第6話 解ける
歩は玄関の扉を開けると、いつもと家の雰囲気が違うことに気が付いた。やけに家庭的な雰囲気が漂っているような気がした。そもそも台所に灯りが付いていることなど今までほとんどなかった。
恐る恐る廊下とリビングをつなぐ扉から頭を覗かせた。リビングの奥に見えるキッチンに叔父の姿がある。何かを温めているようだが、歩の鼻はその漂うにおいの正体を敏感に察知し、当惑した。
「どうして……」
作っているものが何かわかるからこそ、どうすればいいか迷った。ただ台所にいるだけならこちらから声をかけることもないのだが、なぜ急にそれを作ろうと思ったのか、確認せずにはいられなかった。
ゆっくりとドアを開け、リビングに入り、ゆっくりとキッチンへ近づく。正孝は歩を見ることなく、口を開いた。
「まったく……いつも帰りが遅いな。まあ、一時に比べればましにはなったか」
歩は返答に困った。これほど静かなトーンで話しかけられたことなど、ほとんどなかったからだ。
「こう見えても、結構自炊してたんだよ。特別美味いもんが作れるわけでもないけどな」
正孝はそう言いながらも、手際よく手を動かしている。最初は細い一本の筒状だった卵が、卵液を何層にも重ねられ太くなっていく。凹凸一つない、絵にかいたような卵焼きだ。グリルには魚でも入っているのだろうか。パチパチと油が跳ねる音がする。沢庵を切って小皿に一枚一枚盛っていく。途中で正孝が一枚つまみ食いをして、それと同時にポリポリと沢庵がかみ砕かれる音がした。
二つのおぼんに置かれた細長い皿に、卵焼きを丁寧に並べていく。グリルから出てきた魚は鮭だった。皮目からじわりと油が漏れ出している。二つの茶碗にご飯を軽快によそう。片方の茶碗に盛られたご飯の方が多い。あらかた並べ終えたようだが、まだ何も入っていないお椀がある。正孝は軽く深呼吸した後、ゆっくりとお椀に味噌汁を注いだ。
「よし、食うか」
◇
キッチンの前に置かれた机に二つのおぼんが置かれ、歩と正孝は向かい合うようにして座った。焼き魚、卵焼き、漬物、ご飯、味噌汁。健康的な朝食のような夕食だ。シンプルだが、あまりにも綺麗な食事に歩は目を見張った。こんなに繊細なことができる人だとは思ってもみなかった。
だが、その中でも一際目立つ料理があった。目立つといっても、それは歩以外の人間が見ても何故だかわからないだろうが、とにかく歩にとって、この料理がこの家の食卓に並ぶことが不思議で仕方がなかった。
「どうして急にこんなことを……それにこの味噌汁は」
「まあ、いいから食おう。美味いかどうかは知らんがな」
正孝は、歩の言葉を遮るようにして言った。
歩は何から手を付けようか迷っているような素振りをして見せたが、意識は完全に味噌汁に向いていた。
ゆっくりお椀に伸びた手は少し震えていた。縁へ唇を近づけると、湯気が歩の視界を遮った。その一瞬、隣からは父が、前からは、母と姉がこちらを見ているような気がして顔を上げようとしたが、お椀を傾ける手を止めることができず、味噌汁は優しく歩の口の中へ流れ込んだ。
父が隣から乱暴に頭を撫でてきて、母と姉が口を押え、肩を震わせながら笑っていたあの何気ない光景が、歩の目の前に鮮明に映し出され、湯気とともに消えた。
「どうやってこれを……」
歩は正孝の目を見ることなく、独り言のようにつぶやいた。
「どうやって……豆腐と玉ねぎが入った味噌汁だ。普通のな。教えてやろうか。作り方。まあ俺も教わった側なんだがな」
正孝は平静を装った。会社を早退してきたら家に猫がいて、そいつが急に話し出したと思ったら兄貴の、歩の父の声で、思い出モリモリ味噌汁の作り方を教えてくれた。そんなことは口が裂けても言えなかった。そもそも先程見た光景は全て、疲れが限界を超えた時にでも見る夢だったかもしれない。その可能性が高いと自分に言い聞かせていた。
「父さんか母さんに会ったのか?」
歩の口から突然飛び出した言葉に、正孝は狼狽した。会ったのか?とはどういうことなのか、頭を高速で回転させた。まさか、歩も自分と同じような体験をしたのだろうか。いや、そんなはずはない。あれはあくまでも自分が見た夢……。
あらゆる可能性が一瞬のうちに頭の中を駆けていったが、結局それらしいものは見つけられず、歩も「そういう」年頃なのだろうと浅はかに決めつけ、考えることを放棄した。
歩は、自身の放った直球すぎる質問を取り消そうかと考えたが、見るからに当惑している正孝を見て、どちらかが会いに来ていたことを確信した。おそらく半ば強引に作らせたのだと予想できたため、来ていたのは父であることを悟った。
「……この味噌汁は」
突然何かを語りだした歩を見て、正孝は背筋を伸ばした。この家に来てからある程度の時間は流れたが、歩が放つ落ち着いた声を聞くのは初めてのことで少し緊張が走った。
「この味噌汁は、俺の好物だったんだ。最初はたくさん具が入ってたんだけど、俺の好き嫌いが多くて、こんな感じのシンプルな味噌汁になったんだ」
正孝は、ツンと熱くなった鼻の奥の方から涙が上ってくるのを必死に抑えていた。
初めて聞く、歩の本当の声。凍てついた家の中の空気が少しだけ溶けていくような気がした。
「……そうか。これにそんな思い出があったとは」
正孝は全て猫から聞いていたが、知らないふりをした。「会った」などと言えば、からかっていると思われかねないし、不用意に傷つける言動も避けたい。こんな時に限って気の利いた返しができない自分が嫌になると同時に、好きな子の前でもじもじしている中学生のようで恥ずかしくなった。
「ごちそうさま」
「……もう食ったのか」
歩は育ちざかりが故か、話すことがあまりなく気まずいからなのか、あっという間に夕食をたいらげた。皿に魚の小骨が数本乗っている以外は、全ての食器がまるで洗ったかのように綺麗で、正孝は感心のため息を小さく漏らした。
「兄貴の息子とは思えんな」
小声で呟いた正孝の前で、歩はおぼんを持って席を立った。シンクまで運び、水を出す。
「待て」
正孝は声を上げた。
「洗い物はやっておく。風呂入ってこい」
歩は、首を小さく縦に振った後、ぼそぼそと独り言のように話した。
「自分で食ったものは自分で片づける。うちではそうだったんだ」
「母さんの決めたルールか」
歩はまた、小さく頷いた。
「まあ、そうでもしなきゃ子供たちはともかく、兄貴は散らかすだけ散らかして何もしないだろうしな。いいルールじゃないか。うちでも採用しよう。だがまあ、今日はいい」
正孝はそう言うと、まだ残っている茶碗に手を伸ばし、黙々と箸を進める。廊下へ続く扉まで歩いて行った歩は、扉の取っ手にゆっくりと手をかけた。
「また」
「ん?」
「また……教えてくれよ。作り方」
歩は振り返らずに言った。
「ああ、いつでも」
扉はゆっくりと閉まった。正孝は、ぼやけた目を何度か擦った。
「……玉ねぎのせいかな」
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