第8話 友達
「……なあ、どこまでいったんだよ」
「何が」
「何がって、侑子先輩のことに決まってるだろ?俺はそのことが気になって気になって、昨日なんか米三合しか食えなかったんだぞ。どうしてくれるんだよ」
「今まで何合食ってたんだよ……」
黒杉侑子との噂が学校中に流れて以来、歩は、今までとは種類の違う視線を感じるようになっていた。中には好奇心が恐怖心に打ち勝ち、歩に話しかけてくる生徒もちらほら増え始めてた。そんな中で一人、毎日のように歩にべったりな生徒がいた。
名は小森元気という。いつ見ても片手にアルミホイルに包まれたおにぎり持っていた。彼に関しては歩に対する恐怖心などはおそらく微塵もなく、ただ、孤高の黒杉侑子に男の影があることを知り、あまりにも気になって授業中はよく眠れず、米も一日三合しか食べられないほどに落ち込んでいるらしい。
◇
「小森、お前少し痩せたか?」
「ああ、西郷ちゃんか。……やっぱそうだよな」
小森元気は落ち込んだトーンで答える。
「どうした、悩みでもあるのか。そんなに落ち込んでいるところを見るのは初めてだ」
「実はさー……!」
小森元気はハッとした顔つきで、視線を遠くへ向けた。正面にいる西郷をすり抜けて視線が向かった先には、飼鳥歩の姿があった。
「そうだよ。あいつだよ。元凶は。あいつのせいで、俺はこんなことになっちまった」
西郷は、無意識のうちに険しい顔つきになった。飼鳥の母が乗り移ったと思われる猫との会話から一週間が経とうとしていたが、西郷はこれといってアクションを起こせずにいた。小森元気のこともある。二人の間に何があったのか確認しつつ、徐々にあの固結びを無数に繰り返したような雁字搦めの心を紐解くヒントを見つけなければならない。
「おはよう、歩ちゃん」
「おはよう……なんだよ、その呼び方は」
「今、絶賛恋のお悩み相談中なんだ」
「またその話か」
西郷は二度見、いや、目玉が痙攣するほど何度も見直したが、そこには当たり前のようにクラスメイトと会話する飼鳥歩の姿があった。脳が考えることを辞め、棒立ちのまま二人をただ眺める。
「西郷ちゃん、知ってる?三年の黒杉侑子先輩」
西郷は止まった脳を無理矢理回転させ、「ああ、もちろん」という言葉だけ絞り出した。
「こいつと付き合ってんの。俺は今でも信じらんねえよ。何聞いても、勿体ぶって答えねえんだよ。なんとか言ってやってくれよ西郷ちゃん」
「だから、違うって言ってるだろ」
ああ、そういえばそんなことを雪村先生から聞いたと、西郷はふと思い出した。ちょうど教室を覗き見していて変人扱いされた時だ。だが、そのあとしばらくしてあからさまに残念そうな顔をした雪村先生から、それが誤報であったことも聞いていた。
「なるほど……それは教師としては放ってはおけないな。飼鳥、先生にも詳しく」
「なんでだよ!本当に違うんだって……」
「ほら、担任と友達に隠し事なんてひどいだろ」
小森元気はそう言うと、大きなバランスボールのようなお腹で、歩を西郷のいる方へ軽く押し飛ばした。お腹の肉の弾力で、細身の歩はふわっと宙を浮いたかのような挙動で西郷の胸へと飛び込んだ。
「なにすんだ……」
小森元気に文句を言いながら顔を上げる歩を西郷は見下ろした。強気な態度にばかり気がとられ今まで気が付かなかったが、その身体は想像以上に細く、か弱く、包み込んでしまえるほど小さかった。
西郷は、歩の頭に無意識に手を置いた。
「あー……すいません……ていうか、この手は……?」
西郷は我に返り、慌てて手をどけた。手の向こうにある歩の顔を恐る恐る確認し、鼻の奥が熱くなるのを感じた。あのまるで狂犬のようにつり上がった目は、どこへいったのだろう。何物も寄せ付けない黒々とした雰囲気は、その色を薄め、近寄る者たちを少しずつ受け入れようとしていた。
「いい顔になってきたじゃないか!飼鳥!」
西郷は大きな声でそう言うと、歩を引き寄せ、強く抱きしめた。
「うわあ!西郷ちゃんが飼鳥に抱きついた!」
小森元気の声に反応した生徒たちが、教室からわらわらと出てきてははしゃいだ。
「やっぱり噂は本当だったんだ!」
一人の女子生徒が言った。
「どんな噂?」
他の生徒たちが四方八方から質問を投げかける。
「西郷先生、飼鳥君のことが好きだって。三年の黒杉先輩に取られて悔しがってるって聞いた!」
「まじかー!」
「こら!誰が言ったんだそんなこと!」
歩は顔を埋めた西郷の胸の中で笑った。誰にも見えないように。生徒たちの騒ぐ声が心地よかった。おじさんの胸だというのに、どうしてだろうか。一瞬懐かしい匂いがした。それはまるで、母のような匂いだった。
◇◆◇
リビングのテレビに目を移すと、煌びやかな衣装を身に纏った芸能人たちがカウントダウンを始めていた。ソファーに座る正孝は、年の替わりを見届けようと起きていたが、ほぼ瞼は開いていなかった。
歩は正孝とテレビを一瞥した後、台所の椅子に引っかけたダウンジャケットを羽織った。それと同時に、テレビには「Happy New Year」の文字がでかでかと表示され、しばらくして家のインターホンが鳴った。
「ハッピーニューイヤー!」
玄関の扉を開けると、大きな身体で飛び跳ねる小森元気の姿があった。そして開いた扉の影から、大柄の男性がひょっこりと顔を覗かせて微笑んだ。
「明けましておめでとう。元気の父です。すまんね。こんな遅くに」
歩が発した「おめでとうございます」をかき消すような足音と共に、正孝は慌てた様子でリビングから出てきた。
「小森さん!すみません。わざわざお越しいただいて。明けましておめでとうございます」
「おめでとうございます。とんでもない。元気も私も楽しみにしていましたから。こちらこそ、こんな遅くにすいません」
「いえいえ。今日は歩を、よろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしくお願いします。どうでしょう。よろしければお父様もご一緒に」
正孝は少し迷ったような素振りを見せたが、「いえ、せっかくですが私は……」と、申し訳なさそうに断った。
「それでは、行ってまいります」
そう言うと、元気の父はゆっくりと歩き出した。元気がその後を追う。正孝が言った「気を付けてな」の言葉が、薄い雲のように空気中を漂った。歩はそれをすくい上げるように小さく手を振り、二人の後に続いた。
◇
十分ほど歩いたところにある神社は規模こそそれほど大きくはないが、数軒出店ができており、近隣の住民たちも集まりだし賑わっていた。元気は出店を見るや否や、首からぶら下げた小銭入れを握りしめて走り出した。
「危ないぞ!道が凍ってるかもしれないから!」
父の呼びかけなど、元気の耳には届いていなかった。頭の中が食べ物で支配され、それ以外の情報をシャットアウトしているようだ。
「まったく、だから太るんだぞ」
元気の父がそう言ったので、歩はその元気よりも大きなお腹を一瞥した。
「人のこと言えないか」
歩の視線に気付いたのか、それとも初めから言う気だったのか定かではないが、元気の父はそう言って笑った。
「歩君も何か食べたいものはないかい?おじさんも何か食べたいし、一緒に買ってあげるよ」
歩は大きく首を横に振り、両手を前に突き出した。
「いやいや、そんな……」
「遠慮はしなくていいよ。いや、むしろ買わせてほしいんだ。いつも元気と仲良くしてくれているみたいだから」
「ああ、いや、こちらこそ……です」
歩はクラスメイトの親と話をするのが少し苦手だった。嫌というわけではないが、達観した余裕のある雰囲気を前にすると、変に緊張してしまう。
「最近学校から帰ってくるとやけに機嫌がいいものだから、『何かいいことでもあったのか?』って聞いたら、『友達ができた』って。あいつの嬉しそうな顔を見てると、こっちも嬉しくなってきてね。どんな子なんだろうって気になってたんだ。ありがとう。今後ともよろしくね」
歩は心の中で首を傾げた。元気に友達がいないなどという印象は全くなかった。むしろ、人気者なのだとさえ思っていた。
歩はそのままを口にした。
「元気君は……僕がいなくても人気者だと思います」
元気の父はしばらく黙った後、少し困ったような顔で微笑んだ。
「ああ、人は多く集まっているだろうね。でもあいつ曰く、友達ではないんだそうだ。仲良くなりたいというより、いかに刺激しないように接するべきかを考えて近づいているんじゃないかって。実際にクラスの子たちと話しているのを見たことがあるけど、……確かにそんな感じだった。まあ、体もかなり大きいし、何より数年前は度を超えたやんちゃ坊主だったしね。そのイメージが強く残っている子も多いんだと思う。あと、あいつ実は意外と人見知りなんだよ」
歩は口をぽっかりと開けたままその話を聞いていた。ふわふわとしていて、人懐っこく、人当たりの良い性格という、元気に対して抱いていたイメージとはかけ離れたものだった。何より自分に話しかけてきたのも、そういった性格による興味本位だと思っていた。
父親づてではあるものの、元気が言ったという「友達」という響きに、歩の頬は少し熱くなった。
「あいつおじいちゃん子だったんだ。本当に大好きでさ。でも、今から五年位前に亡くなったんだ。それからしばらくは、ひどく落ち込んだり、逆に荒れたり。今までよりもさらに不安定になっていって。学校にもほとんど行かなくなったんだ。でも、ある日を境にあいつ、変わったんだ。ものすごく急なことだったからすごく心配したんだけど、大丈夫だって。確かに何か吹っ切れたような、憑き物がとれたような表情になっていて。しばらくしてから教えてくれたんだけど、じいちゃんに会ったって言うんだよ。まだまだ幼いし、そういう体験をする子どもって珍しくないって話もよく聞くからね。元気もそういうタイプなのかな、くらいに考えてたんだけど……」
元気の父は、言葉を選んでいるように少しの間黙っていた。これからワクワクするような話を聞かせてあげるといわんばかりの顔をしていた。
「僕はてっきり、半透明で、足先に向かうにつれて形がぼやけているような、ザ・幽霊みたいなのを見たものだとばかり思っていたんだけど、どうやら違うみたいでさ。猫が話しかけてきたって言うんだよ。おじいちゃんと同じ声の猫だったって。それを聞いた時にはさすがに驚いたよ」
歩は、驚きのあまり声も出なかった。元気の父は少し興奮気味に話を続けた。
「だって、言い伝えとまったく同じなんだからね」
歩はすかさず質問した。
「言い伝えって何ですか?」
「ああ。この辺りの地域に伝わる言い伝えだよ。死んだ人間や動物が白い猫に姿を変えて現れて、困ってる人に話しかけてくるっていうね。昔の人たちは白い猫を見かけると、神様の生まれ変わりだといって頭を下げる人もいたそうだよ。僕らの時は、『お化け猫』って言われてたけどね。時代が進むにつれて怪談話になっちゃったみたい。最近ではほとんど語られなくなったけど、昔はじいちゃんとかばあちゃんからよく聞かされたな」
あまりにもワンダーな、どこの地域でも語られていそうな話。だが、その言い伝えが真実であることを、いったいどれほどの人間が知っているのだろうか。
「でも元気の話しを聞いた感じだと、どうも夢とか幻の類ではなさそうな気がするんだよな。なんだか妙にリアルでね。猫の話し方を聞いても、まるっきり同じだったんだ。まあ、僕のお父さんだからね。ちなみに元気には、『いつまでもウジウジしてちゃいかん』って、お説教しに来たんだとさ。あいつにとってはそれが嬉しかったみたいだ。……確かに死んでも説教しに来そうな人だった」
元気の父はしんみりと微笑んだ。少し遠くの方を見て、過去を想起しているようだった。
「ごめんね!矢継ぎ早に喋ってしまって。息子の友達と話すのはなんだか嬉しくて、つい」
歩は何か返事をしようとしたが、元気の父は「さあ、僕達も食べよう」と言って、近くの屋台へ向かって駆けだした。その姿が先程の元気にあまりにもそっくりだったため、少し笑いがこみ上げた。
「やあ」
こみ上げた笑いが口元を歪めようとした瞬間、歩の後ろから聞き覚えのある声がした。
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