第9話 ごめんね

 「久しぶりに見た、笑ってる顔なんて」



 そこにいたのは、白くて小さな猫だった。誰の声でもない。あの日公園でうな垂れていた歩に話しかけた猫だった。


 歩は辺りを見渡して唖然とした。人がいない。焼き鳥を頬張っていた元気も、目の前で肉まんを買おうとしていた元気の父も、真冬にも関わらず薄いTシャツ一枚でせっせとフランクフルトを焼くおじさんも、境内で走り回る子供達も、いなくなった。



「相変わらず分かりやすいね。すぐ顔に出る」



 猫は得意そうな顔をした。歩は目の前で起きた現象に驚きつつも、冷静な返答をした。



「そこそこ長く一緒にいたけど、さてはお前、ずっと俺のこと見下してたな」



 飄々とした態度の猫は心底驚いた様子で、あからさまに動揺していることが見て取れた。



「……まさか気付いていたとは。意外と勘が鋭いね」



 今度は歩が得意そうな顔をして見せた。



「可愛い見た目で、考えてることは意外と冷めてるのか?知らないほうが良かったかも」



 猫はクスクスと笑いながら、前足で口元を抑えるようなしぐさを見せた。



「前に会った時とはずいぶん雰囲気が変わったね。顔色もいいし」



「何の用だよ。ていうか、こんなことして大丈夫なのか?俺がいきなりいなくなって騒ぎになってるんじゃ……」



 猫はすかさず否定した。



「それはないよ。ここは歩がさっきまでいた世界とはちょっと違うんだ。時間の進み方とか、いろいろね。怖がらなくても大丈夫。すぐに戻してあげるから。僕の時間もないしね」



「何言ってんだ。怖がってない。……なんだよ違う世界って。もう何が起こっても驚かねえよ」



 歩は冷静だった。初めて猫と話した日、ひどく狼狽していたのが噓のように、じっと猫の目を見つめていた。


 猫は口を開いたが、一瞬、少し話しづらそうに下を向いた。



「僕は今日、謝りに来たんだ」



 猫は顔を上げ、真っ直ぐに歩の顔を見て言った。今までのようなひょうきんな態度ではなく、何か思いつめたような表情をしているように見えた。


 歩はしばらく黙っていたが、ゆっくりと口を開いた。



「……何をだよ」



 猫ははっきりと、言葉を詰まらせることなく堂々と言った。



「お父さんと、お母さんと、桜子ちゃんのことを」



 歩は表情を変えることなく、猫の話を聞いた。







 歩が修学旅行に行った日の夜、歩以外の三人と飼い猫のコテツは、いつものように夕食を食べていた。会話の内容は主に、自分たちが小学生の時に行った修学旅行先についてだった。



「いいなー。思い出したら行きたくなってきた。私も修学旅行行きたい!」



「桜子はいいじゃない。中学校でも、高校でも行けるんだから。私ももう一度行きたいわ。」



「歩が帰ってきたらみんなで旅行行くか!母さん、一緒に制服でも着る?」



「絶対嫌よ」



「歩だけ連続で旅行なんてずるい!」



「桜子は中学でまた修学旅行に行くじゃねえか。その後にまた行こう」



「よし!絶対忘れないでよ!」



「わかったよ。コテツも一緒に泊まれるところにしないとな」



 三人が一斉にコテツを一瞥した。母はその時、コテツの異変にいち早く気が付いた。



「ねえ。なんだか元気がないように見えない?」



 コテツはぐったりとしていて、いつもなら一瞬で平らげるキャットフードに口をつけず、ほとんど残していた。



「どうしたコテツ。具合でも悪いのか?」



 母はすぐさま駆け寄り膝をつき、コテツの背中に優しく手を置いた。



「ねえあなた。明らかに様子がおかしいわ」



 母の声は冷静だったが、焦りのようなものが確かに混じっていた。



「お父さん、早く病院に連れて行かないと」



 桜子もコテツの前でしゃがみ込み、小さな頬を優しく撫でた。



「よし、すぐ見てもらおう。近くの動物病院、確か夜間でも見てくれたはずだ。すぐに行ってくる」



 父はペット用のキャリーバッグにコテツを優しく誘導し、パジャマ姿のまま薄手のブルゾンを羽織り、車が置いてあるガレージへと向かった。


 父が車のエンジンをかけると、同じくパジャマ姿の母と桜子が後部座席のドアを開けた。



「お前たち何してるんだ?」



「何って、私たちも行くわよ」



 父は驚いて目を丸くした。



「いや、もう遅いしいいよ。俺が一人で行ってくるから」



「家族の一大事なんだから、連れて行ってよ!」



 母と桜子の押しの強さを前に、父はポリポリと頭を掻きながら笑った。



「優しい家族を持って俺は幸せだよ。よし、行くか。待ってろよコテツ」



 父はそう言うと車のキースイッチを回し、優しくエンジンを踏んだ。







 「そのあとは君も知っている通りだよ。脇道から急に飛び出してきたトラックに衝突し車は大破した」



 歩は何も言わずコテツの話を聞いていたが、しばらくしてゆっくりと口を開いた。



「謝りたかったことってそれかよ」



 コテツはゆっくりと頷いた。怒られた後の子どもが親の顔色をうかがうような目で歩を見た。



「僕のせいなんだ。みんなを道ずれにしてしまった。本来なら、死ぬのは僕だけだったはずなのに」



 歩はわざとらしく大きなため息をついて、頭をポリポリと掻いた。



「何を言ってるんだ。そんなわけないだろ。悪いのは猛スピードで飛び出してきたトラックだ。まあ、どうして父さんがあの道を使ったのかも謎だけど。免許をとってもあの道だけは通るなって口うるさく言ってたのにな。通るにしても細心の注意を払うと思うけど」



 コテツはその表情をますます曇らせ、歩をチラチラと見た。



「そこだよ。それこそ、僕が誘導してしまったといっても過言じゃない」



 歩は眉を曲げ、不思議そうな顔をした。



「どういうことだ?」



「車で移動中、急に体調が悪化してね。それまで安全運転だったお父さんは慌てて道を変更して、例の悪路に入ったんだ。当然そんな状況だから注意も散漫になっていたと思う。それに、もうあの時点で僕は助からなかった。自分の身体に何が起きていたのかは分からないけど、それは瞬時に悟ったよ」



 コテツは泣き出しそうな声で話を続けようとした。



「いっそのこと、僕のことは諦めてくれていれば……」



「もういい、やめろ。コテツ」



 歩はコテツの言葉を遮るように、大きめの声を出した。



「本来死ぬのは僕だけだったってそういうことかよ。本来も何もないだろ。全員死んじまったんだ。それだけが事実だし、もう変わることはない。それに、父さんも母さんも姉貴も諦めたりするような人たちじゃない。お前は家族なんだぞ」



 コテツはとうとうポロポロと大粒の涙を流した。境内の屋台に取り付けられた電球から放たれる光が反射して輝いていた。まるで琥珀色の宝石のようだった。







 「短い猫生だったけど、楽しかったな」



「なんだよ猫生って。まあ、それは良かった」



「歩が僕を拾ってくれたおかげだよ」



 歩は、少し照れ臭そうに下を向いた。



「歩に段ボールの上から覗き込まれた時、ああ、終わった。殺されるんだって思ったよ」



「なんでだよ。優しく抱きかかえてやったろ」



 コテツはケラケラと笑った。



「いやいや、すっごく怖い顔だったよ。眉間に皺が何本も寄ってた。手もブルブル震えていたし」



 歩はまたも照れくさそうに下を向いた。



「あそこで逃げ出していたら、きっともっと早くに死んでいただろうね。幸せっていうものが何なのかも知ることなく。この感覚はきっと、何度生まれ変わっても忘れないと思うよ」



 コテツは雲の隙間から見える空を見ていた。これまでの思い出を一つ一つ噛みしめているように見えた。



「生まれ変わり……コテツは、今度はこの白い身体で生まれてくるのか?」



「いや、それは分からない。今君が見ている猫は、まあ、いわゆる幽霊だよ。どんな生き物も死んだら形は残らない。ただ、この世を生きた痕跡みたいなものがしばらく残ろうとするんだ。それらがまた新しい命として生まれ変わる準備に入るまでの間、この幽霊の身体を借りることができるのさ。何をするかは基本的にはその人の自由だ」



 歩はもう何が起こっても動じないでいるつもりだったが、やはり驚きを隠せなかった。まるでアニメや漫画のような、作られた世界に迷い込んでしまったようだった。



「未だに信じられねえ。本当にそんなことが起こっているなんて。ていうか、何をするのも基本的に自由って言ったけどさ、姉貴は俺には会えないって言ってたらしいぞ」



 コテツは、申し訳なさそうに視線を下におろした。



「それは例外なんだ。家族はみんな君に会いたいと思っていたよ。直接会話できるわけじゃないけど感じるんだよ。それはたぶん痕跡になった生き物同士の会話みたいなものなんだと思う。そして分かるんだ。この世に生存している生き物に接触できるのは一つの痕跡までだってことが。これも誰かに教わったわけじゃない。多分みんな自然と理解できるんだ。……だからお願いしたんだ。僕に行かせてくれって。会って話をしないと、何回生まれ変わっても後悔すると思って。だからこうして君の前に僕が現れて、お父さん、お母さん、桜子ちゃんは来なかったんだ」



 歩は、また泣き出しそうなコテツの頭に優しく手を置いた。



「もう泣くなよ。それに、みんなちゃんと会いに来たぞ。直接話すことはなかったけど分かるんだ。まあ姉貴のはほぼ伝言だったけど」



 コテツは歩をじっと見ていた。その水晶のような目を通して、記憶に焼き付けているようだった。



「会いに来てくれたのがお前でよかったよ。コテツ。ありがとう」



 次の瞬間、コテツの身体から光の粒子のようなものが溢れ出した。







 「時間だ」



 コテツは小さな声でそう呟いた。



「歩。君に出会えて本当に良かった。こんなにたくさんの思い出があれば、何度でも生きていける。……僕からは何もしてあげられなかったけど、いつも君の幸せを願っているよ」



 コテツは涙を流していたが、その涙も光の粒子となって次々と消えていった。



「今日ここに来てくれただけで十分すぎるくらいだ。……俺も生き抜いて見せるよ。強くなる。そして幸せになるから。見ててくれ」



 コテツはほとんど消えかかった小さくて丸い手を歩の方に差し出した。



「最後に、手を」



 歩は両手で、優しくコテツの手を包み込んだ。



「また会おうな」



「うん。もちろんだ。やっぱり、君の手は温かいな」



歩が瞬きすると、コテツの姿はもうなかった。静かだった境内が、次第にざわつき始めた。







 「歩君!どうしたんだい?」



 目の前では元気の父が、歩の顔を心配そうに覗き込んでいた。歩は訳が分からず茫然としていたが、すぐに元気の父の態度の意味が理解できた。



「どうして泣いているんだい?」



 頬は涙で濡れて冷たくなっていた。いつから泣いていたのか、歩は全く覚えていなかった。



「とりあえず、今日は家に帰った方がよさそうだね。元気を呼んでくるからちょっと待ってて……」



 元気は屋台で買った焼き鳥を持って、父のすぐ後ろに立っていた。



「これ、一緒に食べよう」



「元気。歩君は体調がすぐれないみたいだ。今日は家に帰って休もうか」



 元気は父の言うことを聞かず、ずかずかと歩の方まで歩み寄り、焼き鳥を差し出した。



「大丈夫だろ?なんでか分からないけど、さっきより元気そうに見える」



 歩は笑った。元気を友達だと心から思った。



 焼き鳥を受け取り勢いよく頬張ると、賑わう境内へ元気と共に駆けだした。

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