすらにこの痛みから逃れられるという安堵のみがあった。
往来家族思いであったリツトだが、耐え難い痛みによりその心は摩耗し、一片の残心すら留めることが出来なかったのだ。
もはや痛みも感じず、死を急ぐ気持ちすらもない。
ただ穏やかに死を迎え入れる境地に達していた。
一つ、また一つと感覚を失い、闇へ取り込まれていくのをひたすら受け入れる。
≪動け≫
頭の中に声が響く。聞いたことがある声。
しかしそれは無機質で、感情を汲み取ることが出来ない。
≪動け≫
声に意識を向けると、次第に霧が晴れていくかのように思考がクリアになり、続くように一つずつ感覚が蘇り始める。
≪動け≫
痛覚が蘇る。感じなくなったはずの激流が、再びリツトの脳を焼く。
やっとの思いで逃げることができた苦しみとの再会に、リツトの心は負で満ちる。
痛い。
死にたい。
死なせてくれ。
もう嫌だ。
なんでこんな目に遭わないといけない?
俺はこんなに辛いのに、なんで動かないといけない?
≪動け≫
嫌だ。嫌だ。
嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ
嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ
嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ
≪動け≫
死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい
死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい
死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい
死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい
死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい
死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい
≪動け≫
≪動け≫
≪動け≫
―――!
刹那、心臓に電撃が走る。
止まりかけていたはずの鼓動はかつてないほど活発的になり、既に無いはずの血が全身で脈動する。
身体は寝ていられないほどの熱を帯び、勝手に収縮する筋肉がリツトの身体を飛び上がらせ、群がる解脱者を払いのける。
意思と相反して動いた身体はバランスを崩し、そのまま前方へ転がる。
だが、ところどころ欠損して動かないはずの身体が自然と受け身を取り、姿勢を翻して、解脱者と相対する体勢をとる。
「―――!」
ここでようやくリツトの意識が追いつくが、激痛によって思考を遮られ、口からは血の塊が吹き出す。
あまりの吐血量に思わず口を抑えるが、息苦しさを我慢出来ず、這いつくばるように血を吐き続ける。
吐血が止まると、すぐに全身の傷に意識が向き、各所が盛大に痛みに喚く。
「あああああああ!!!」
収まることの無い激痛はリツトの心を焼き切ろうとするが、意識を失う気配は全くなく、それどころか身体にはエネルギーが満ちる。
リツトは滾るエネルギーに身を任せ、声に苦を乗せ世界へ放つ。
痛い痛い痛い!
なんで死なない!?
なんでこんなに身体が動く!?
身体は傷ついたままで、血も流れっぱなし。
それなのに生きていて、身体は自由に動かせる。
リツトは自身に起きた現状を理解しようと試みるが、激痛によって正常な思考が出来ずにいた。
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