第7話 西郷先生

 西郷は気になっていた。近頃、飼鳥歩が学校へ来ている。授業中は教科書も見ず窓の外を眺めているだけと、態度が悪いことに変わりはないが、それでもほぼ毎日学校に来るとは凄まじい進歩だ。一体何があったのか。



「何してるんですか。西郷先生」



 突然声を掛けられ、棒状のものにびっくりする猫のように跳ね上がった。



「雪村先生。驚かさないでください」



「私の方が驚きました。教室の扉にへばりついてジロジロ教室の中を覗いている西郷先生を見てしまいましたから。完全に不審者ですよ」



 気が付くと数人の女子生徒が教室二つ分ほど離れた場所から、こちらを見ながらひそひそ話しているのが見えた。会話は聞こえないが、言われていることは見当がついたため考えるのをやめた。



「飼鳥君が気になるんでしょう。最近学校に来るから。担任なんですから直接聞けばいいのに」



「そうもいきません。逆に何かデリケートな問題を抱えているのかも」



「あれくらいの年から人間はみんなデリケートになり始めますよ。まあ……これはただの噂ですけど」



「なんです?」



「三年の黒杉さんとお付き合いしているとかいないとか」



「……なんですと……?」



 三年の黒杉といえば、頭脳明晰、容姿端麗、運動神経抜群、おまけに実家はお金持ちの完璧超人として名高いが、教師ですら近寄りがたい雰囲気を放っており、あまり群れて行動しないため深く素性を知る者はほとんどいない。そんな彼女と飼鳥が……いったいどういう風の吹き回しだろうか。西郷は不思議でならなかった。



「公園でデートしているのを見たって二年の男子生徒が騒いでいました。いいですね。ザ・青春って感じで」



 雪村先生は続けた。



「気を使っているつもりでも、そんなに見ていたらむしろ過剰に首を突っ込んできていると思われてしまいますよ。ほどほどに」



 雪村先生は爽やかな笑みを浮かべた後、颯爽とその場を去っていった。西郷は急に恥ずかしくなって頭を掻いた。







 教頭の有田は、飼鳥が学校へ来ていることをあろうことか「面白くない」と言い放った。あれほど毎日喚きたてていたのも、西郷への嫌がらせの口実にしたかっただけなのだろう。こんな人間が教師を名乗ることができるのは大きな問題だと、西郷はほとほと嫌気がさしていた。


 もうこんな仕事にこだわる必要はない。なんだかんだ人生は長いのだから、なるべく心労の無いような環境を率先して選ぶべきだと何度も自分に言い聞かせている。


 この学校に配属されて早々に自分が教師に向いていないと感じ、辞めるための準備は着々と進めていた西郷だが、飼鳥歩の入学が、その準備の進捗を大きく遅らせることになった。これほどまでに生徒のことを気にかける性格だったとは自分でも驚きだった。




 時間はそれほど遅くはないが、ふと顔を上げると外はすっかり暗くなっていた。泥のようにしつこく纏わりつく空気を無理矢理振り払うように、西郷は職員室を出た。早足で駐車場へ向かう。西郷は自身の愛車に乗り込むこの瞬間が好きだった。全てから解放され、誰にも邪魔されない自分だけの空間。これほどまでにひとりの時間を好むようになったのはいつからだろうか。少し前まで、人とかかわるのが好きだった。だからこそ教師を志したのだが、今では見る影もない。


 暗闇に愛車のボンネットがぼんやりと浮かんでいる。鍵を開けようと車に向けてスイッチを押すと、フロントライトが点滅した。その点滅に合わせるようにか、それより前からそこにいたのか定かではないが、西郷は、ボンネットの上にうっすら光を放つ何かを見た。それと同時に幼いころの記憶が、まるで滝にでも打たれているかのような激しさで、頭の中を駆け巡った。







 西郷は気が付くと、ボンネットの上に座る猫を目がけて走り出していた。



「母さん!」



 まだ校内には人がいるというのに、大声で叫んでいた。幼い記憶の中に微かに残っているおとぎ話のような出来事。あれは夢ではなかったのかもしれない。


 肩で息をしながら、猫に覆いかぶさるようにボンネットに手をついたと同時に、猫はゆっくりと口を開いた。



「申し訳ございません。人違いです……いや、猫違いというべきかしら」



 西郷の大きく動く肩は一瞬ピタリと止まった。その声は、聞いたことのない女性の声だった。



「すいません。早とちりをしてしまいました。あなたはいったい……」



 猫は目を大きく見開き、驚いたような顔をした。



「この奇怪な状況に動じず、それどころか言葉を返してくださるなんて。まずは落ち着いて話を聞いてもらうところからだと身構えていましたのに」



 その言葉を聞いて西郷は驚いた。まるで相手が人であるかのような、自然な返答をした自分に。やはり一度経験すると、慣れるものなのだろうか。



「確かにそうですよね。実は過去に似たような体験をしていたもので……」



 過去の体験というのもそうだが、この猫から発せられる、相手を落ち着かせる声。優しくもあり、厳しさの混じった引き締まった声でもある。まるで生徒の保護者と話しているかのようだ。


 猫は別段驚いた素振りも見せず「あらまあ」と上品に言った。



「すみませんね。夜分遅くに。こんな場所に座ってしまって」



「お気になさらず。ところで、失礼ですがお名前は……」



「……飼鳥と申します。息子が大変ご迷惑をおかけしております。申し訳ございません」



 西郷は驚きのあまり息が詰まりそうになった。飼鳥の家族については何度か考えたことがあったが、もっとがさつで、大雑把な方達だとばかり思っていた。


 飼鳥に関する悩みは尽きないが、「ええ、毎日大変です」と言うわけにもいかず、ありきたりな返答をした。



「まさか。とんでもございません」



「私が母親だと言うと、驚かれる方が多いんです。実は血が繋がっていないのでは?なんて、根も葉もない噂が立ったこともありました。まあ外見もそうですが、あの子は何から何まで夫似ですからね」



 驚いた素振りは出さないでいたつもりだったが、まるで西郷の心を読んだように猫は言った。



「お父様は、どんな方なんですか?」



「まったく、とにかく適当で、何も考えておりませんの。まあそこが良さでもあるんでしょうけれども。人には好かれやすいタイプでした。何か特別なことをしているわけでもないのに、いつも注目されているような。不思議と人を惹きつけるんです。私もその一人だったわけですが」



 話し出しこそ愚痴っぽかったものの、最後は少し照れ臭そうに、可愛らしく笑った。仲の良い夫婦だったことが窺い知れる。


 何から何まで父親に似ているということは、飼鳥も本当はそのような性格なのだろうか。



「歩も……」



 猫は話を続けようとしたが、先程まではなかった重たい空気を纏っていた。



「歩も本当は、そんな夫によく似た性格なんです。今のあの子からは想像できないかもしれませんが。だからといって、今までにかけたご迷惑の数々が許されるわけではありません。それにあのような態度では、人が離れていくのは必然です。……ただこれもすべて、親の責任です。教育不行き届き、それどころかもう二度と、届かせることはできません。……まさか自分が、いえ、歩以外の家族全員でこの世を去ることになるなんて、想像できるはずがありません」



 西郷は身体が引き裂かれるような想いだった。どうしてこれほどまでに、生きるということも、死ぬということも、理不尽なのだろうか。


 猫はもう一度深々と頭を下げ、西郷に謝罪した。



「謝らないでください。むしろ謝るべきは私の方です。彼の担任として、何もしてあげられていない。……彼の性格だって、今初めて知ったくらいですから」



 猫は何も言わなかったが、ひたすら申し訳なさそうな表情をしていた。


 二人の間に、少しの沈黙が訪れた。冷たい夜風が互いの耳をかすめていき、そのまま校舎の周りに植えられた木々に当たり、枝葉を揺らした。乾いた葉が擦れてたり、落ちたりして奏でた音色は心なしか、悲しみを連想させた。


 沈黙を破ったのは猫だった。



「先生、先程、似たような経験をしたと仰っていましたが、どのようなご経緯で?」



 西郷は、一言一句噛みしめるようにゆっくりと話し出した。







「実は私も幼いころ、両親を事故で亡くしていまして。」



 猫は驚きと悲しみが入り混じったような顔をしたが、何も言わなかった。



「小学生の頃です。確か修学旅行中で、これからみんなでお風呂に行こうかと話しているときでした。部屋から出ると同時に担任の教師が顔を強張らせて私を呼びに来た時、まだ何も言われていないのにとても怖かったのを覚えています。これから言われる一言で、何かが大きく変わってしまうんじゃないかと。不思議とそういう予感があったんです」



 猫は今にも泣きだしそうな顔をしていたが、目を背けることはなく、真っ直ぐ西郷を見ていた。



「病院に駆け付けた時、二人は既に冷たくなっていて。悲しすぎて涙も出ませんでした。修学旅行直前に送り出してくれた二人の顔が頭の中をぐるぐる回ってずっと離れませんでした。そんな状態のまま、遠い親戚の家をたらい回しに遭う日々に身を置くうちに、私の心は壊れました。何も信用できなくなって、人と話すことを諦めました。いよいよ心が死に場所を求めだしたと錯覚しだしたとき、私の前に猫が現れたんです。母の声をした、あなたと同じ姿の猫です」



 西郷は堰を切ったように話した。本来、話を聞く立場にあるというのはわかっているのに、止まらなかった。



「終始困惑する私に、その猫は私に一つのアドバイスをしました。『たくさんの人に、たくさん甘えなさい』と。当時の私には至難の業でした。誰かを頼ったり、甘えたりするのには途方もない訓練と、慣れが必要です。骨を折って、ギブスで雁字搦めだった箇所を少しずつ動かすリハビリのような。いや、それよりもっと過酷であることは間違いありません」



 猫は一粒涙を流した。滴る涙は繊細な硝子細工のようで、落ちたら割れてしまうのではないかと思うほど儚く、綺麗なものだった。西郷は咄嗟に手を伸ばしそうになった。



「それでも」



「それでも私は生きています。一度は死に場所まで求めた心はまた、前を向いて歩き始めました。まったく元通りとはいかないかもしれません。いつまでも疼き続ける傷は、必ずといっていいほど残るでしょう。どれだけ傷ついても、心も身体も新調することはできません。ならせめて、それすらも愛おしいと思えるように、傷ごと磨いていくしかありません。きっといい味が出てくると思うんです。例えば……長年愛用している革財布みたいに」



 西郷は、ズボンの後ろについたポケットから、二つ折りの革財布を取りだした。



「まあ、こんなことを言っておきながら自分自身のことは全然磨けていないんですけど」



 西郷は一通り話し終えると、大慌てで謝罪した。



「すみません!私としたことがなんてことを。自分の昔話ばかりしてしまいました。こうして会いに来てくださっているのに」



 猫は微笑んで、首を横に振った。



「いいえ。いいんです。私の目的は達成されました」



 西郷はきょとんとした顔で聞き返した。



「達成……といいますと?この後、歩君には会いに行かれるんですよね?」



 猫はもう一度首を横に振った。西郷は、何かにすがるような顔つきで猫を説得しようとした。



「お母さん。お願いです。歩君に会ってあげてください。私は先程、リハビリだとか磨くだとか言いましたが、それには必ずきっかけが必要です。私の場合は、母の声をした猫との出会いでした。ひとりでそれらを行動に起こせる人間なんて、誰一人としていないと思っています。今の歩君にはご家族の声が必要なんだと思います。不甲斐ないですが私では……。なのでどうか、お願いいたします」



 猫は少し考えるような素振りを見せたが、またしても微笑みながら、首を横に振った。



「この姿でいられる時間は、ごくわずかです。そして、関わることができる人数にも制限があります」



 嫌な予感がしたが、西郷は聞かずにはいられなかった。



「……何人なんです?」



「一人です」



 西郷は絶句し、卒倒しそうになった。なんということだろうか。実の息子ではなく、なぜ一教師である自分なんかに会いに来たのか。理解が追い付かず狼狽した。



「なぜ……」



 猫は落ち着いた口調で言った。



「先程申し上げた通り、関わることができる人数は一人までなんです。歩に会いに行く一人は譲りました。とはいえ、やっぱり息子のことですから……気になります。とても。だからせめて、直接会えなくても何かしてあげられることはないかと思い、生活の中心であるだろうこの学校に足を運んだのです。まああの子の場合、中心といっていいのかわかりませんが……」



 猫はクスクスと笑った。笑った後、少し真面目な顔つきになり「申し訳ございません」と頭を下げ、また笑った。



「してあげられることといっても時間は限られていますし、何よりこんな姿ですから。どうすればいいか分からず途方に暮れていた時、あなたが歩のご担任だと知りました。どんな人なのかすごく気になりました。いい先生だったらいいな。でももし、子どもに仇をなすような存在だったら……これは確認しておかなければ。と思ったんです」



 猫は牙を覗かせ、肉球の間から細く鋭い爪を出し、前足を揺すってちらつかせた。悪だくみをしている子どものような顔をしたが、口元は笑っていた。



「もしとんでもない人だったならその時は、この爪で引っ掻いてやろうと思っていました。……冗談です。でも、威嚇くらいはしていたかも知れませんね。人の言葉を話す猫の威嚇、結構怖いと思います。文字通り、モンスターペアレントです。でも、その必要はありませんでした。話しかけてよかった。そして、あなたが担任でよかった。これで思う存分、歩の栄えある未来を願うことができます。これからもどうか、よろしくお願いします」



 西郷は胸の奥がジンジンと熱くなってくるのが分かった。久しく感じていなかった喜びと、この親子を想うとこみ上げる切なさが入り混じっていた。



「あの子は……歩はこれから、磨かれていくんですね。そして唯一無二の光沢を纏っていくんですね」



 ぼんやりと光っているように見えた猫の身体からは、ゆっくりとその輝きが、光の粒子となってにじみ出ていくのが分かった。



「そろそろ時間のようです」



 そろそろ時間。幼いころに出会った猫も、同じことを言っていた。西郷は、あの時の寂しさを思い出してどうしようもなく苦しくなった。



「歩の未来に、先生の未来に、幸がありますように」



 次の瞬間、猫の姿は跡形もなく消えた。まだぼんやりと、そこに暖かな空気が残っているような気がした。


 夜風に揺れる校舎の周りの木々が、カサカサと優しい音を奏でていた。

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