第十六話 アルケ村の解脱祭②


「全員が解脱って……。だってトーマを使い切らなきゃいけないんだろ?

 そんなこと普通に生きてたらそんなこと起こらないってピヨ爺が……」


「そうだぞ! それがなんでみんな!」


 全員が解脱した、というリールーからの衝撃的な報告に、困惑の色を浮かべながら口々に自身の意見をぶつける2人。


 信じられない。信じたくない。


 リツト達はリールーの話が現実でない可能性に縋りつき、外に出ればいつもの日常が待っていることを切に願う。


 しかし、2人の願いは外から聞こえる非日常にいともたやすく破壊される。


 悲鳴。唸り声。何かを引きずるような音。

 特に、何かを引っ掻くような音と呻き声は、すぐ近く、壁の反対側で発生していた。


 この音や声が、壁一枚を隔てた外側は得体の知れない何かによって蹂躙されている、ということを容易に想像させる。


 身体中の血が凍りつくような悪寒。

 内臓が一斉にわめくような不快感。

 全身の毛が逆立つような恐怖。


 それらが同時に身体を責め、息苦しさや眩暈、吐き気となって世界に表現される。


 黙り込んだ2人の手をそっと握ると、リールーは優しい口調で、

「なんでみんなが解脱したのかは分からないの。

 みんな、というのも憶測。

 でも……、村全体が危険に晒されているのは事実。

 だから私はあなたたちを安全な所まで逃がさないといけない。

 不安なのも分かる。分からないことだらけだもの。

 でも、話している暇は無いの。今は黙って私の言うことを聞いてくれる?」


 リールーの諭すような口調には強い意思が宿っていた。

 しかし、依然として変わらぬ悲壮感を含んだ表情が、現状が悲惨であることをありありと示している。


 添えるように握られた手は震えを堪えているように強張り、とても冷たくなっていた。


 リールーの確認に2人は黙ったまま、リツトは1回、ホイミィは2回頷いた。


「よし……。じゃあ入口に近づくわ。合図したら走るから、ついてきてね」


「わかった」

 リツトは短く答えると、後ろで不安そうに震えるホイミィの手を握る。

 するとホイミィは「あっ」と小さく声を漏らすが、その手を強く握り返す。


 リツトは決してホイミィの顔を見ようとはしなかった。

 自分の顔が緊張で強張り、とても頼りになるようには見えないと知っていたからだ。


 外で何が起きているのかは分からない。

 何故解脱したのか?解脱すると具体的にどうなるのか?

 分からないことはたくさんあるが、リツトの脳内にあるのはホイミィの安全だけであった。


 ――小さな弟を絶対にピヨ爺の元へ送り届ける。


 それが今自分が成さねばならないことであり、それだけが自分が考えるべきことだ。

 外で目にする光景は、自分の足を止めようとするかもしれない。

 でも、何がなんでも走り切る。ピヨ爺の元まで。絶対に。


「ホイミィ。絶対に兄ちゃんが守るからな」

 握る手は覚悟を決めるのと比例して次第に強くなったが、ホイミィは離そうとしなかった。


「ドアが空いたら森に向かって走るのよ。私が何をしても、どうなっても走るのよ。わかった?」


「何をしても」という言葉に、リツトは何かしらの策があるのだろうと察する。

「どうなっても」という言葉には得も言えぬ嫌悪感を覚えるが、「黙って」という約束を守る為、頷くしかなかった。


「よし……。じゃあ行くわよ。準備はいい?」


 リールーの問いかけに再び黙って頷くリツト。

 リツトとホイミィの顔を確認したリールーは大きく息を吸い、ドアを開ける。

 ホイミィの手を引くリツトが飛び出し、その後ろをリールーが追う形である。


 飛び出した刹那、眼前に飛び込むは終末世界であった。

 誰もいなかったはずの道には、千切られた誰かの肉や臓物が転がり、引きずるように描かれたどす黒い赤が、部品と部品を繋いでいる。


 向かう先に四足獣のような影が見えた時、


「ネヴロ!」


 リールーが聞きなれない言葉を言い放つと、かざした手からバランスボール大の水塊が発生し、その影を3メートルほど遠くへ吹き飛ばす。


「走って!!」


 ショッキングな光景に萎縮していたリツトは、リールーの言葉で我に返る。

 リールーは吹き飛び砂煙を立てる影に手をかざし続け、リツトが走り出すのを待っていた。

 自分を責める時間さえ惜しまれる状況でありながらも、リツトは不十分な決意でいた自分自身が腹立たしくて仕方がない。


 リツトは震える自分の膝を思いしっかり殴りつけて、ホイミィの手を引いて走り出そうとする。

 しかし、萎縮していたのはリツトだけではなかった。


「ホイミィ!」


 ホイミィは足の力が完全に抜けてしまい、手を引かれた拍子に膝から崩れるように倒れこんでしまう。

 リツトは2度起き上がるように促すが、ホイミィはうわ言のように何か呟くのみで、小さな身体は恐怖にまみれ、身体活動を悉く阻害されている。


「ふん!」


 リツトはホイミィの両手首を掴んで引っ張り上げ、自分の背中に乗せるようにおぶる。

 完全に脱力した人間は重く、小さなホイミィでさえもリツトがよろめくには十分な背荷物となり変わる。

 しかし、リツトは自分の膝を再度殴りつけて自身を鼓舞し、村の出口を見据える。


「ホイミィ。捕まってろよ? 絶対守るからな!」


 当初の計画から十数秒遅れて、リツト達はようやく動き出す。

 その十数秒の遅れが、リールーが生んだ最初のチャンスをフイにする。


 四足の影が砂煙の中から姿を表し、リツト達へ向かって突進してくるが、

「ネヴロ!」


 リールーの手から再度水塊が放たれ、飛び出した四足獣を煙の中に押し戻す。

 それを見たリツトは空いた道を進み、その後をリールーがついていく。


 リツトは足を止めず、振り返らずに足を前へ前へと進めていくが、心中はこの日一番の荒れた様相であった。


 自分目掛けて突進してきた血濡れの四足獣―――それはダルマーであった。

 目は血走り、よだれを垂らしながら走るその姿からは理性を全く感じず、手足には誰かの臓物が絡みつき、離れていても分かるほどの大量の血の匂いがした。


 人間性を失う――つまり理性を失い、人を襲う化け物になる。

 いつも軽口でリツトをからかう明るい牧場主は、姿形はそのままに自身を襲う獣になっていた。


「解脱ってそういうことかよ……!」


 リツトはその信じ難い眼前の惨状に酷い耳鳴りを覚えながらも、背中で感じる小さな弟を救うべく、ゴールへ向かって地面を蹴る。


 村の出口がほんの200メートルほどのところまで来た時、すぐ後ろに聞こえていた足音が止まる。

 リツトは嫌な予感に総毛立ち、思わず後ろを振り返る。


 リールーが足を止め、背後に迫る影を迎え撃とうとする恰好。

 視線の先には血濡れの四足獣ダルマーの他に、髪を振り乱し、2足で立ちながら狂乱するヴェーラの姿があった。


「ヴェーラさん……!」


 いつもの快活な雰囲気は消え失せ、自らの顔を掻きむしったのか無数の掻き傷から出血し、歌舞伎化粧の隈取が如く、理性を失った表情に威を与えている。


 辺りにある家の壁などを殴りつけながらも、少しずつ、確実にこちらへ向かってきており、地べたに這いつくばって唸りを上げるダルマーよりも何をしでかすか分からない危険を孕んでいた。


 立ち止まったリツトへ、後ろを向いたままのリールーが、

「私はここまでねえ。あとは頑張って走りなさい」


 嫌な予感がここで的中。


 ここでいう嫌な予感というのは2体の獣となり果てた村人のことではなく、リールーの姿勢である。


 不惑の美貌を携えた女性の背中には、決死に違わない覚悟を放ち、殿を務めんとする意思が見てとれた。


「リールーさん! 追いていけないよ!」


 リツトが叫ぶのは、正義感からでなく、罪悪感に押し出された言葉であった。

 リールーが自分達の為に命を燃やす覚悟があることは家での会話で気付いていたことだった。


 それを知りながら、不安を感じながらも「ホイミィを守る」と意識することで、目を向けないよう務めていたリツトであったが、実際にそれが始まらんとするタイミングでリツトの全意識を捉え、頑として離さない。


「一緒に逃げようよ! さっきみたいに魔法使ってさ? そしたら逃げられるでしょ?」


 リールーは閉口を維持。それが答えであった。


 村に2つしかない純真に約束させた「黙って言うことを聞け」というルール。

 優しくて賢いリツトが果たしてそれを守ってくれるのか、というのは最大の懸念であり、懸念した通り大一番で破られてしまう。

 しかし、リールーは嬉しかった。


 優しくて賢いリツトはやっぱりこう言うんだ。

 私と一緒に逃げたいって言ってくれるんだ。


 リールーの脳裏には出会った時にリツトが言っていたことが蘇る。


『異世界から召喚された中身は大人の子供ですから』


『あらそうなの~。世界を救いにきてくれたのかしら?』


『ええその通りです。まあ今すぐとはいきませんがね!

 いずれ強くなって皆を守ってみせますよ!』


 小さな勇者が胸を張る様子はとってもキュートで、滑稽だった。

 でも、それがなんだかカッコいいとも思った。

 今は頼りないけど、いつか本当に守ってくれるかもしれないな。

 それまでは私達で大事に大事にしてあげて、優しい勇者になってほしいな。


 そんなことを考えたのはリールーだけではない。

 村人達は彼が優しいまま、すくすくと育っていく様子を楽しみ、また頑張り屋のリツトが手伝いをして回る姿には自然と笑みがこぼれた。

 彼がいつか人を守れるくらい大きくなるまで、みんなで育てていこう。


 リールー含め村人の総意であった「優しいまま大きくなってほしい」という願いは確かに結実していた。

 それが嬉しくて、嬉しくて、たまらない。


 でも、今じゃない。

 成人を控えるリツトであるがまだあどけなさが残り、とてもじゃないが戦力として扱うことはできない。


 これが最後。この子を守ってあげる村の大人としての責務を果たす。

 この子がいずれ人を守れるように。その命を繋げる最後の機会。


 リールーは黙ったまま、背中を見せ続ける。


 自分は責務を果たす。だからリツトは生きて。


 その心を口にはしないが、後ろ姿で、気配で、意思を紡ぎ続ける。


「ファノ・ネヴロ!」


 リールーが呪文を叫ぶと、先ほどの数倍はあるであろう水塊が現れ、膨大な圧力を携えた激流となって2体の影を押し流す。


「……ああああああ!!!」


 リツトは大きく叫び、身体を翻すと、村の出口へ走り出す。

 耳鳴りが強くなり、わめく内臓が胃液を押し出し、口からこぼれ出る。


 自分の為に命を懸ける人を残して去る、という自身の行動に極大の嫌悪を覚えながら、殿を務めるリールーの意思によって背中を押され、一心不乱に足を前方へ放り出す。


 小さな弟だけを背負っているはずの背中が信じられないほど重く感じるのは、足が震えているからか、脳が泣き叫ぶからか、それとも胃液に食道や口を焼かれているからか。


 劣悪な精神状態が数多の身体異常を引き起こして足を止めようとするが、リツトは前を向き続ける。


「生きてね。小さな勇者」


 小さな声で願いを溢すリールーの慈愛に満ちたその頬に、細い流れが伝った。


****************************************


 リールーと別れものの数分。

 無事、村の出口に辿り着いたリツトは、ホイミィを地面に下ろす。


「リツト……?」

 ホイミィが不安そうに兄の顔を見上げるのは、その雰囲気に違和を感じたからであった。


 リツトの服は自身の嘔吐で汚れ、その顔は罪悪感と恐怖に歪んでいる。

 しかし、ホイミィが気にしたのは、並々ならない覚悟が宿るその黒い眸。

 漆黒の中には熱く滾る何かが鼓動し、荒い息遣いで肩を上下させるリツトに使命を与えているかのようだった。


 ホイミィを立ち上がらせ、その服についた砂を手でサッと払うと、リツトは思いを口にする。


「ホイミィ。これからピヨ爺を呼んで来てほしい」


 リツトの頼むような口調から、リツトは一緒に来ないことを悟ったホイミィが、

「リツトはどうするんだ……?」


 リツトは少し沈黙した後、

「リールーさんを助ける」


「ダメ!」

 ホイミィは両のこぶしを力いっぱい握りしめ、震える声で拒絶する。


「他にも助けられる人がいるかもしれない」


「ダメったらダメだ! 行ってどうするんだ!?

 リツトは弱いだろ! 殺されちゃうよお!!」


 ホイミィの眸から大粒の涙が溢れ、リツトの袖を掴んで離さない。


 リツトはその手に添えるように掌を乗せ、諭すような口調で、

「俺はリールーさんの手を引いて逃げるだけ。時間を稼ぐだけだ。

 その間にピヨ爺を呼んできてもらえれば、俺も助かる」


「でも……!」


「聞いてくれ。走って一番速いのはお前だ。

 お前が早くピヨ爺を連れてきてくれれば、それだけたくさんの人が助かるかもしれない。

 俺はお前よりスタミナがあるから長い間逃げることができる。

 こうするのが一番いいんだ」


「……ダメ!そんなのダメだ!危ないことはダメ!」


駄々をこねるようにわめき散らすホイミィに、一度息を吐いてからリツトが、


「言うことを聞け!!!」


 珍しく声を荒げるリツトに目を開いて黙り込むホイミィ。

 その様子を見つめたリツトは袖を掴む手をどけ、静かに話を続ける。


「ここでリールーさんを見捨てたら、俺達はずっと後悔する。

 ご飯を食べる時も、寝る時も、ヒヨコ水と遊ぶ時だって。

 ずっとずっと見捨てたことを後悔して、死ぬまで悲しい気持ちで生きていかないといけない。

 それは絶対ダメなんだ。俺やお前がここで暮らしたいのは、今の暮らしが楽しいからだろ?

 それを作ってくれたのはピヨ爺や、村の皆なんだよ。

 それを捨ててこれまでみたいに生きていこうなんてのは出来ないんだ」


 依然黙り込むホイミィを見据え、一拍置いたリツトは語気を強める。


「お前が助けてくれ、ホイミィ。お前がすぐにピヨ爺を連れて戻ってくれば俺は助かるんだ。

 俺が村の皆を助けて時間を稼ぐ。その間にホイミィがピヨ爺を呼んで俺を助ける。

 一緒に頑張ろうぜ? 戦って勝ち取るんだ。ピヨ爺も言ってただろ?」


 ホイミィは涙を溜め、何やら言いたげな様子を所作に含ませつつも、自身の思いを懐にしまい込み、リツトの意思を聞き入れる。


「よっし! じゃあ行くぞ兄弟!」


「う゛ん゛」


「さあ走れ!」


 リツトがホイミィの背中をポンと叩くと、ホイミィは黙ったまま走り出す。

 リツトは走り去る背中を見ながら1回屈伸をし、それから手足を伸ばす。


「よし」


 リツトは踵を返し、村へ乗り込む。

 リールーと別れた場所へ、一秒でも早く。

 荷物を持たず、決意を固めたリツトは復路を数分で走り切る。


 その眼前には、未だこちらに背を向けて立つリールーの姿があった。

 そこから少し離れて理性なき獣と化したダルマーとヴェーラが地べたに転がっている。


 リツトは身体に力を込め、自身の異能を放つ。


「こっち向けやあああ!!!」


 ――魔獣寄せ。

 

 リツトが持つ、エビの匂いを携えて発現される唯一の魔法。

 魔獣にしか使ったことが無かったリツトであったが、ダルマーやヴェーラの様子から、半信半疑ながらも効果があるのではと考えていた。


 仮に魔獣寄せが効果を発揮すれば、リールーや無事な村の人は襲われなくなり、リツトはただ逃げることだけに集中することが出来る。


 実際、その作戦は的中する。

 ダルマーとヴェーラは匂いを嗅ぎ取るや否や、意識をこちらに向け、突進してきそうな構えを見せる。


 ……よし!まずはオッケー!

 後は逃げるだけだ。まあそれが一番の問題ではあるんだけど。

 建物の中に入る?壊されたりはしないだろうか・・・?

 いや籠城は最後の手段だ。まずは逃げながら、無事な人を探す。


 ……え?


 これからの策を巡らすリツトは、こちらを振り返るリールーに気付き、思考が停止する。


「リールーさん?」


 振り返ったリールーの顔は掻き傷から出た血で濡れ、瞳は一片の理性すら感じないほど濁っていた。

 不自然に上がった口角が、その赤い顔に笑みを含ませ、邪悪な気配を漂わせている。


 リールーは解脱してしまっていたのだ。


 2人を逃がす為に魔法を使いすぎたのか、

 それともヴェーラ達と同様の何かが起きたのかは分からない。

 しかし、若さを保った柔和な美しさは狂気に塗りつぶされ、悪辣なケダモノと形容されるに相応しい様相を成していた。


 ――間に合わなかった。


 リツトの脳内に後悔が充満し、その場にただただ立ち尽くす。

 無力感がずっしりと両肩にのしかかり、視界は黒く沈んでいく。


 助けられなかった。自分を助けてくれたリールーさんを。


 他の人は? 他に生きてる人を救わないと。


 でも、本当にそんな人がいるんだろうか?

 もしかして、もう誰もいないんじゃないだろうか。


 無駄足だった? この行動には何の意味も無かった?


 リールーさんに救ってもらった命を俺は無駄にしてしまったんだ。


 ああ、やってしまったなあ。俺はとんだバカをしてしまった。

 大人しくホイミィと一緒に逃げればよかったんだ。


 ――熱い?

 

 熱い熱い熱い。

 なんだこれ?


 自責の念に囚われ呆然とするリツトであったが、身体が燃えるように熱くなるのを感じ、次第に身体が重くなる。

 その異変によって現実に引き戻されたリツトは自分の身体を見やる。


「……あ?」


 そこには2人の村人がいた。


 その2人はそれぞれリツトの左脇腹と右肩に背後から噛みつき、肉を引き千切らんと顔を振っていた。


―――


身体から決して聞こえてはならない音が鳴る。

眼球がぐるりと回り、視界が暗転する。





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